國民外の國民投票案

高畠素之

近頃、主義者連の中から事新しく、政治運動の可否とか能否とかいふ問題が聞かされるやうになつた。今更らこんなことが論議されるのも滑稽な話で、社會主義運動が結局國家權力を階級的に移動せんとする運動である限り、政治運動を離れてその目的を達し得る筈はない。逆理的にいへば、政治運動に依つてのみ社會主義の目的は達成し得る。若し問題とすべき餘地があるなら、かかる政治運動の態樣如何に存する。さすがに主義者と呼ばれてゐる連中にも、經濟運動一點張りで、潔癖的に政治運動を拒否するといふ野暮天は少ないやうであるが、議會政策を認容するか否かといふ段になると、自ら諸説は分脈して來るやうである。

いふ迄もなく、議會政策主義は政治運動の唯一無二な表現ではなく、ただその一態樣たる位置を有するに過ぎない。從つて政治運動即議會政策と解することが出來ないのも當然である。然し現在行はれてゐる大方の主義者なるものの意見のやうに、政治運動の意義を殊更ら議會運動から分けて考へてゐるのは笑ふべきである。即ち政治運動は認めるが議會運動は認めないとか、議會に依る運動は認めるが、それは所謂議會政策を認めるといふ意味に於てではなく、議會を利用して内部からブルヂオア議會の破壞を實行する意味に於てであるとか、すべてさうした議論ほど噴飯に價ひするものはない。議會を破壞することが議會運動といへるなら、資本主義組織を破壞する社會主義運動が資本主義運動になつたり、國家を破壞する無政府主義運動が國家主義運動となつたりすることにならう。それは兎に角として、主義者がかくの如く議會政策を毛嫌ひする心理は、議會政策即改良主義となす觀念が土臺となつてゐるので、自らの硬派感を傷つけまいため、飽くまでも議會政策をば自己の政治運動の概念の圈外に、驅逐せんとする態度を意識的に採らしむることになつたのである。その潔癖性の強さは尊敬すべきものか知れないが、傍の見る目には寧ろ氣の毒である。何といつても、議會政策は政治運動の中心題目となるべきものであるばかりでなく、それを利用する効果に於て最大である。問題の要點は微温的だとか、改良主義的だとかいふことにあるのではなくして、當面の効果を如何に収むべきかといふ所に存する。自己の硬派感を滿足させるため、頭腦の中で如何に手淫して見たところで始まらない話である。

主義者への抗議はその一例であるが、近頃議會否認の傾向が一種の流行となつてゐる。最近に至つてその流行も餘程下火にはなつたやうだが、反議會の氣勢は依然として低迷してゐる。その由來するところは頗る多元的でもあり、且つかかる氣勢の生じたことに對しては、決して無理でないことを首肯される。然し議會制度を廢棄したとして、果してこれに超えるべきいい制度があるかどうか。少くとも現在の状態を對象として考へ得るかどうか。

議會制度が萬全の望みを懸け得ないことはいふまでもない。然し他の如何なる制度がかかる望みを懸け得るか。議會が國民の名に於て、國家意思の決定に參與する立法機關とされてゐながら、實質がこれに伴はないことも確かである。然しさればといつて、現在の状態の社會に於て、他の如何なる制度が、果してよくこれに代るべき可能性が附與され得るか。議會制度の如きは比較的無難な制度と見做していい。最善を得ざれば次善を得よといふ意味に於て、議會制度必ずしも野暮に拒否する必要がないばかりでなく、大いに利用することを心掛けて然るべきである。議會制度そのものが、假令ブルヂオアの搾取を支持擁護するために確立されたものであつたにしても、その機關を逆用してプロレタリアの武器となし得る道が開かれてゐるなら、殊更ら潔癖的にこれを憎惡する必要は少しもない。時に毒藥を變じて藥となす知略を廻らして見るのも面白いではないか。

