マルサスの人口論

高畠素之

1.『人口論』の由來及構造

人口論の元祖はマルサスで、マルサスが『人口法則』の著者であることを知らぬ人は少ないが、その人口論の内容は案外世間に知られてゐないらしい。新マルサス主義者と稱する連中は、産兒の制限といふことを唱導するから、マルサスの人口論も多分そんなことを主張するのだらうと考へてゐる人々もあるやうだ。これは甚だしい無知で、マルサスの人口論は決してそんなものではない。成るほど産兒制限といふ方策は、マルサス人口論から引き出せるけれども、それは澤山ある方策の中の一つに過ぎず、しかもマルサスの意向とは反對の方向にあるものである。その理由はあとで分るが、何にしろマルサス人口論の眞價は、かやうな方策の方面にあるのではなく、それらのものゝ依つて來る根本原理に存するのである。で、茲にその根本原理の大略を最も簡單明瞭に解説しようとするのだが、この仕事はマルクスの『資本論』を解説する場合のやうに困難ではない。といふのは、マルサスの人口原理そのものが、非常に單純明瞭だからである。

しかし、本題に入るに先だつて、マルサス『人口論』の生れた機因と、その論文の構造とを一寸述べて置かう。

マルサスは『人口論』初版の序文の中で、この論文はもとゴツドウヰン氏の論文の主題即ち氏が『研究録』の中に述べてゐる貪慾と浪費とについて、私が一友と交換した會話に由來するものである、といつてゐる。その一友とは、彼の父ダニエル・マルサスのことである。この親父は金もあり、ハイカラな思想も持つてゐる申分のない紳士で、生前ルツソーと親交があり、フランス大革命の種を蒔いた改革思想の共鳴者であつた。ところが、息子のマルサスはフランス流の革命思想には大反對で、殊に一七九三年一月におけるフランス革命黨の國王死刑の暴擧及びその後に引續いた恐怖政治を見て、その反感を深めたのである。この父子の論爭を惹起したウヰリアム・ゴツドウヰンといふ人は、英國における無政府主義の開祖とも見做される人物で、一七九三年に『政治的正義』を、一七九七年に『研究録』を著はし、當時の思想界に非常な反響を呼び起した。ゴツドウヰンはロツクやヒユームやルツソーなどと同樣に、人間の道念といふものは外部からの印象の産物に外ならないといふ前提に立つてゐた。人性は本來白紙の如きものであつて、境遇次第でどうにでも變るものである、だから、社會的環境と制度とを改良すれば、罪惡と不幸とは世界から跡を絶ち、人間は完全の域に達すると彼は考へたのである。マルサスの父はこのゴツドウヰンの思想を受け容れたが、マルサスは大いにこれに反對で、父との論爭から、彼れはその主張を文章に現はして世に問はんと思ひ立ち、遂に一七九八年に匿名を以つて『人口論』の第一版を公けにした。

この人口論第一版は、その目的からして當然論爭的な調子が濃く、性急と偏頗とを免れなかつた。マルサス自身も後にこの缺點を認め、一八〇三年に出した第二版では、それを修正し、その上になほ新らしい内容も豐富に加へて、第一版とは全然面目を異にするに至つた。その後マルサスの生前に『人口論』は第六版まで出たが、いづれも第二版の内容と大差なく、各版毎に多少の増補修正を重ねただけであつた。そして現今世間に行はれてゐるのは、その第六版である。

ところで『人口論』の構造だが、この書物は全四編より成り、第一編では人口の一般原理を述べて、過去現在の各種の社會の人口制限の觀察に及び、最低段階の人間社會から始つて、アメリカインデイアン、南洋諸島土人、北歐古代の住民、近世の牧畜民、アフリカ諸地方、南北シベリア、トルコ諸領及びペルシア、インド及びチベツト、支那及び日本、古代ギリシア、古代ローマ等の住民間における人口制限の實例を面白く述べてゐる。第二編では第一編を承けて近世ヨーロツパの諸國民の人口制限について觀察を下し、幾多の統計を利用してゐる。第三編ではゴツドウヰン及びコンドルセーの平等主義を反駁し、移民政策及び救貧法を論じ、重農主義、重商主義、農商竝行主義などを論じ、穀物法を論じ、社會の富の増加と貧民状態との關係を論じてゐる。そして第四編では道徳的抑制の義務を力説し、貧民の状態を改善せんとする各種の提案に批評を下し、自己の改善案を提出してゐる。

2.罪惡と貧困の根本原因

ゴツドウヰンやその他の理想主義的社會思想家は、社會に罪惡と貧困が存在するのは、社會に正しからぬ制度が行はれてゐるからだと認めたが、マルサスはこの説に反對して、罪惡と貧困の眞の大原因は他に存し、これに比べれば社會制度の如きは水に浮ぶ一枚の羽毛のやうなものだと言ふ。では、その眞の大原因とは何かといへば、人間は準備された食物以上に増加しようとする不斷の傾向を持つといふことである。マルサスは先づ二つの前提から出發する。

