学界に与える公開状

高畠素之

学界に与える――といっても学界なお文壇のごとく、あるといえばあり、ないといえばない。しかし世間で通用する限り、あるといった方が無難であろう。学界の一メンバーとなるにはあえて規定された手続を要せざること、あたかも文壇人となるに何等の形式を要せぬごとくであるが、読まれざる小説書きが文壇人と認められぬように、学問で衣食する人必ずしも学界の人とはいえない。教壇にチョークの粉を払うこと何十年に及んだところで、毒にも薬にもならぬ淡水のような文句を反覆していたのでは、世間も彼を学界の一人と認めることを憚る。そこは案外世間の正直なところで、学問の本質上からいっても、まさにしかるべき道理であろう。なんらかの意味において、大なり小なり、世間の現実的進歩に貢献するところのないような学問は、学問とはいい難かろう。

ところで、私がここにいう学界も、ほぼ右の制限内に置かれる。しかも広い意味での社会問題と密接な交渉をもつところの諸学、なかんづく社会科学の分野を主とする。

しかし、社会科学の学徒といえば、すべて学界の人であるとはいえない。この分野の学徒にも、一向社会へ顔を出さず、講壇に閉じこもって学生という強制需要者に、レディ・メイドの章句を切り売りするに止まる蓄音器のごときものもいるからである。

人口過剰の文学志望者の中から、文壇の一人にまで出世するものには、どこか長所がなければならぬはずだが、同じ道理は学界にも適用される。学問的職業に従事する人間の数は、数の子の粒ほど多いけれども、生きた世間を相手にし、相手にもされようというからには、どこか優れたところがなくてはならぬ。

学生が学校でものを教わるのは、学問そのものを修得するのが目的というよりも、むしろ卒業証書を得るのが目的で、その目的のための止むを得ざる手段として、無味退屈な講義にも出席するのである。学生にものを教えるのは、囚人に飲食を給するのと大した相違がない。四分六のハト飯だろうが、大根の葉ッぱだろうが、学生はこれを甘受するほかはない。

世間を相手とする場合には、事情が大いにちがってくる。世間は誰の供給する学問を選択すべきかについて、全く自由である。そこには自由競争の学理が作用する。いかに博士で候のといったところで、実際に效用のない代物は世間でハナもひっかけぬ。いや、博士のレッテルが舶来のレッテルとともに、商品の内容的価値をごま化し得た時代もあったが、世間の学問的水準が向上し、博士学士がめずらしくなくなるに従って、次第に瞞着がきかなくなってくる。今日なお博士のレッテルは多少の瞞着的效果を持つにしても、馬脚を看破される機会は多くなっている。

数の子的学徒の多くは、意識的あるいは無意識的にこの事実に気づいているから、教壇に閉じこもって街頭に出ることを恐れる。教壇に閉じこもって、小僧達を相手にしている分には、ボール紙の鎧も鉄の鎧らしく見せかけることができるが、世間の実際戦場に打って出れば紙製の鎧はたちまちその本性を暴露し、満身矢玉を受けてへたばるのほかはない。法学博士と称する某氏のごとき、労働者といえどもハッピの一枚ぐらい持つからには無産者でないなどと唱えて一世の物笑いを招いたことは、有名な話である。

かようなわけで、私のいう学界の人は、いずれも生きた世間を相手に、学界の前線に立って活動している人々であるが、これらの学者を分類すると、アカデミー派と浪人派の区別がある。即ち在朝在野で、一方は大学・高校などに教授として録を食むもの、他方は市の学徒として、裸一貫の自給自足を営むものである。もっともこの浪人派にも、生えぬきの浪人と、天降り的浪人とがある。生えぬきの浪人とは、学校教育というべき種の教育も受けず、したがってなんらの学校的背景も持たぬ独学的一派で、天降り的浪人というのは、学校畑に育ってアカデミーの一員となったものが、仔細あって浪人の仲間入りしたものである。浪人派とアカデミー派を数的に比較すると、アカデミー派は遥かに浪人派を超え、また浪人派中の二小派を比較すると、天降り一派の数は遥かに多く、生えぬきの浪人派はいたって少ない。