事實上の問題として考へて見ても、結局のところ政治運動は認めるが、議會政策は認めないなどといふ論理は成立し得ない。ブルヂオアの政治的權力の總和が議會に集約されてゐる以上、その權力をプロレタリアの手に奪還せんとすれば、善惡の問題を離れて議會を無視することが出來ない譯である。現實の存在として君臨してゐる議會を度外視して、他に特別な而して高級な政治運動が存在するやうに考へるのは、徒らに空想の遊戲に耽る者の贅言といふしかない。古い言葉だが政治は機のものである。勢ひによつて動くものである。あらかじめ豫定して(、)その豫定のままに働いてくれるものではない。從つて政治的直接行動なら認めるとか、議會破壞政策なら認めるとか、或は政黨組織は認めないとか、議會による運動は認めないとか、その他凡百の『プロレタリアの政治運動』の概念を頭の中で作り上げて見たところで、それがどうなるものでもない。生きた證據はお祖師樣レニーンの政策の跡を糺ぬれば充分である。

その意味に於て議會政策の如きは、當面の策畧として最も無難な方法であるし、且つ比較的効果の多い運動であるから、進んで利用すべきものである。ストライキやサボターヂユによる運動ばかりが社會主義の運動で、立法上に社會主義の實現を期する議會政策の運動が社會主義の運動でないなどといふ、そんな莫迦げた潔癖病患者は通用しない。

然し以上の議論は議會政策ばかりが、萬能だといつてゐるのではない。同じ高峰の月を眺むる社會主義の運動方法は數あるが、その中で議會政策運動の如きは、他に比較して荊莿の少ない坦々たる大道だといふに過ぎない。つまりその拓かれた大道を故意に嫌惡して、他の間道ばかりが道だと思ひ込むには當るまいではないか。

議會政策の大道を開拓するためには、目下の日本としては普選運動の如きが、その基礎工事となるべきものである。然るに日本の主義者とか運動屋とかいふものは、普選とでもいはうものなら、何か惡事の相談にでも加擔する如くに心得てゐる。勞働團體や社會主義團體の如きも、麗々しく團體として決議してまで普選默殺の態度を取つてゐる。軟派硬派の爭ひもいい。右黨左黨の區別もいい。然し勞働者として又は社會主義者として、一人の議員をも議會に送つたことがない癖に、右黨の左黨のでもないではないか。毛唐の附けてくれた名稱を直譯的に捧戴して、天晴れ硬派がつて見たところで、餘りドツとした話でもない。それよりか有効でもあり、且つ可能でもあり得る普選運動に對してまでも、その宏量な右黨振りを示し、共同戰線とやらの範圍を擴張して呉れた方が有りがたいのである。鎬を削る場合は、普選でも通過して、雜多の社會主義者や勞働者を議會に送り込み、名實共に右黨左黨の内容が備つてから後のことにして貰ひたい。

尤も繰り返へしていふ如く、制度としての議會が必ずしも最高唯一のものでない限り、これに伴ふ短所弊害は擧げて數へ切れない程あらう。といつて、その短所弊害にのみ着眼して、議會否認の傾向に走らなければならないといふ必要は、必ずしもない筈である。

議會制度に對する採長補短の手段としての一面には、當然選擧權の問題とか、選擧區とかの問題が含まれるであらうが、制度そのものに對しての手段としては、直接民主々義とか内閣民主々義とかの名を以て呼ばれて居るところの、レフエレンダム、リコール、イニシエチーヴ等の諸制度が數へられよう。即ち特に國家の重大問題乃至國民に取つての重大法案等が議せられる場合、豫め國民の公議輿論の存する所を問ふとか、又は議會の議決が、國民の公議輿論と背反してゐると認めた場合、内閣が直接に國民一般に向つて贊否を問ふとか、或は國民が自主的に輿論の存するところを發表するとか、その他これに類した諸制度を以て、議會制度によつて生ずる弊害を、ある程度まで矯正し得るのである。

先頃、普選案が議會に上程された折り、多數黨に依つて例の如く即決否決の運命に置かるべきことが、既定の事實として看取されてゐたので、革新倶樂部は國民投票案なるものを考案するに至つた。これ明らかに議會の議決が國民の公議輿論を代表するものと認めず、國民の一般投票によつて普選の贊否を採らうとしたもので、前述の直接民主々義の一例と認めることが出來る。

