勞働運動の集中化と國家社會主義

高畠素之

友愛會解體の噂

最近友愛會の實質上の解體が傳へられて居る。始め凡ての産業部門及び凡ての地方に亘って、尨大なる一個の團體として出現せる友愛會は、勞働運動の集中を體現せるものであつた。從つて斯くの如き解體は、勞働運動の分散化を語るものと言へる。

假りに既往の日本に於ける勞働運動が友愛會に依つて代表されて居たとすれば、今や日本の勞働運動には、一個の轉機が齎されて居ると見なければならぬ。一切の社會現象を必然として見るならば、從來の友愛會が集中的であつたこと、そして今それが分散化せんとすることも、總て必然の過程である。思ふに友愛會の發生は、少數の指導者の提唱に依つたものである。當時の會員は、所謂自覺要求と言ふが如きものに依つて、自動的に會を組織したものでなく、指導者の言ふが儘に會と言ふ一の形式に身を任せたものであつた。しかも今や、自己の要求を自覺したかに見える。而してその要求は、尨大なる團體の形式を保持するにあらずして全く他にある事を明かに示した。それは主として勞働状態の改善と言ふ事である。若し此の要求と大團體の存在とが必然に一致するものであるならば、もとより解體の傾向は示されなかつたであらう。然るに斯かる要求に對して必要なるは、地方的、産業的、又職業的勞働團體であつて、既往に於けるが如き全國的の單一體ではない。即ち斯かる要求にとつては、分散的團體のみで充分であつて、その上に更に集中的の大團體を維持するの負擔を忍ぶ必要がない。

既往會員の知識及び自省が斯かる解釋に到着した時、解體の兆を示し來たるは必然であらう。始め會の形式に吸収せられたる會員が一大團體の傘下に集り、今自己の要求により、その要求の手段としての機關を求めて、新らしき形式を追ふに至つたのは、何れも必然の勢ひである。

然らば今後、友愛會――假りにそれが日本の勞働運動の傾向を代表するとして――は如何なる過程を踏むであらうか。

社會運動の二種

吾々の考ふる處に依れば、一切の社會運動は改良性のものと革命性のものとに二分する事が出來る。即ち現在の資本制生産の下に、無産階級の生活の充實と安定とを、幾歩にても進めんとするものが、改良性の運動であつて、資本制生産自體及び階級對立の存續を否定するものが革命性の運動である。從つて凡ての運動主體は此の見地より二種に分つ事が出來る。

吾々の社會運動に對する評價及び觀察は此の見解に立脚して行はなければならぬと考へる。社會主義者たる吾々は、もとより革命性の運動をのみ主張し、他の一切を原則上革命性運動の妨害物と見做す。假りにその存在を肯定する場合ありとすればそれが革命性運動の準備として、妨害と相殺し尚幾許の剩餘的効果ありと認められる場合に限るのである。

唯物史觀の指示する處に從へば云ふまでも無く、假りに從はずとするも、現在の社會制度――この矛盾と背理とを多量に含んでゐる――が、永久に存續し得る物とは考へ得られない。只殘る所は時間の問題であつて、何時の日かは必ず革命的展開に逢着しなければならぬ。斯る見解の下に於いては、一切の社會運動は革命性のものと見る事も出來る。しかし社會運動に右の如き差別を附するは、結局時間の問題であつて、問ふ處は如何なる形態及び本質の運動が、革命の到來を速かならしむるかにある。吾々及び凡ての社會主義者が、慈善及び社會政策を否定する所以は、それ等の機能によつて無産階級の生活が姑息なる向上を遂ぐるは、必然的にその革命的情熱を冷却せしめ、一方特權階級に、逃避の地を與ふるが故である。然れども斯る慈善温情の政策に對する評價は同時に無産民自身の運動の、これらと同一の結果を招く可き種類のものに對しても適用さる可きは明かである。

假りに、賃銀が一割の増加を得たる場合、それが同盟罷工の結果なると、資本家の自由意思によると、或は更らに、慈善團體の勸告、立法の指示等に基づくとに依つて、その結果の上に何等かの差別があらうか。若し温情主義を否定す可くんば、此の主の同盟罷工も亦同一評價の下に置かれなければならぬ。

