資本制度の上に立てる姑息的社會政策

高畠素之

最近に於て、紡績、砂糖、鉛其他の大會社が五割若しくは七割の大配當を爲しつゝあるといふるに對して(1)暴利を制限するの必要無き乎、(2)之を國家の収入として一定の超過配當に對して課税其他の方法を講ずるの必要無き乎、といふ事が甚だ問題とされてゐる如くである。之に對して財政者の説は符號を合する如く、超過税を賦課する事、國家の社會政策的施設を租税制度の上に充用する事に一致してゐる樣であるが、要するに是等の意見は一時の急――否其すらも完全には圖り難い――を救はんとする姑息案に過ぎずして毫も問題の根本に觸るゝものでは無い。

そもそも不當利得とは何を言ふ乎。配當の何處までが不當であつて何處までが不當で無い乎。といふ質問に對して何人が完全に答へ得るであらう乎。既に配當といふ事が法律に認容せられたる權利なりとすれば百割の配當を以て不當なりとする理由は同時に十割の配當を以て不當なりとする理由で無ければならぬ。現在の組織と制度とが完全に認容されてゐる時代に於て配當の是非を論ずるは末である。砂糖の高くなりたるに對して、國産奬勵の精神と、關税問題とに就て周到の注意を圖らすものは容易に其原因を知る事が出來る。

一切は制度の問題である。一切は組織の問題である。資本制度といふ制度が儼として存在してゐる間は資本家の利得に就て是非を言ふ事は意味の無い事である。資本家組織の現存する今日税制制度の上に社會政策的施設を充用せんとする事は意味の無い事である。

其配當の意味にして既に然りとすれば、從業員に對する優遇法は畢竟するに温情主義の外を出で無い。若し夫れ、大配當の社會上に及ぼす影響に就て論ずれば、配當が大きければ大きい丈け其社會上に顯はれる反動は大きいと見なければならない。


底本:『改造』第一卷第五號(大正八年八月)

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公開:2008/5/7
最終更新日:2010/09/12

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