マルサスの人口論

高畠素之

1.『人口論』の由来および構造

人口論の元祖はマルサスで、マルサスが『人口法則』の著者であることを知らぬ人は少ないが、その人口論の内容は案外世間に知られていないらしい。新マルサス主義者と称する連中は、産児の制限ということを唱導するから、マルサスの人口論も多分そんなことを主張するのだろうと考えている人々もあるようだ。これは甚だしい無知で、マルサスの人口論は決してそんなものではない。なるほど産児制限という方策は、マルサス人口論から引き出せるけれども、それはたくさんある方策の中の一つに過ぎず、しかもマルサスの意向とは反対の方向にあるものである。その理由はあとで分るが、なにしろマルサス人口論の真価は、かような方策の方面にあるのではなく、それらのもののよって来る根本原理に存するのである。で、ここにその根本原理の大略を最も簡単明瞭に解説しようとするのだが、この仕事はマルクスの『資本論』を解説する場合のように困難ではない。というのは、マルサスの人口原理そのものが、非常に単純明瞭だからである。

しかし、本題に入るに先だって、マルサス『人口論』の生まれた機因と、その論文の構造とをちょっと述べておこう。

マルサスは『人口論』初版の序文の中で、この論文はもとゴドウィン氏の論文の主題、即ち氏が『研究録』の中に述べている貪慾と浪費とについて、私が一友と交換した会話に由来するものである、といっている。その一友とは、彼の父ダニエル・マルサスのことである。この親父は金もあり、ハイカラな思想も持っている申し分のない紳士で、生前ルソーと親交があり、フランス大革命の種を蒔いた改革思想の共鳴者であった。ところが、息子のマルサスはフランス流の革命思想には大反対で、殊に1793年1月におけるフランス革命党の国王死刑の暴挙およびその後に引き続いた恐怖政治を見て、その反感を深めたのである。この父子の論争を惹起したウィリアム・ゴドウィンという人は、イギリスにおける無政府主義の開祖とも見なされる人物で、1793年に『政治的正義』を、1797年に『研究録』を著し、当時の思想界に非常な反響を呼び起した。ゴドウィンはロックやヒュームやルソーなどと同様に、人間の道念というものは外部からの印象の産物に外ならないという前提に立っていた。人性は本来白紙の如きものであって、境遇次第でどうにでも変るものである。だから、社会的環境と制度とを改良すれば、罪悪と不幸とは世界から跡を絶ち、人間は完全の域に達すると彼は考えたのである。マルサスの父はこのゴドウィンの思想を受け容れたが、マルサスは大いにこれに反対で、父との論争から、彼はその主張を文章に現して世に問わんと思い立ち、ついに1798年に匿名を以て『人口論』の第1版を公にした。

この『人口論』第1版は、その目的からして当然論争的な調子が濃く、性急と偏頗とを免れなかった。マルサス自身も後にこの欠点を認め、1803年に出した第2版では、それを修正し、その上になお新しい内容も豊富に加えて、第1版とは全然面目を異にするに至った。その後マルサスの生前に『人口論』は第6版まで出たが、いずれも第2版の内容と大差なく、各版ごとに多少の増補修正を重ねただけであった。そして現今世間に行われているのは、その第6版である。

ところで『人口論』の構造だが、この書物は全4編より成り、第1編では人口の一般原理を述べて、過去現在の各種の社会の人口制限の観察に及び、最低段階の人間社会から始って、インディアン、南洋諸島土人、北欧古代の住民、近世の牧畜民、アフリカ諸地方、南北シベリア、トルコ諸領およびペルシア、インドおよびチベット、支那および日本、古代ギリシア、古代ローマ等の住民間における人口制限の実例を面白く述べている。第2編では第1編を承けて近世ヨーロッパの諸国民の人口制限について観察を下し、幾多の統計を利用している。第3編ではゴドウィンおよびコンドルセーの平等主義を反駁し、移民政策および救貧法を論じ、重農主義、重商主義、農商並行主義などを論じ、穀物法を論じ、社会の富の増加と貧民状態との関係を論じている。そして第4編では道徳的抑制の義務を力説し、貧民の状態を改善せんとする各種の提案に批評を下し、自己の改善案を提出している。