論者或は言はん、斯かる温情主義及び立法は、同盟罷工或は其の潛在状態とも默す可き、勞働者の示意に依つてのみ促さるゝではないかと。されど勞働運動の斯かる効果は、其の革命性のものこそ、改良性のものより遙かに優越なるものであらう。要するに吾々は改良性の社會運動の、原則上無價値であり有害であるを斷定せんとするものである。

二種の欲望と二種の運動

思ふに、勞働運動の革命性なると改良性なるとは、勞働運動に從事する者の心理に於ける背反的差異をも含む。

改良性運動は、單に生活状態の改善を目標とする。即ち其の心理的基礎を爲すものは、經濟的欲望である。然るに革命性運動の心理的基礎は、優勝の欲望である。現在人類の抱く欲望は多種錯雜せる無數の形態を備へて居る。しかしそれ等を、極度まで單一なる形態に還元する時は、經濟的欲望、優勝的欲望、性的欲望の三箇に歸一するを得る。多樣なる現存の欲望は、これらの原素的欲望より分化し派生したものであるが、その心理學的考察は兎もあれ、現在の人類を支配しつゝある根本的欲望は、これら三種のものである。今經濟的欲望と優勝的欲望との相互背反性に就て少しく説明する。

人間は物質上の打算のみに依つて動くものではなく、名譽、支配、優越、征服等の欲望が、打算に反して人を動かす場合が屡々ある。吾々は人間生活史を編み來たりし種々なる色絲の中これら優勝的欲望に屬する幾條かを無視することは出來ぬ。假りに、優勝的欲望は、經濟的欲望の一遂行過程と見做す唯物論者の提説に從ふとも、此の欲望は獨立せる體系を保ちて、吾々の心理を貫いて居り、經濟的欲望と全く分離せるものとして、吾々の認識に映じて居る。しかも此二箇の欲望が相反する方向を指して動く傾向の著しきは、吾々の經驗上明かに認められる所である。翌日の米代を犠牲にして、隣人の面前に鰹を買ふ江戸ツ子を例に引くまでもなく、官尊民卑の語が多年官吏をして薄給を忍ばしめた事も、正月の出初め式に、一杯の振舞酒に演ずる纏天の兄哥が命がけの離れ技も、之等はすべて優勝的欲望の存在を説明するものであらう。即ち斯かる優勝的欲望發動が經濟的欲望を裏切るは、貯金的唯物論者と雖も無視する能はざる事實である。生前一杯の酒か、死後永遠の名か、雜駁なる古人の思想にも此の二個の欲望の矛盾性は映じて居たのである。

上述の如く、經濟的欲望と優勝的欲望とは相背馳するものである。而して眼前の物質的生活の向上と安定とを追求する改良性社會運動が、主として經濟的欲望に淵源するものであつて、直接の利己的滿足は第二義に置くのみならず、時には絶大なる危險との面接すら豫期して、たゞ知識的斷定の實現をのみ目標とす可き革命性社會運動が、經濟的欲望より見て引き合はず、たゞ優勝的欲望の對象としてのみ追求され得るものなるは多くの説明を要せざる處であらう。かくて此の二種の社會運動は相背馳せる二種の欲望に準據せるものである。從つて此の二個の運動は本質上、相背馳すべき筈のものである。即ち原則的に見れば、何れも他の一方を犠牲にする事によつてのみ存在し得るのである。

模倣心理の社會支配

更に吾々はこれら二種の社會運動の發生過程に對して、一瞥を投じなければならぬ。その心理的本質は、以上二種の欲望である。されどこれらの運動の全成員は、必ずしも、個々の心理上の斯る差別より自主的に參加せるものではあるまい。何となれば吾人は、模倣心理が人間を支配する絶大の力を無視する事は出來ぬからである。