昔は異学の禁などということがあり、官学を保護奨励したが、明治政府は下は普通教育より上は大学教育に至るまで、一切の段階を官僚的に組織化し、学問は学校で学ぶべきもの、学問の卸元は学校ということにしてしまった。で、学問を志すものは学校の門をくぐるのが早道であり、なんらかの事情で校門をくぐり得ないものも学校の学問を目安にし、教壇に立って生徒を教えることは学者の本懐とされるに至った。あらゆる研究機関がほとんど学校に独占されている状態の下では、学生たり教授たることが学問研究上絶対の便宜を有する。ただ、順当に学校の過程を踏むには、多額の学資を要するから、プロレタリアの子弟に生まれたものは、この便宜から除外されて独学と出かけるほかはない。相応の学問を究めて、それで身を立てる段になっても、著述一点張りで生活費を得ることは容易でなく、教職に就くことが一番安全である。その上になお高等官何等の役人的肩書きも少なからぬ世間的效用と魅力とを持つ。それやこれやで、学問で身を立てようとするほどのものは、相率いてアカデミーに流れ込むこととなり、現在目ぼしい学徒の大部分がアカデミーにいるか、あるいはアカデミーから浪人組に天降ったものであるのは、これは自然的結果といって差し支えない。

学問的楽園たるアカデミーから天降って、浪人組の仲間入りをした人々の中には、上司と意見合わず奮然野に降った人もあろうし、新聞社などの招きに応じて名を捨て実を取った人もあろうし、また色恋沙汰その他の原因で止むを得ず野に降った人もあろう。こういう人々がぽつぽつ蓄積して今日の浪人派学徒の大部分を形成しているのだが、殊に最近の共産党事件は、天降り人種の大量生産を行って、一気に浪人組の膨張を遂げさせた。

学界におけるアカデミー派と浪人派は上述のごとくであり、両派それぞれに右傾分子もあり左傾分子もある。けれどもかたぎの上で、両派の間には対立的の特色があり、浪人派は一体に苦労人多きを以って、思想も独りよがりでなく、表現に通俗半明を期する努力がある。一方アカデミー派はお坊ちゃん流の独りよがりと難解専門的な表現とを特色とし、前者をジャーナリスティックといえば、後者はナマ学究的と称すべきであろう。浪人派の中でも、アカデミーから天降った一派は、この学究的臭味がなかなかぬけず、殊に新来の天降り一派ときては、むしろその臭味を強調することによって氏育ちの素性を誇ろうとする傾向が見える。これはアカデミーの特色を伝承するもので、本来の浪人派かたぎと区別すべきである。

一体、学問の自由尊厳や研究の神聖を喋々し、その神殿に仕える学者をひどく偉い者のように考えさせるのは、アカデミー学者の通弊である。古くはかの森戸事件、佐野事件といい、近くは共産党事件といい、大学や高校にことあるつど、学問の自由や研究の神聖が叫ばれているが、これは極めて得手勝手の我田引水論と申すべきである。国家は国家自身の存在に有害と認めたいかなる思想、いかなる行動をも、憚るところなく国権を以って抑圧し得る。日本国民は誰一人として、国家が有害と認めた思想や研究の独立自由を与えられているものはない。しかるに大学の学生や教授だけにその自由を与えよというのは、国情の一視同仁を否定して、特権階級の治外法権を作ろうとするものである。元来、大学は国家の設立または保護にかかるもので、教授は国家によって衣食を給され、学生は月謝相応以上の便宜を、国家によって与えられている。その点からいえば、教授学生は常人よりも一層窮窟な国家の監督を受けてしかるべき道理である。しかるに保護だけは国家から受け、研究の方は自由にさせろという。それでは、めしだけはお前のものを食わせろ、行動は俺の勝手にさせろというに等しく、はなはだ虫のよい了見といわねばならぬ。

学問の自由とか、研究の神聖とかいう、虫のよい要求も、畢竟するところ、学問をなにかしら特別の存在のように思わせ、それで結局学問を高く売ろうという有意無意の動機に出ずるものであろう。その意味で、学問は高尚なもの、常人には容易に解らぬものと信ぜしめる必要もあるのだろう。解っても解らなくても、月謝のため、卒業証書のため、先生のしゃべることを鵜呑みにすることを第一と心がける学生を日常の相手としている教授諸君は、往々にして文章は他人に読ませるものだということを忘れがちになるらしい。そこへもってきて、上記のような必要が加わるとなれば、ますます難解の輪をかけるのは当然である。学界のだれかれと指名するまでもなく、私などが相当の尊敬を惜しまない学者でさえ、その文章の難解の故に少なからず学殖的価値を割り引きされる場合がある。私はかつてある学者のある論文に関し、こんなことをいったことがある。『あの論文は一読して十分に意味が呑み込めなかった。再読して大部分は無駄文字ではないかということに気づいた。ただその無駄文字が、まわりくどく難渋であるため、一見無駄文字たることを発見するに困難であるというにすぎないような気がした。無駄文字をも難解にすることが、学者の尊厳であるか、学者は学問の卸元であって、常人はただ学者の紹介を通してのみ学問の小売を受くべきものだとしているかも知れないが、それなら鍍金を真物のようにして売りつけられた顧客は、憚るところなく文句を言うべきである。読者がボヤボヤしているから、学者や発行者は図に乗って偽物の販売に深入りするのだ。解らないことが、読者の頭の悪いせいばかりだと思っておとなしく瞞着されている限り、学者の淘汰は到底望まれない』と。