2.罪悪と貧困の根本原因

ゴドウィンやその他の理想主義的社会思想家は、社会に罪悪と貧困が存在するのは、社会に正しからぬ制度が行われているからだと認めたが、マルサスはこの説に反対して、罪悪と貧困の真の大原因は他に存し、これに比べれば社会制度の如きは水に浮ぶ一枚の羽毛のようなものだと言う。では、その真の大原因とは何かといえば、人間は準備された食物以上に増加しようとする不断の傾向を持つということである。マルサスはまず二つの前提から出発する。

1.人間は食物がなくては生存し得ない。
2.男女間の情慾は古来変化がなかったし、将来もまた変らないであろう。

第1の命題は、もちろん何人も異論がないであろう。しかし、第2の命題は、必らずしもそうでない。現に、人間の文化の程度が進むにしたがい、欲望の種類が多くなって、性慾方面に支出されるエネルギーの量が減殺されるという説も相当に行われている。ゴドウィンも性慾不変説には反対で、性慾は将来減退するだろうといい、性慾をこき下ろすために、性慾から一切の付属物を取り去れ、そうすればそれは軽蔑すべきものになるだろうといった。マルサスはこれに対して、ゴドウィンの言草は、樹木から一切の枝葉を取り去れ、そうすれば裸柱に何の美があるかというに等しい。我々は単なる女というものに惹きつけられるのではなく、優雅な挙措や、つつましい心情や、美しい姿をもった彼女に惹きつけられるのだといって、一矢酬いている。そして、人間は清い愛情に刺戟されている時ほど、道徳的になり、英雄的になる場合は滅多にないといい、男女間の情慾の必要を主張している。マルサスは罪悪と貧困との原因を人口の増加に求めるのだから、男女間の情慾を排斥するのだろうと推量されるかも知れないが、それは誤りである。

男女間の情慾が不変であるとすれば、結婚の形式は如何にあろうとも、当然子供が生まれてくる。女が20歳前後で結婚すれば、一生のうちに5,6人くらいは子を産む。もっと早く結婚すればもっと多く産むし、晩く結婚すればそれだけ少なく産む勘定だ。が、とにかく、一組の夫婦は、自分たちよりも数の多い人間をこの世に送り出すから、人間の頭数は次第に殖える一方である。ところで、この殖える人間を養うべき食物の方はどうかといえば、食物ももちろん増加して行くが、マルサスの主張によれば、人間ほど速かに増加する力は持たない。そこで、人間は生まれてきた者に食物をあてがってやることができぬという、苦しい破目に陥らざるを得ない。

この悩みはひとり人類だけが持つものでなく、すべての生物に共通している。マルサスの引用しているフランクリン博士は、動植物は群集して相互の生活資料を犯すため蕃殖を制限されるが、それ以外に彼等の蕃殖性を制限するものはない、といい、またもし地球上に他の食物が存在しないと仮定すれば、例えば茴香の如き一種類の食物が次第に蕃殖して遂には全土を覆うに至るだろうし、また他の国民がいないと仮定すれば、ただ一つの国民、例えばイギリス国民といったようなものがわずかの間に全地球を埋めてしまうだろうといった。これは争う余地のない真理であるが、すべての動植物はその生存上必要な場所と養分とを無限には持つものでない。それで、その無限の蕃殖力は、場所と養分の許す範囲内でしか発展することができず、その範囲以上に出る部分は何かの形で抑圧を受けねばならない。

植物と人間以外の動物との場合には、問題は簡単である。彼等は全く盲目的に生殖本能を働かせ、生れた者が場所と養分を得られるかどうかを顧慮しない。だから、ひまさえあれば蕃殖力が作用し、そしてその作用の結果、多すぎるものが生れてくれば、生れた後に場所と養分の欠乏のため死滅する。