思ふに、人類社會の進行を支配する者は創造と模倣とである。これらの本質に對する社會學的考察はこゝに省略するが、要するに一人が或る特異の事物及び状態を創造するや、その環境は必ず之を模倣する。斯くして創造される文化の新要素が普遍化し、人類社會進行の各段階を形成するのである。蓋し郷村の樂隱居が寶生流を始めたのは、それが閑潰しの爲めであるにしろ、或は特異の技能を隣人に誇らんが爲めであるにしろ、兎に角一個の創造であつて、郷村たちまち之に倣ひ酒屋の小僧に至るまで寶生流を口にするは、之れ即ち模倣である。帝劇の數人によつて輸入された女優髷は忽ちにして全國の大都市を風靡した。大正八年の讀書界が如何に多くの社會主義を迎へたかは、吾々の記憶に尚鮮かなる所である。これらの流行は實に人間生活に對する決定的支配力を含む模倣の、短時間に於ける形態である。要するに、創造とそれに附隨する模倣との反覆によつて、人間生活は進歩の幾百千層を累積して來た。或時代に瀰漫する勞働運動の本質及び形態も亦、此の法則によつて支配さるゝ事を免かれ得ないのである。即ち或種の運動が、先行者によつて提示されると軈て模倣によつてそれが普及される。模倣の速度及び範圍は主として欲望共通の深淺及範圍、竝に模倣可能の條件の有無によるのである。

勞働運動に於ても、其の本質及び形態は、運動成員の欲望の本質によつて決定されるが、其の決定が全成員の上に實現するには小數者の創造提示と、それに應ずる多數者の模倣との過程を經由しなければならぬ。換言すれば、一運動の形態に於ては其成員の欲望内容は潛在原因を成し、模倣は機會原因を成すものである。

運動形態の變化

友愛會が解體の兆を示した事は、會員の無自覺より自覺への推轉、若しくは尠くとも自覺の深化に基けるものなる事は何人も認むる所であらう。而して其の自覺とは、經濟的欲望の自覺である。眼前の勞働條件の改善に依つて自己の經濟的地歩の豐富と安定とを、進一歩せしめんとする要求の自覺である。斯かる要求は地方的或は産業的團體によつて充分に實現する事が出來、全國的の團體を存續せしむるの必要なく、それに伴ふ犠牲を負擔する事は、此の欲望に對しては無意義である。

これが、其解體の傾向を示して來た根本の理由と考へられる。即ち友愛會這般の傾向は、會員の經濟的欲望に準據せる運動形態の生成である。從つて將來もし友愛會ゝ員が革命性社會運動の欲望を抱くの日あるとすれば、此分散的傾向は再び變化するかも知れない。更に現在の日本に於ける勞働運動の傾向が友愛會に依つて代表せらるゝものとすれば、現在にあつては日本に於ける全勞働運動の傾向も亦分散化しつゝあるものと見らるべく、同時に將來勞働階級の欲望内容が革命性を帶び來たる時、全運動の傾向も亦一變するものと考へ得られる。

かゝる現状及び將來の變化は、前述の如き吾々の法則的解釋即ち勞働者の欲望の内容と、模倣心理との交錯によつて實現するものと見なければならぬ。友愛會の成立は少數者の結合に始まり、その結合自體を模倣せる者の參加に依って成り立った。即ち創造と模倣の一回轉であつた。而して今、解體の過程に踏み入つた事も、始め會の一隅に現はれた事實が、たまたま會員の意識の中に潛在せる經濟的欲望の自覺に觸れ、忽ち模倣を呼び起したものである。將來に於て運動が革命性を體現する事も亦同一過程の反覆に依るであらう。即ち、優勝的欲望を有する少數の先行者に依つて革命性運動が提示さるゝ時これに對する總員の模倣に依つて全運動を革命性化する事となるであらう。

運動の革命化と集中化

こゝに吾々は一の斷定を試みる。それは勞働運動の分散化は主として經濟的欲望に基く改良性運動に感じた傾向であつて、若し優勝的欲望に基く革命性運動が要望さるゝ時來らば、全運動は必然に又異なれる傾向を現はさねばならぬとの斷定である。蓋し、人間の優勝的欲望は、自己の所屬する社會(勞働團體も勿論一の社會である)の擴大を要求する。それは自己の住む家屋をば居住上の必要以上に擴大するを望む心理が、優勝的欲望に基くものなるが如くである。故に此の一面よりすれば、勞働者等が自己の屬する團體の益々大ならん事を希望するは、即ち彼等が優勝的欲望を抱きたる時運動は集中化するとの如上提説の一根據である。