勿論、革新倶樂部の所謂國民投票案なるもの(の)内容が、これによつて單純に國民の意思を表示せしむるに止まるものか、或は實際立法權に關係せしむるものか不明だが、兎に角も、議會の決議が民意を代表するものでないと認めたことだけは確かである。この案に贊成した憲政會の鈴木富士彌、永井柳太郎の二君を始め、幾多の共鳴者も革新倶樂部の代議士と共に、議會の意思を以て國民の意思を表現したものと認めない點は同樣である。彼等は普選に關して絶對に相容れない二個の對立群を認めた譯である。即ちその一は國民であり、他は議會である。

この際普選案の是非とか、普選の要求が國民全般の要求か否かといふ問題の如きは、論ずるまでもなく明瞭な話である。議會に二百八十名を挾む政友會代議士を除く外、國民の凡ど大多數はこの法案の通過に對して贊成するものと認められる。その意味に於て、普選案の如き重大法案の通過又は不通過に關して、議會と國民とが絶對反對の地位に立つた場合、議會は國民の代表機關たる任務を沒却して國民の利益と幸福を蹂躪したものと認め、一般投票によつて國民の意思の存するところを表示し得べき制度を拓くことは必要である。而もそれが單なる意思表示をなさしむる意味に於てではなく、更に立法權の範圍に關係せしむるやう、國家の根本法たる憲法によつて、新に規定することも必要であらう。現に瑞西、獨逸、米國の諸州等に行はれてゐる一般投票の制度の如きは議會を超えた權限を與へられてゐるのである。

然し先般革新倶樂部が提唱し、一部の憲政會代議士の贊成を得た所謂國民投票案なるものは、立論の過程に於て頗る皮肉なものであつたことは見逃せない。

大體國民投票即ち一般投票なるものは、議會が民意を代表してゐないと認識した場合、即ち國民が議會の意思を否認する場合を要素として出發してゐるものである。從つてその要求を提出し得る者は、議院に席を有する議員以外のもの、即ち内閣側か國民側かその何れかでなければならぬ筈である。議員に席を有しながら、尚ほ且つ議院の議決を否認する態度は、延いて議會そのもの、即ち議員としての彼等自身の立場をも否定する結果となるのである。勿論、彼等の考慮の内容を忖度すれば、國民投票といふも何等立法權に關係せしめたものでなく、單純に參考のため普選案に對する國民の輿論を調査し、以て政府竝に政友會に對する武器となさんとしたものらしく察せられる。然しその何れにもせよ、彼等は議會の議決に對して、少くとも普選案に關しては、明らかに議會の立法權を否認し去つてゐるのである。而も彼等は自己の否認した議院に依然として止まり、他の一面に於て國民投票建議案なるものを提出せんとしてゐる。既に現行の議會制度を是認し、また現行の選擧制度によつて議院に席を有するに至つた彼等であつても、議會そのものが民意を代表してゐないことを普選案に於て悟つたといふなら、議員としての自己の責任上、かかる民意を代表しない議會は直ちに去るのが當然である。然るに依然として議席を退かないのみか、民意を代表しないと稱した議會に臨み、更に現在の議會を事實上否定すべき、國民投票建議案を提出せんとしてゐるのである。

彼等の所謂國民投票案なるものが、時宜に適した建議案であることは認める。然しこれを提出するからには、彼等が議員の責任を辭した後、國民の一人として要求すべきことである。普選派代議士と稱せられる彼等の全部が議員を辭任し、議會は政友會員のみを以て組織せしめ、然る後始めて國民投票なり何なりに問ふがいい。

議員は辭したくなし、さればといつて國民には申譯けないといふ態度は、兎に角も不愉快極まるものである。


底本:『改造』第五卷第四號(大正十二年四月)

注記:

※句読点や文字を増補した場合は丸括弧内に加えた。

改訂履歴:

公開:2008/5/7
最終更新日:2010/09/12

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