棄權する理由

高畠素之

抽象問題として、如何なる人物を選擧するつもりかといふなら、苟くも理想し得る限りの、資格なり要件なりを數へ立てられる。然し現實の選擧戰には或る特定の立候補者があつて、その中から比較的好ましい人物を選擇する習慣になつてゐる限り、どんな理想を描いて見たところで所詮は無駄である。殊に現在のごとき小選擧區制の下にあつては、無駄の程度が最も極端である。それも多少の注文はづれならまだ我慢のしようもあるが、多くの場合『清き一票』の方から、ずゐぶんお釣りを貰ひたいやうな代物をも、餘義(1)なく選良として入札せねばならぬとあつては引合はない。然し選擧區制がどうのかうのと、季節離れのした普選屋竝みの口上を述べたところで、目前の選擧がその範圍で行はれることに決定されてゐてみれば、善惡に拘らずこの局限された條件内で考へを進めるしかない。

知る人の知るごとく、拙宅の所在地は本郷千駄木町で、有權者としては東京府第九區に屬してゐる。然るにこの選擧區ばかりはどうした加減か、目下のところ中原徳太郎氏が立候補を宣言した以外、誰一人として我こそはの名乘りを上げてゐる者がない。將來はどんな理想の人物が飛び出すか知らぬが、少くとも今日(四月六日)までの事情は右の通りである。從つて比較的優良候補を探す術もなし、もし選擧に對する態度を強ひて決定する必要があるとすれば、中原氏を投票するか或は棄權するか、二つに一つを選ばねばならぬことになる。

そこで両者の何れを取るかといはれるなら、明白に後者だと答へるつもりである。更にその理由はといはれるなら、答辯は至極に簡單である。簡單だといつても、無競爭の候補者を特に投票する必要がないとか、憲政會公認だから毛嫌するとか、代議士たるべき資格が取立てて不足だとか、さうした尤もらしい根據からの意味ではない。ただ幸か不幸か彼が私立日本醫學專門學校の校長なるが故に、敢て棄權せんとするのである。簡單といつて凡そこれぐらゐ簡單な話はあるまい。

地縁的關係を重んずる現在の選擧人感情からすれば、同じ町内にある日本醫專の校長を擔ぐのが至當であらう。ところがこつちの言分にすれば、それが全く逆な話になつてゐるから助かるまい。日本醫專には何の恩怨もないとはいひたいが、實は甚だしく恩怨を感じてゐるのだ。

これも知る人の知るごとくだが、拙宅は千駄木の高臺ともいふべき位置に建てられてゐて、家賃の餘り高からざるに比較し、眺望絶佳と自讚してもいい程の見晴らしがある。谷中から上野へかけての糢糊たる森を眺めて、一服の煙草を心ゆくまで喫ふは又なき慰樂である。惜しい哉、南方の一角だけは二丁の窪地を隔てて、日本醫專の校舎に面し、眺望の全部が阻まれてゐる。時あつて眼底に映ずるペンキ塗建築の存在を恨みとする日が多い。取りも直さず、これが日本醫專に好感を表し得ざる一面の心理である。

牛込界隈に早稻田臭味があり、三田界隈に慶應臭味があるやうに、千駄木町界隈が甚だしく日本醫專臭味の濃厚なるものがあることは免れ得ない。その免れ得ない臭味に閉口するのである。

本職的たると内職的たるとを問はず、千駄木町界隈の下宿屋が醫專生徒を第一の華客としてゐるのを始めとして、飲物屋や喰物屋もこれに準じてゐる。皆が皆といふ譯ではなからうが、目撃した範圍内に於ては驚ろくべく上品と反對の連中が多い。その連中によつて釀される雰圍氣の、如何に有りがたくないものであるかは説明するまでもあるまい。トンカツ屋で隣のテーブルから、見堺もなく片言交りの獨逸語なんかで話しかけるのは、定つてこの連中に限られてゐる。馬脚を露はした末には、グルツペになつて飲みませうなどといふ手を喰はせるがオチである。

プロレタリア文士などが覺え立ての社會主義智識をヒケらかしたがると同じく、一つ覺えの獨逸語を鼻に掛けたがるも愛嬌には相違なからうが、さりとて絶對に尊敬する氣にはなれない。そんなことから日本醫專をグルツペ學校と呼んだり、その生徒をグルツペ書生と呼んだりする隱語も出來た程だから、爾餘のところは推察に委せる。

勿論、日本醫專が書齊の眺望を故意に邪魔しようとして、校舎を建築した譯でもなからうし、生徒に片言の獨逸語を自慢させるために教育してゐる譯でもなからうし、よしんばそれが事實であつたとしても、中原校長の全責任といふまでにも至るまいといふのは理窟である。然し世の中には理外の理ということもある。これをもう少し平面的にいへば、坊主と袈裟との有機的關係といふことにもなるだらう。あんな學校の校長なら、誰よりも御免蒙りたいといふ感情の存在し得ること、選擧民心理の一例として參考に供するだけでも、棄權する理由は立派に成立し得よう。

もし選擧權といふものが、納税義務を負擔した代償としての引出物と考へられるなら、有効とはいへないまでも氣の利いた行使方法が幾らでもある。その最も野暮な方法は、勝敗の大勢を眼中に置かずに、自分の理想とする人物を記名して、文字そのままの『清き一票』の空彈を放つことであり、その最も肩の凝らない方法は、根津八重垣町の住人中山啓でも投票して見ることである。それにしたところで、醫者としては玄人だが政治家としては素人なことを賣物にしてゐる人間に投票するよりは、遙かに意味のあるものといつてよからう。

然し翻つて考へて見れば、意味のあることといふのも、實は積極的にか、自己滿足を享樂する範圍だけでの話である。動かさなくてもいい無用の兵を動かしたばかりに、折角の理想的人物を戲畫化するのも埒のない業であり、冗談から駒を出して血の氣の多い若い者をケシかけるのも、聊か罪の深い細工である。無難といふ點からすれば愼しむに越したことはあるまい。愼しんで棄權するのである。

尤もこれは現在の條件を動かぬものと假定しての立論であるが、今後現はれるであらうところの候補者の顏振れ如何によつては、必ずしも棄權と態度を決してゐる譯ではない。ただ今日までの状況のごとく、中原候補のみの獨壇場的な濶歩に委せてゐる本郷區の有樣であつて見れば、比較的優良候補者の自由選擇もならず、さりとて中原候補に投票しようとするだけの熱意もないから、寧ろ棄權するに如くはないと考へるのみである。從つてより快心の人物が現はれたならば、投票場に驅けつける努力と時間を惜しまうとも思はぬ。然しそれもこれも五十歩と百歩の相違なら、潔よく棄權することも同斷である。


底本:『改造』第六卷第五號(大正十三年五月)

注記:

(1)餘義:ママ

改訂履歴:

公開:2008/05/07
最終更新日:2010/09/12

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