しかし、人間の場合はそう簡単にはいかない。人間には将来のことを慮る理性というものがある。だから、人間も、動植物と同様に強力な生殖本能を有するけれども、理性はこの本能の自由な活動を牽制し、子供が生まれたとき自力で扶養し得るか否かを反省せしめるのである。そこで、結婚を見合わせたり、結婚後産児を制限したりする方法がとられるが、それにはしばしば罪悪が伴う。しかし、こういう予防的の制限は、将来はともかく、過去現在の社会では不充分にしか行われないので、人間も動植物と同様に生まれた後に食物欠乏で制限されることになる。人口が食物の分量よりも多くなれば、社会のどこかの部分に食えない人ができる。平等主義者の主張するように、食物をすべての人に平等に分配すれば、すべての人間が食物不足に苦しむことになる。しかし、財産私有の行われる社会では、運の悪い連中が食物不足に苦しむことになる。

3.食物増加率と人口増加率

人間は食物がなければ生存し得ず、食物増加のないところには人口増加もあり得ない。ところで、人口の増加率が食物の増加率よりも速やかなことは過去現在の各種の社会を観察して見れば分る。しかし、そうしないでも、最も都合のよい条件の下で人間はどのくらいの速度で増加するかということを考え、また人間が最も都合のよい事情の下で働らくとして、土地の生産物はどのくらいな速度で増加するだろうかと考えて見れば、問題は明白に了解される。

マルサスは、人口増加が妨害されなかった場合の増加率を推定する便宜として、アメリカ合衆国の実例を採用している。アメリカの北部諸州においては、近世ヨーロッパの諸国に比べて、生活資料はヨリ豊富であり、人民の風俗はヨリ純朴であり、したがってヨリ容易に早婚が行われたので、人口が25年ごとに倍加した。しかもある都会では死亡率が生産率に超過した場合もあったくらいだから、平均の上で、この欠損を埋め合わせるところの田舎の出産率は、ヨリ高かったと見ねばならぬ。実際、農業を唯一の仕事とし、悪習や不健全な職業のない奥地の方では、人口が15年間に倍加した事実さえ知られている。しかし、この異常な増加率でも、恐らく人口増加力の頂点を示すには足りない。アメリカ移住民たちは、処女地を開拓してその食物を増加したのであるが、処女地の開拓は非常に骨の折れる労働だ。そういう労働は、一般に生命を縮める傾きがある。そして彼らは、ときどき猛悪なインディアンの襲撃も受けたろうし、その結果、なにほどかの人命が奪われ、あるいはとにかく、収穫を荒らされたに相違ないのである。

サー・ウィリアム・ペティは、人口はわずかに10年という短期間に倍加し得ると想像した。しかし、マルサスは、以上の実例に基づいて人口倍加の期間を25年としたら、最も内輪な安全な断定であろうといっている。

ところで、土地の生産物はどのくらいの率で増加するか。マルサスはこの問題の考察上、一つの重大な経済学説を認めた。それは即ち、収穫逓減の法則というもので、彼はこの法則を明確な形では言い現さなかったけれども、次のように述べている。曰く、耕地が次第に拡張され遂にすべての肥沃な土地が占有されるに至れば、食物の年々の増加はどのみち既耕地の改良に俟つほかはないが、この資源は、すべての土壌の性質からして、逓増しないで逓減して行くと。

人間が殖えるに従い、従来顧みられなかった荒蕪地でも耕作が行われるようになる。日本のような人口稠密な国では、山の上にまでソバ、粟などという粗末な食物を植えている。しかし、こういう瘠地からは、労働と資本とを多量に投じても、その割合に多くの食物がとれないことは分り切っている。無暗に荒蕪地を開墾するよりも、その労働と資本とを肥えた既耕地に投じた方が割に合うことが認められているが、そうすれば前述の『収穫逓減の法則』が働き出す。つまり、既耕地の改良や施肥などのために、今年ある分量の資本と労働とを追加して5石の収穫増加を得たとしても、来年さらに同一量の資本と労働とを追加しても5石といふ収穫増加は得られず、その翌年の追加資本および労働はさらに少量の収穫増加しかもたらさない。土地の生産物はこういう性質を持っているから、一定面積における土地生産物の増加率は、人口増加率のように断定することはできない。しかし、マルサスは次のような説明を与えている。