浪人派の中でも、天降り分子はアカデミズムの風が抜けず、つまらぬ宣伝にもペダン振りをヒケラかす。殊に鼻持ちのならないのは、例の大学的マルクス小僧どもだ。やれイデオロギーの、弁証法のと、呂律も定かならぬ舌での直訳的公式口調は、いかにも拙者は学者でござるという風が見えて、見るも胸悪くなる次第である。そのまた尻馬に乗ってワイワイ騒いでいる親がかりのボーイたちを見ると、人の子の親たるまた難いかなとつくづく感ぜざるを得ぬ。

近頃は法文の民衆化ということさえ唱えられている世の中だ。何々スルコトヲ得の片仮名書きを、感じの軟らかい平仮名にあらため、入れるべき句読点を入れ、努めて平明な解し易い文句を用いようというのだから、その心がけを讃めてやらねばなるまい。法文をかく民衆化したからとて、法律の效力が底下するわけもなく、法官の威厳を損ずるわけでもない。むしろ旧弊の臭気満々たる従来のごとき法文は、進歩的な民衆の軽蔑を招く所以にほかならない。同じ意味で、世間の学問的水準が向上した今日では、もはや文章の難解やペダン口調の駆使によって学問的尊厳を高からしめることは時勢遅れといってよかろう。まだまだ旧来の風習が残っているは相違ないが、民衆の常識はますます向上するし、難しそうな外観で内容のたわいなさを胡魔化そうとする政党宣言に類した学問的論著は、やがて世間から見向きもされぬ時勢がくるだらう。

親の脛をかじり通して学校畑の温室に育ったアカデミー学者は、世間知らずで、学問を生活実感から引き離して公式的なものにしたがる通弊をもっている。支那出兵だといえば、それ帝国主義だと一も二もなくレーニンあたりの口吻をそっくりそのまま担ぎ出し、巡査に撲られたと聞いてはすぐに資本家の走狗と罵り、支那と日本の特殊関係も、巡査が血の気の通う人間だという事実も、一向反省しようとしない。自分の事業は独裁主義でやっていながら、世間に向っては平然とデモクラシーや自由主義を高唱する。理論が自分の生活実感から離れていても平然でいられる。世の中の一切万事を、一つ覚えの公式的理論の型に嵌め込んで解決しようとする。その嵌め込みが無理でも矢理でも一向お構いなし。ひとりでいい気に納っているところは、いかにもお坊ちゃんらしいご愛嬌である。

ところが、こういうお坊ちゃんでも、人間的動機においては凡人と少しも異ならず、利に敏く、至ってエゴイスチックである。この点はどうしてなかなか偶に置けない。閥的野心、独占慾、利害心、などは、常人の思い及ばぬ点にまで発達している。

学界における閥的勢力争いに関しては、多言を費すまでもなく、世人がよく知っている。政界における党閥、財界における財閥と等しく、学界における学閥も遺憾なくその作用を発揮し、有力な閥的背景を有せぬものは、学識はあっても容易に教授となり博士となることができぬといつたありさまである。

