呂大圭伝1

侍郎呂樸郷先生大圭

呂大圭、字は圭叔、南安の人。若くして郷里の先生の潜軒王昭に学んだ。昭の師は陳北溪安卿であり、安卿は朱文公(*1)に師事した。世々温陵截派と言われた。

大圭は出仕する前、生徒数百人に学問を授けていた。淳祐七年の進士に合格し、潮州教授を授けられた。簡討(*2)に遷り、崇政殿説書、吏部侍郎になった。南方の方言ができるというので、地方に出て興化軍知事になった。中産以下の税金滞納を肩代わりした。『莆陽拙政録』を著した。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま蒲壽庚が州知事の田子真とともに元に降伏した。壽庚は大圭を捕らえ、降伏書に署名するよう強要した。大圭が拒否したので、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。大圭は家に着くと、日頃認めていた著書を泥封した一室にしまい、服を変えて海島に逃げた。壽庚は兵を遣わして追跡し、官を餌に投降を誘った。大圭はこれを拒否したため、殺された。享年四十九。部屋に泥封しておいた書物は、賊のために全て焼き捨てられた。ただ門人が伝えた『易経集解』、『春秋或問』二十巻、『春秋五論』一巻、『論語孟子集解』、『学易管見』だけは世に残った。

大圭は樸兜に住んでいたので、地元の人々は樸郷先生と呼んでいた。元の孔公俊が大同書院を建て、朱文公を祀ったとき、大圭をその門人として配享した。丘葵の賛(*3)に曰く、「泉南の名賢、紫陽の高弟、造詣すでに深く、踐履また至り、身を致して君に仕え、生を捨て義を取る。学ぶところ守るところ、公に於いて奚にか愧ずるところあらん。」

按語。黄氏の『道南統緒辨正』には「呂氏大圭は祐間の進士、歴官して侍郎となり、出でて興化軍となった」とある。『南安邑志』『旧郡志』『同安志』『莆陽志』も同じである。ただ『新郡志』だけは『閩書』に基づき、少しく異なっている。この度は黄氏の本に従って改正した。『南安邑志』、『旧郡志』、『道南統緒』、朱氏『経義考』、『閩書』、『泉郡新志藁』。(*4)

李清馥『閩中理学淵源考』巻三十三



訳者注

(*1)朱文公は朱熹を指す。
(*2)簡討は検討に同じ。ここでは実録検討官を指す。
(*3)丘葵は呂大圭の弟子、賛は文体の一種。
(*4)『南安邑志』以下は、李清馥が本記事を執筆するのに用いた資料を列挙したもの。


作成日:2009/08/01
最終更新日:2009/08/02

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