イギリスの農業は大変発達しているけれども、まだまだ進歩の余地はある。そこで、仮に、最善の政策を採用して、大いに農業を奨励することにより、この島国の平均産物が25年で2倍になると仮定する。これは、合理的に考え得る最大の増加だろう。その次の25年間に、生産物が4倍になると考えるのは、土地の性質に関する我々の知識に反する。そこで、今仮にこの島国の生産額は25年ごとに、現在の生産額に等しい分量だけずつ増加して行くものと仮定する。いかに熱心な空想家でも、これ以上の増加を想像することはできまい。ところで、この増加が行われるとすれば、数百年のうちにこの島国は隅から隅まで花園のようになってしまうだろう。もしこの仮定を全地球に適用し、地球の与える人間の生活資料が現在の産額に等しい分量だけずつ25年ごとに増加して行くと認めるならば、それは人間の努力で作り得る可能な増加率よりも、はるかに大きな率であろう。それ故、地球の食物産出量は、人間が働くに最も都合のよい事情の下にあっても、等差的に増加するに過ぎないと断言してよい。

かくして、人口は等比的に増加するのに、食物は等差的にしか増加しないということになる。即ち、人口は1,2,4,8,16という風に鼠算で増加するのに、食物は1,2,3,4,5という風に、1単位だけずつしか殖えて行かないのである。

以上2個の増加率をつき合わせて見ると、大変な結果が現われてくる。イギリスの人口を1,100万とし、現在の生産額はこの人数を容易に養い得ると仮定しよう。最初の25年間に人口は2,200万となり、食物もまた倍加する。次の25年間には人口は4,400万となり、食物はただ3,300万の人口を支えるに足るだけとなる。その次の時代になると人口は8,800万となり、食物はちょうどその半分の人口を支えるに足るだけになってしまう。そして100年後には、人口は1億7,600万となるのに、食物はわずかに5,500万の人口を支えるに足るだけとなり、1億2,100万の人口は全然食物を与えられないことになる。

イギリスという島国を離れて、全世界を眼中に置く段になると、移民による過剰人口の処分などは問題でなくなる。仮に、現在の世界人口が10億であると仮定すれば、人類は1,2,4,8という率で増加し、食物は1,2,3,4という率で増加するのだから、2世紀の後には人口対食物の比が256に対する9となり、3世紀後には4096に対する13となり、2000年も後にはこの差はほとんど勘定もできぬほど大きくなってしまう。

右の通り人口増加の勢いは、食物増加の勢いよりも優勢なのであるが、人間は食物なしには生活はできない。そこで、この優勢な人口増加力は、必らずやなんらかの制限作用によって、食物増加の速度と歩調を一致せしめられねばならない。

4.人口に対する制限の種類

前述のように人口増加は、人口と食物の増加率に差異のあるため必然的に生ずるところの食物不足によって制限される。しかし、この窮極的の制限は、飢饉という場合を除けば、直接的には現われるものでない。人口はこの絶対的な制限を受ける以前に、種々の原因から直接的の制限を受ける。この直接的制限をなすものは、生活資料の不足から生ずると思われる一切の習慣と疾病、それからこの不足とは関係がないけれども人体の衰弱と死亡を早めるところの一切の道徳的物質的原因である。

これらの人口制限は、強弱の差こそあれ、いかなる社会にも作用していて、人口を生活資料の水準に抑止するのであるが、大別して積極的制限と予防的制限とに分けることができる。即ち、生れ来る人口を阻止する防禦的の制限と、既に生まれている人口を減らす積極的の制限に分類し得る。

積極的制限の中には極めて沢山の種類が含まれ、罪悪から起こるものにしろ、貧困から起こるものにしろ、とにかく、人間の自然的寿命を縮める一切の原因がこれに属する。だから、この制限の中には、すべての不健康な職業、苛酷な労働や寒暑の害、極端な貧乏、小児の栄養不良、大都会、あらゆる種類の不節制、あらゆる普通病および流行病、戦争、伝染病、飢饉などを挙げることができる。