学者の独占慾も俗人と異なるところはなく、ただ独占の対象を学問的方面へ持って行かれるだけ、余計に榜が迷惑する。あるブルジョア紳士は自分一人だけ最新流行を誇りたいために、新輸入の外国製ネクタイの一種を買い占めるという話を聞いたが、それによく似て一層罪が深いのは、新輸入の新刊書を買い占める学者である。有名な蔵書家で、同時に文献考証の大家たる定評がある某博士は、その衒学の必要上からかどうか、常にこういう買い占めをしているという。この独占慾は単に他人の持たぬ物を持つというネクタイ的独占のごときたわいもない動機から出ずるものでなく、多分の商売気が加味されている点において、一層罪が深いというのである。丸善の新着書を買い占めるという例のほかには、学校図書館の目ぼしい書物を自分の研究室へ持ち込むという一例がある。これはどこの学校にも行われていることらしく、よくそれについて学生の不平を耳にする。学校の費用を以って、図書館用の名儀で書物を購入させ、それを自分の研究室に閉じ込めてしまって外へ出さない。はなはだずるいやり方である。そうまでして良書が多くの人に読まれることを妨げるというのは、つまりその書物によって得られる知識を独占し、これを一手販売的に切り売りしようとする、さもしい了見から出発するものである。外国人の著書の翻訳権を獲得しておいて、いつまでもその翻訳に着手しないのも、同罪たるを免れない。自分の講義の種本が翻訳されてしまったのでは、講義の有難味が薄くなり、内懐を見透かされるというので、翻訳妨害をやるのに相違なかろうが、そのため世間の学問的進歩を沮むことは莫大である。適当の訳者がありて、良書の翻訳を思い立っても、翻訳権が他人の手に握られていては、どうにもしようがない。

学者の利害心も、俗人そこ退けの観がある。円本流行の初期には、円本を軽蔑した学者が二三ならずあった。円本などという俗っぽい体裁の下に出版するのは、学問の権威を傷つけるとでも考えたのであろうか、あるいはまた、安価な時流を追わずとも立派な単行本として十分高価に売れると考えたのであろうか。しかしそれらの高踏的な学者も、やがて後れ馳せに、ほとんどみんな円本に参加してしまった。円本の流れが捲き起こした出版界読書界の変動は、それらの高踏的な学者の利害心を動かさずにはおかなかったのである。

円本の流行はたしかに我が国の出版界読書界に一大エポックを作ったものである。円本の文芸書類は文芸の社会的浸潤に貢献したが、その後続々現われている硬派物の円本は学問の社会的進出を促した。学問が学校の祭壇から解放されて、市井の常人に近づきやすいものとなったのである。円本は最初、単に安いからという動機で、ちょっとした好奇心を動かすに止ったとしても、それはやがて一般民衆の読書慾を刺戟し、大なり小なりの程度において、彼らの学問的常識を高めた。円本流行の始め、文芸書はともかく、学術の円本は売れ行きがどうかと懸念されたらしいが、実際に学術物の円本を出版してみて、この懸念は一掃されたのであった。この事実によって考えると、従来、世間の人々の間には、学問的慾望がかなりな程度に漲っていたことが知られる。それは近年急激に発展してきた社会問題が、一般の知識慾を刺戟した結果かも知れぬ。とにかく、学校以外のところに、広く学問の種を播くべき場所が準備されていたことは事実である。しかし、従来の学術書が比較的高価で、しかも一般民衆に対する誘引を無視していたために、特志者でなければ学術書に近づく機会がなかった。しかるに円本はもっぱら民衆を目標として、安価に有名な学術書を提供したために、たちまち人気を沸騰せしめて、意外の成功を収めたのである。

今日では学術書で円本として出版されているものが少なくない。今後もこの傾向は相当永続きするだろうと思われる。出版屋をして、一夜成金たらしめるような狂熱的な状態は見られなくなるかも知れないが、普通の状態として、円本流の大量生産がなお持続することは考え得る。世間は既に、一円内外の銭で相当立派な本が買えるという経験をした。今日では既に、円本が特別に安いとも感ぜられなくなっている。この大勢を昔に還すことは到底不可能である。そこで、よほど特殊の研究書でもない限り、高価な単行本はますます売れなくなるに違いない。いや、現在が既にそうなのである。

高価な単行本では到底商売にならぬから、出版屋もいろいろ工夫を凝らして安価な大量生産的の提供方法を講ずる。レクラム版の模倣がその一つだ。円本として出版できぬものは、なんとかそういった方法を講ずる。そこで、象牙の塔に納って、高踏的な立場を享楽していた学者たちも、この大勢の前には屈服せざるを得なくなる。円本を軽蔑した口で、今はそれに対して賞讃の辞を唱えざるを得なくなる。だがこれは、社会にとり、学者にとって本懐でこそあれ、毫も嫌悪すべきことではないはずだ。学問が少しでも深く社会に行きわたることは社会の幸福であり、学者の目的に副う所以でもある。しかし、こうなってくると、学者たるものもまた大いに了見を入れかえねばならぬ必要に迫られるだろう。