他面革命性運動の戰術として、運動の集中化を必要とすべき理由がある。それは即ち現存特權階級の勢力がその基礎たる資本の集中と竝行して集中しつゝある事實である。集中せる勢力に對し分散せる勢力をもつて拮抗する事の不可能なるは、團結の勢力がその單位の個々勢力の總量よりも遙かに大なりと言ふ一切の團體運動を支配せる社會學的根本命題の直接に指示する處である。個々の資本家に勞働條件の改善を要求する改良性の運動でさへ、資本家の背後にある其集中的勢力によつて屡々妨害される。況や此集中せる勢力そのものゝ打破を目標とする革命性運動が、分散せる勢力に依つて行はれ得ざるは自明の理である。

一方、優勝的欲望は所屬團體の擴大を望み、他方、運動上の戰術は勢力の集中を要求する。而して此の時には、優勝的欲望が經濟的欲望を凌駕して居る。故に運動の集中化に背馳せる經濟的欲望は、その發言權を潛むるであらう。則ち運動は必然に集中化されねばならぬ。

これを約言すれば、現時の友愛會によつて代表せらるゝ我國の勞働運動は、その本質改良性なるが故にこそ分散化の傾向を示したのである。而して將來その本質革命性を帶び來たる時、其傾向上に必然集中化の一變化を來たすであらう。

國家社會主義との一致

勞働運動集中の範圍は、國境に一致すると考ふべき根據が二つある。それは、集中の政治的對象たる特權階級の勢力集中が國境を範圍として行はれて居るが爲めと、類似相親しむと言ふ社會學的法則より演繹して、同一國民間には他國民に對するよりも遙に濃厚なる親和、即ち結合の重要なる素質が存在して居る事である。

そこで勞働運動の集中化は、必然國家社會主義の思想に結び付く事となる。思ふに國家社會主義は、三個の特質を持つて居る。第一は運動範圍の單位を一國家に置く事である。第二は運動過程を集中的形態に置くことである。第三は將來社會の經濟組織觀を集産主義に置く事である。そこで第一と第二の條件は勞働運動の集中化によつて、その主要部分が實現される。從つてその第三の特質たる將來社會觀も、集中的勞働運動の將來社會觀に一致すると見做さなければならぬ。故に勞働運動が、その本質の革命化する事によりて、その形態が集中化するとの吾々の右の前提が眞であるならば、吾々はまた國家社會主義の理論を正しとせねばならぬ。更に推論の順序を逆轉して考ふる時は、國家社會主義を主張することは、勞働運動の必然的歸結なる集中化によつて、その論理的根據を與へられる事となる。

最後に、尚ほ説き洩された一問題がある。それは勞働運動が果して革命化するや否やと云ふことである。けれども本文に説かんとするは、社會主義その者でなく、社會主義の一派を構成す可き論理の究明である。そこで、勞働階級の一隅に革命性運動の提唱者が出現する事、及び勞働階級がそれに模倣し得るまでに革命的慾望を抱き得るに至る事に就ての論證は、社會主義そのものゝ説明に屬することであつて、社會主義の一系派を説く本文には既に前提として認めらるゝ所である。たゞ附言す可きは、友愛會の成立初期に於て勞働團體の形式そのものが、多數の會員を吸収し得たるが如き模倣心理の作能に依つて、今後革命性集中的勞働運動も亦、運動の形式自體に基き多數の勞働者を糾合し得るの日あるべしてふ事である。此時こそ、時代は急轉する。一切の社會事象が社會主義に向つて朝宗し來たり、各々の抱懷する大衆運動は此時實現して、或は急激に或は緩慢に、社會□□(1)的變動に導くであらう。而して集中化せる勞働運動の史的使命は、斯る社會推轉の槓杆たるに在る。


底本:『改造』第二卷第十一號(大正九年十一月)

注記:

(1)□□:原文は空白。

改訂履歴:

公開:不詳
改訂:2006/04/16
改訂:2007/10/08
最終更新日:2010/09/12

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