予防的制限は、それが有意的である限りでは人間に特有のもので、将来を慮る人間の優れた理性に基づくものである。しかし、この制限は、人間の自然的欲望を抑制するのであるから、その抑制に罪悪が伴わぬと仮定しても、人間にとって一の害悪には相違ない。この抑制に罪悪が伴う段になると、そこから生ずる弊害には甚だ著しいものがある。性道徳の頽廃が社会に瀰漫すると、その結果、必然に家庭の幸福が乱され、夫婦親子の情愛が弱められて、社会一般の幸福と道義とが大いに損なわれる。殊に私通は、色々な他の罪悪を招く。

以上の積極的予防的の人口制限は、これを別の見方で分類すると、道徳的抑制、罪悪、貧困の三者に分れる。予防的制限の方面では、変則的な性慾満足を伴わずに行われる結婚の抑制が、道徳的抑制に属する。乱媾、不自然な情慾満足、夫婦の性冒涜、私通の結果を隠蔽する不正手段等は、明らかに罪悪に属する予防的制限である。

積極的制限についていえば、自然の法則から必然的に来るように見えるものは、いずれも貧困に属するといってよい。そして戦争、不節制の如く、明らかに人間自身が作り出すもの、その他、人力で避け得る多くのものは、混合的性質を持っている。即ち、それらのものは、罪悪によつてもたらされ、その結果は貧困を生ずるのである。

5.人口制限の作用方法

以上に挙げた積極的予防的の諸制限はより集って、人口に対する直接的制限を形成する。人口の増加力が充分に現われていない国、即ち25年以内に倍加するような増加速度を示していない国には、必らずこれらの諸制限中のいずれかが、なんらかの程度で作用している。しかし、この作用があるにもかかわらず、人口が生活資料の範囲以上に増加する不断の傾向を持たぬ国はほとんどない。この不断の傾向が、絶えず下層社会を貧困に陥れ、彼らの境遇の目立った永久的の改善を妨げているのである。

現在の文明社会の状態では、右の結果は次のような過程にしたがって生ずる。今、ある国の生活資料はちょうどその人民を支持して行くに足るだけあるとする。人口増加の不断の傾向は、この場合にも、生活資料の範囲を超えて人民の数を増加させる。そこで、以前に1,500万の人口を支持した食物は、今や1,600万の人口に分配されねばならぬことになる。したがって貧乏人はますます貧乏となり、その多数は非常な困窮に苦しまねばならぬ。労働者の数は市場における所要労働量に比し多すぎることになって、労働賃銀は下り、一方では食料品の価格が騰貴する。したがって、労働者は前と同じだけ儲けるのに前よりは余計に働かねばならぬことになる。こういう困難の時期には結婚数は減少し、家族を扶養することは困難になるから、人口の増加は緩慢となる。その一方では労働賃銀が安く、労働者があまるほどあり、労働者が一層精勤をはげむという事情が相合して、やがて農業家をしてヨリ多くの労働者を雇傭して新らしい土地を開墾せしめ、既耕地を改良せしめることになり、ついには人口と生活資料との割合が最初と同じ比例になる。そうなれば、労働者の境遇は再びかなり良くなって、人口に対する抑制はある程度まで弛められる。こうして、人民の幸福に関する逆転進転の運動が繰り返されるのである。

以上の説明は大体においてマルサスの説明をそのまま移したのであるが、この説明はかのドイツの社会主義者ラッサールによって『賃銀鉄則』と名づけられたところの経済学説の萌芽と見なし得る。この学説はマルサスと同時代の経済学者、デビット・リカルドも説いたところであるが、マルクスは『資本論』の中、産業予備軍を論じている場所で、この説を論駁している。

余談はさておき、再びマルサスへ帰ろう。右に述べた進転逆転の運動は、あまり判然と人の目に映らない。それにはいろいろな原因がある。在来の歴史が、単に上層階級の歴史に止って、この進転逆転の運動が主として起こる下層社会の歴史的事実につき、信頼するに足る説明材料を我々はほとんど持たない、ということも、その原因の一つなのである。それから、変動の時期そのものが、いろいろな介在的原因によって不規則にされるという事情もある。その介在的原因というのは、例えばある製造業の勃興または衰退、農業上の企業的精神の盛衰、年の豊凶、戦争、流行病、救貧施設、移民、その他類似の諸原因である。