第一、学生に教えるようなつもりで、一般民衆に本を読ませることは許されぬ。学生は先生の口述を筆記してそのまま暗記すればそれですむという考えを持っている。しかし民衆は、なにも卒業証書をもらうのが目的ではないから、読むに従って理解を求め、納得の行くところに満足を感じ、分けの解らぬことを無理に読もうとはしない。そこで学者は、文章の難解で内容をゴマ化そうとしても、もはやゴマ化しがいがないことを覚悟しなければならぬ。難しい言葉をやたらにならべたて、直訳流の口調でもったいぶってみたところで、いたずらに読者の反感を招くに過ぎぬ。学生は本を読むのが商売だが、一般の人々はそうでない。なんらかの仕事を持っていて、その余暇に本を読むのである。しかも当今の世相はますます煩忙となり、人間はせっかちになっている。『大学』の素読を一年も続けた昔とは違っている。ただちに読んでただちに解るということが、現代の書物の理想でなければならぬ。学術書がお茶を呑むようにそう易々とこなせるものでないことはもちろんだろうが、それにしてもできるだけ理想に近づく心がけは、書物を作るものの持たねばならぬところである。

円本の流行は、はしなくも出版界読書界に一大旋風を捲き起こし、ずいぶんあわて切った出版屋もあるとともに、ひどい醜体を曝露した学者もある。某出版屋のごときは、予約を以って読者を拘束するごときことをせずと得意げに宣言してレクラムまがいの非予約出版をやったのは罪がないとして、いまだその舌の根の乾かぬうちに、ある円本全集物の予約をやりだした。それには例の共産博士なども参加したが、その広告では、非マルキシズムに低迷するところに何のマルクス全集ぞやなどと盛んに競争相手の同種全集物をコキ下していた。またこの博士はその訳書『資本論』に対する福田徳三博士の批評を反駁して、反動派の陣営における窮余の一策だなどと喝破した。そこまでははなはだ景気がよかったが、今はどうかといえば、自分の牛耳った全集がご吹喋だけで立ち消えになろうとし、また自分の参加したレクラムまがい物の景気が一向に思わしくないといわれているとき、さきに反動派と罵倒した福田博士とガン首をならべて、ところもあろうに自分の『資本論』マルクス全集をさんざんヘコマせてくれた当の相手の出版屋のお情けにすがって、この道だけは別だといわんばかりの風体で、おくれ馳せながら、しきりに円本のうま味にありつこうとしている。これが当世学者かたぎとでもいうのであるか。それもあながち悪いというのではないが、そんならそれで、例のお筆先染みたペダン満々のもったいぶりだけは願い下げにしたいものだ。そんなことで、今の世の読書子がばかせると思うような齢でもない博士だとは思うが、多年田舎にいて苦労知らずの書生たちにちやほやされるとついそんな気にもなるものか。

この博士とその流派の小僧たちは、幸か不幸か例の共産党事件の余波を受けて大学を放逐され、学界の浪人派に天降ってきた。この連中の言うことを聞いていると、マルクスの言葉は片言隼語の末に至るまで絶対の真理であって、批判を挟むものは反動派であり、社会主義の仇敵ででもあるかにきこえる。彼らはマルクスの宣伝者であって、研究者ではない。信者であって学徒ではない。そういう彼らが、社会科学研究指導の名目の下に、なにを学生たちに煽動したか想像するに難くない。だから官憲が彼らを放逐したのは当然である。彼ら自身においても、学校という狭い窮窟な場所から、広い世界に向って解放されたことは、むしろ活動の天地を与えられたのであって、大いに慶賀すべきであるはずだ。お上の給料を食みながら、共産主義の宣伝に従事したいなどというのは土台虫がよすぎる。だが、野に降って見ると、学校から給料をもらうような具合に、やすやすとお金は儲からぬものだ。そこで、昨日まで悪口ついた敵陣に頭を下げねばならぬ破目にも陥るのだが、腕一本脛一本で浪人稼ぎをするのがどんなに生やさしくないものだか、学校の温室内で勝手な熱を吹いている場合と、吹き曝しの世間で現実の障害と絶えず闘う場合とでは、いかに勝手が違うものだか、今になって思い当る節があるであろう。

