高畠素之
近時貴衆兩院竝に既成政黨の行動に對して不滿を懷く者尠少ならず、何等か之を改造して眞に國民の爲の議會たらしめんと熟望するの聲野に充ち滿ち居れり、仍つて之が改造の根本に關して、先達の士に左の三個條の問題に就てご意見の發表を乞へるに、多數の御贊同を得たるは、我社同人の感謝措く能はざる所也。
※『改造』第二卷第二號(大正九年二月)
※底本:『改造』第三卷第一號(大正十年一月)
一九二二年以後に於ける露、獨、支那、印度の將來及び世界に於ける社會運動、學術界の趨勢竝に之等諸方面に於て中心たらんとする人物に關し左記の各項に分ち思想界諸名士に意見を徴した處左の如き懇切なる回答を得た事を感謝する
※『改造』第四卷第一號(大正十一年一月)
藝術家といふものは藝人であるから、理窟はわからず人格は下劣であつても(勿論、理屈もわかり、人格も上等なら尚更いゝが)、藝に特別の冴えがあり鍛へがあり力がある限りは本職として存在の理由を持つてゐる。素人藝ではいけない。アクのぬけない、土くさい理屈でごまかした樣な藝では、錢を出して見る氣にはなれない。さればと云つて、徒らに玄人ずれのした、そしてそれ以外に取りえのない源之助式の死藝も困りものだが、とにかく手に入つた藝でなくては、本當の客がつくものでない。近頃流行のプロレタ文藝といふものは、あれは一夜づくりの聲色屋の流す聲色ほどにも商品化してゐない。精々尾崎士郎の浪花節ぐらゐの所だから、客が錢を出さない。隨つて食へない。隨つてあせる。いくらあせつても、無い藝は出せないのだから、無藝屁理屈と來るわけだが、屁理屈となると却つて素人の方に達者なのがゐる位ゐだから本藝にはならない。どのみち食へないに定まつてゐるのだから、プロレタ文藝の方は早く足を洗つて本物のプロレタリアになつた方がいい(。)大きにお世話だ。
所謂ブルジヨア作家の中には、氣に入つたのが幾人かゐないわけではないが、最近の作物には大した感服させるものがあつたとは思はない。私は正宗白鳥が一番すきだ。此人のものだけは、文句なしに木戸錢を拂ふ氣になれる。藝に磨きがかかつてゐて、感じも深く鮮かであり、何人にもまねられない底光りを持つてゐる。強い自我を持ちながら、冷かに離れて見る妙機を捕へてゐる、から、表現に無理がなく絶えず普通と必然に則しつつ、充分の深みを示してゆける。此人ばかりは眞に名人であると思ふ。(未完)こんなに長く書いたら木戸錢をおごつてもよからう。
※『改造』第五卷第七號(大正十二年七月)
普選實施第一回の總選擧に於いて當然擡頭すべき無産政黨に關しての具體的豫想は單に興味のみの問題でないと信じ、右二問を諸家にお伺ひして得た回答を採録する。
※『改造』第七卷第六號(大正十四年六月)
注記:
※句読点を増補した場合は、丸括弧内に入れた。
(1)北畠素之:ママ。
改訂履歴:
公開:2008/5/7
最終更新日:2010/09/12
© 2008-2010 Kiyomichi eto Inc.