殊に、この変動を曖昧ならしめる重大な原因は、労働の名目上の賃銀と実質上の賃銀とに差異のあることである。労働の名目上の賃銀が一般的に下落するということは、極めて稀にしか起こらない。しかし、食料品の名目上の価格が高くなっているにもかかわらず、労働賃銀の方はいつまでも同じでいるという現象はしばしば見るところだ。これは実質上からいえば労働賃銀の下落であって、こういう状勢が続く間は、下層社会の境遇は漸次に悪くなる。だが、資本家の富は、労働の実質上の賃銀が低廉なためにますます膨張する。資本が膨張すれば、ますます多数の労働者を雇うことができる。しかし、人口の増加は、実質賃銀が安く家族扶養が困難なために妨害されるから、一定の期間を過ぎると労働の需要は供給に超過し、需要供給の法則にしたがって労働賃銀は騰貴することになる。このように、労働賃銀は名目上少しも変動しないのに、実質賃銀が、したがって下層社会の状態が、進転逆転の運動を行うということもあり得る。

賃銀労働などというものの存在しない野蛮社会にも、右と同じ性質の変動が行われることは疑われない。人口がほとんど食糧の極限まで増加すれば、あらゆる予防的ならびに積極的の制限が活動を開始して、性に関する悪風が流行し、捨児や嬰児殺しが増加し、戦争と疫病の発生する機会が多くなり、またその惨害程度も甚だしくなる。そして、人口に対するこれらの制限作用は、人口が食物の水準下に減ずるまで継続するが、そのために食物がいくらか豊になると、再び人口の増加が始まる。そして、一定期間を過ぎると、再び前のような原因でその増加が阻止される。

以上の理論はどう考えても明白確実であって、これを否定する理屈は思い当たらない、とマルサスは主張する。そして、彼は、その理論を次の3つの命題に約した。

1.人口は必然的に生活資料によって限定される。

2.人口は、非常に有力かつ明白な制限によって阻止されない限り、生活資料の増加に伴って必らず増加する。

3.これらの制限、および優勢な人口増加力を抑圧してその結果を生活資料の水準に抑止するすべての制限は、道徳的抑制、罪悪、貧困のいずれかに帰属する。

マルサスは、この命題の第1は説明するまでもないことであり、第2と第3とは、過去現在の社会における直接的制限を観察することによって充分確証され得るとなし、最低段階の野蛮社会から始めて、順次に各種の社会の歴史的統計的研究に進んでいる。

この歴史的統計的研究は非常に克明で、詳細を極めているが、結局、次のような結論に達する。男女間の情慾というものは、いついかなる社会でも、ほとんど同じ強さのものであると思われる。しかるに、その結果たる人口増加に対しては、常に必らずいろいろな方法で制限が加えられてきたのである。野蛮人の社会においては、戦争が最も有力な制限であった。そして、野蛮の域を脱した、かなりに文明程度の進んだ社会でも戦争はときどき起こり、そして下層民の間には絶えず周期的に流行病と飢饉が起こって、これらのものが最も有力な人口制限をなした。社会の進歩につれて戦争の機会は少なくなり、衛生施設は発達し、都市は改善され、さらにまた土地生産物の分配法も改善されたために、流行病、飢饉の惨害も大いに緩和されて昔ほどは頻発でなくなった。そして、その代わりに予防的制限が盛んに行われるようになった。

しかし、現在の状態では、この予防的制限にはしばしば罪悪を伴っている。結婚延期の期間中、道徳を守るという道徳的抑制の部類に入る予防的制限は、現在では男子の間にはあまり行われていないが、それも社会の進歩とともにだんだん行われるような傾向を示している。女子についていえば、近世の文明国では生涯のかなり長い期間を道徳的抑制を守りつつ送る者の割合が、昔に比べて、あるいは文明の遅れた国々に比べて、はるかに多くなっていることは確かである。とにかく、結婚の結果を考慮して、結婚を延期するという一般的意味における予防的制限は、文明になればなるほど有力に作用し、積極的制限は漸次に駆逐されるといって差し支えない。これは喜ぶべき傾向で、家族扶養の見込が充分に立つまで結婚を見合わせ、しかもその間、厳格に道徳的行状を守るのは、神と社会とに対する人間の義務である。