大学は現在のところ、共産主義宣伝者の保育所だといって差し支えない。別して官立大学がそうである。私立大学はお上が恐い。下手をまごつけば、とんでもないお目玉も頂戴しなければならず、閉鎖でも命ぜられればそれきりである。ところが官立となると、教授たちはみな官吏であるどころか、地方へ行けば良二千石も大学総長には頭が上らぬ。学校そのものが国家の施設であるから、容易に手が下せない。それをよいことにして、主義カブレの教授たちが勝手な熱を吹き、なにか干渉でもでれば、やれ学問の神聖の自由のと手前勝手を吐くのである。早大が例の佐野事件や大山事件以来うって変ったようにおとなしくなったに反し、官立の諸大学や高等学校などには、いまだに左傾教授ががン張っているのでも知れる。もっとも、例の共産党事件以来、多少言説を慎しむようになったのは事実らしいが、変名などを用いて主義宣伝をやっている向も少なくないというに至っては、はなはだ男らしくない。それほど主義に熱心なら、なぜ浪人となって正々堂々とやらないか。そんなにまで浪人生活が恐ろしく給料袋が恋しいのであろうか。

円本の流行、学芸の社会的浸潤がよほど進みかけた今日でも、まだまだアカデミー派の弊風は抜け切らぬ。これではせっかく学問的興味を持ちはじめた一般民衆も、出鼻を挫かれはしまいかと懸念される。そこへ行くと純浪人派は苦労人だけあって、ヴァルガリズムの嫌はあってもさすがに厭味はなく、あるべき部類の人もこの点は比較的無難である。ただ、とかく平俗に流れやすい傾向があるのは是非もない。浪人の間から、真の学究に徹底したものが現われれば、それに越したことはない。一方また、アカデミー的学者から、アカデミー臭を脱却した真の通俗学者が出れば、これまた社会にとってこの上もない幸福である。

最後にもう一つ、これは政府の思想善導に関連した事柄だが、例の共産党事件に怖毛をふるった政府は、思想善導の方法として、学生の監督を厳重にする方法や、古典、宗教、歴史、東洋思想などによって新興科学研究の気運を阻止せんとする方法を実行せんとしている。これに対して学界の諸子はいかに考えられるか。学生監を増加するということは即ち、教授は学生の指導者として頼むに足らぬという意味を現わすものではないか。また、古臭い古典や東洋思想を墓場から掘り起こしてマルクス主義の社会科学に対する毒消しにするということは、マルクス主義の社会科学に対抗してひけを取らぬ社会科学が、日本においては発見されないということ、換言すればかかる対抗の任務に当たるべき学者がいないという意味を現わすものではないか。科学の研究を以って生命とする学者にとり、これは重大な侮辱でなくてなんであろう。国家国体を思う社会科学者がいないわけではなかろう。しからば、そういう国家的大義務の立場から、非国家的の社会理論を打破すべき、有力な科学的論拠を組みだしてようとする努力があってしかるべきではないか。そういう努力も、まんざらないわけでなかろうが、一向に気勢があがらぬらしいのは心もとない。マルキシズムの名の前に逃げ腰になっている形だ。古典や東洋思想に重大な任務をお任せして、触らぬ神に祟りなしとばかり、安逸を貪っているとしか考えられぬ。これではいよいよもってマルクスかぶれにナメられるのがオチであろう。

これが日本の学界と称するものに対する私の『公開状』のあらましである。課題に対していささかテレ気味なのは是非もないとして、近ごろ私のいうことにとかく精彩を欠く憾みがあるのは、この数日来いたく健康を害して再起覚束なき肉体状態の致すところと諦めるのほかなく、私の一生もどうやらこの辺がオチではなかろうかと危ぶまれてならない。


初出:『経済往来』第3巻第10号(昭和3年10月号)

注記:

本データは原文を新漢字新仮名遣いに改めた「高畠素之選集(新版)」です。旧漢字旧仮名遣いのデータは「偏局観測所(旧版)」をご利用ください。

文中の「ある学者のある論文」は高田保馬の論文を指す(『自己を語る』学者の淘汰)。また「レクラムまがい」は岩波文庫を、「例の共産博士」は河上肇を、「反動派の陣営における窮余の一策」は河上肇の「反動学派の陣営における窮余の一戦術としての虚構―拙訳資本論に対する福田博士の非難について―」(『社会問題研究』第84冊、昭和2年12月)を、「さんざんヘコマせてくれた当の相手の出版屋」は改造社を指す。詳しくは高畠「マルクス経済学界」(『経済往来』第3巻第12号、昭和3年)を参照。

最終更新日:2010/03/08

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