6.マルクスのマルサス説批評

最後に、マルクスのマルサス説批評をつけ加えて、この稿を畢ることにしよう。マルクスは『資本論』の中で、かなり激越な口調を用いてマルサスを罵倒している。マルクスは動植物界における生存競争は認めるが、人間界には、マルサスの主張する如き人口原理は適用しないという。各時代の生産事情はおのおの特有の人口法則を持つもので、永久不変の抽象的な人口原理などというものはない。現代における人口過剰の現象は、資本主義経済の所産であるとマルクスは主張する。

マルクス説の立場からすれば、現代の過剰人口には2通りの意義がある。第1は資本主義経済そのものに直接相伴うところの恒久的過剰人口、他は資本主義経済に必然相伴う現実的投資の伸縮によって増減せしめられるところの一時的過剰人口である。

資本主義の下における産業の発達は資本の蓄積と表裏している。蓄積とは社会全体の資本がヨリ大となることである。生産力の発達はヨリ大きな資本の充用を意味し、ヨリ大きな資本の充用は生産力の発達をも意味する。ところで、資本が拡大されて生産力が増進するということは、資本中の生産機関(機械、建物、原料)に充用される部分(マルクスのいわゆる不変資本)が増大して、労働者雇傭に充用される部分(マルクスのいわゆる可変資本)が相対的または絶対的に減少することを意味する。即ち、資本の蓄積が進み、生産が発達するに従って、労働者の雇傭に投ぜられる資本部分はますます減少してくる。これがため、雇傭されない、職を得られない不断の労働者人口が造り出される。資本主義の発展とともに機械経営が発達して、熟練技術の必要を駆逐するという傾向も、この過剰労働者群の拡張に貢献する。なぜならば、この場合には、労働が容易になって、未熟の婦女、幼童も一人前の労働をなし得るようになり、労働軍の範囲が拡大されるからである。かくして、恒久的の過剰労働者群が造り出される。この労働者群は軍隊の予備軍のようなもので、資本家は必要に応じて自由にこの予備軍の中から労働者を召集し、不用になれば自由にこの予備軍中に放り込む。けれども、この過剰人口は、マルサスのいう如く人口が食物以上の急速力で増殖する結果ではなく、反対に物資の生産力が労働者雇傭に充用すべき資本部分以上の急速力で増大する結果なのである。

第2種の過剰人口は、現実的投資の伸縮につれて増減する。現実の投資は、産業界の景気の如何に応じて、絶えず伸張したり収縮したりしている。それが伸張した場合には労働需要も殖えるが、需要の殖える割には賃銀は昂騰しない。殖えた需要はまず恒久的予備軍を以て充たし得るからである。この予備軍の全部を以てしてもなお、充たし得ないという程に労働需要が殖えることは、戦時その他異常な場合を除いては滅多にない。投資が収縮して、労働需要の減少した場合には、過剰となった労働者は無造作に予備軍の中へ放り込まれる。要するに、現代の過剰人口というものは、実際に生活資料が不足だから生ずるのではなく、資本主義経済がこれを造り出しているのである。

このマルクスの人口論が、どの点まで真実で、どこまで無理があるか、その判断は読者に任せるとして、ここにはただマルサス人口論紹介の尻尾を飾るために、マルクスの言い分をザッと掻い摘んでおくに止める。なお、マルクスの人口論については、拙訳『資本論』(改造社版)第1巻602頁以下を見られたい。


底本:『改造』第九卷第十二號(昭和二年十二月。「大衆講座」の一つ)

注記:

本データは原文を新漢字新仮名遣いに改めた「高畠素之選集」です。旧漢字旧仮名遣いのデータは「偏局観測所(旧版)」をご利用ください。

改訂履歴:

公開:2007/08/12
最終更新日:2010/09/12

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