一、人間は食物がなくては生存し得ない。

二、男女間の情慾は古來變化がなかつたし、將來も亦變らないであらう。

第一の命題は、勿論何人も異論がないであらう。しかし、第二の命題は、必ずしもさうでない。現に、人間の文化の程度が進むに隨ひ、欲望の種類が多くなつて、性慾方面に支出されるエネルギーの量が減殺されるといふ説も相當に行はれてゐる。ゴツドウヰンも性慾不變説には反對で、性慾は將來減退するだらうといひ、性慾をこき下ろすために、性慾から一切の附屬物を取り去れ、さうすればそれは輕蔑すべきものになるだらうといつた。マルサスはこれに對して、ゴツドウヰンの言草は、樹木から一切の枝葉を取り去れ、さうすれば裸柱に何の美があるかといふに等しい。我々は單なる女といふものに惹きつけられるのではなく、優雅な擧措や、つゝましい心情や、美しい姿をもつた彼女に惹きつけられるのだといつて、一矢酬ゐてゐる。そして、人間は清い愛情に刺戟されてゐる時ほど、道徳的になり、英雄的になる場合は滅多にないといひ、男女間の情慾の必要を主張してゐる。マルサスは罪惡と貧困との原因を人口の増加に求めるのだから、男女間の情慾を排斥するのだらうと推量されるかも知れないが、それは誤りである。

男女間の情慾が不變であるとすれば、結婚の形式は如何にあらうとも、當然子供が生れて來る。女が二十歳前後で結婚すれば、一生のうちに五六人位は子を産む。もつと早く結婚すればもつと多く産むし、晩く結婚すればそれだけ少なく産む勘定だ。が、兎に角、一組の夫婦は、自分達よりも數の多い人間をこの世に送り出すから、人間の頭數は次第に殖える一方である。ところで、この殖える人間を養ふべき食物の方は何うかといへば、食物も勿論増加して行くが、マルサスの主張によれば、人間ほど速かに増加する力は持たない。そこで、人間は生れて來た者に食物を宛がつてやることが出來ぬといふ、苦しい破目に陷らざるを得ない。

この惱みはひとり人類だけが持つものでなく、すべての生物に共通してゐる。マルサスの引用してゐるフランクリン博士は、動植物は群集して相互の生活資料を犯すため蕃殖を制限されるが、それ以外に彼等の蕃殖性を制限するものはない、といひ、また若し地球上に他の食物が存在しないと假定すれば、例へば茴香の如き一種類の食物が次第に蕃殖して遂には全土を覆ふに至るだらうし、また他の國民がゐないと假定すれば、ただ一つの國民、例へば英國民といつたやうなものが僅かの間に全地球を埋めてしまふだらうといつた。これは爭ふ餘地のない眞理であるが、すべての動植物はその生存上必要な場所と養分とを無限には持つものでない。それで、その無限の蕃殖力は、場所と養分の許す範圍内でしか發展することが出來ず、その範圍以上に出る部分は何かの形で抑壓を受けねばならない。

植物と人間以外の動物との場合には、問題は簡單である。彼等は全く盲目的に生殖本能を働らかせ、生れた者が場所と養分を得られるか何うかを顧慮しない。だから、ひまさへあれば蕃殖力が作用し、そしてその作用の結果多過ぎるものが生れて來れば、生れた後に場所と養分の缺乏のため死滅する。

しかし、人間の場合はさう簡單には行かない。人間には將來のことを慮る理性といふものがある。だから、人間も、動植物と同樣に強力な生殖本能を有するけれども、理性はこの本能の自由な活動を牽制し、子供が生れたとき自力で扶養し得るか否かを反省せしめるのである。そこで、結婚を見合はせたり、結婚後産兒を制限したりする方法がとられるが、それには屡々罪惡が伴ふ。しかし、斯ういふ豫防的の制限は、將來は兎も角、過去現在の社會では不充分にしか行はれないので、人間も動植物と同樣に生れた後に食物缺乏で制限されることになる。人口が食物の分量よりも多くなれば、社會のどこかの部分に食へない人が出來る。平等主義者の主張するやうに、食物をすべての人に平等に分配すれば、すべての人間が食物不足に苦しむことになる。しかし、財産私有の行はれる社會では、運の惡い連中が食物不足に苦しむことになる。

3.食物増加率と人口増加率

人間は食物がなければ生存し得ず、食物増加のない所には人口増加もあり得ない。ところで、人口の増加率が食物の増加率よりも速かなことは過去現在の各種の社會を觀察して見れば分る。しかし、さうしないでも、最も都合のよい條件の下で人間はどの位の速度で増加するかといふことを考へ、また人間が最も都合のよい事情の下で働らくとして、土地の生産物はどの位な速度で増加するだらうかと考へて見れば、問題は明白に了解される。

マルサスは、人口増加が妨害されなかつた場合の増加率を推定する便宜として、アメリカ合衆國の實例を採用してゐる。アメリカの北部諸州に於いては、近世歐洲の諸國に比べて、生活資料はヨリ豐富であり、人民の風俗はヨリ純朴であり、隨つてヨリ容易に早婚が行はれたので、人口が二十五年毎に倍加した。しかも或る都會では死亡率が生産率に超過した場合もあつた位だから、平均の上で、この缺損を埋め合はせる所の田舎の出産率は、ヨリ高かつたと見ねばならぬ。實際、農業を唯一の仕事とし、惡習や不健全な職業のない奧地の方では、人口が十五年間に倍加した事實さへ知られてゐる。しかし、この異常な増加率でも、恐らく人口増加力の頂點を示すには足りない。アメリカ移住民たちは、處女地を開拓してその食物を増加したのであるが、處女地の開拓は非常に骨の折れる勞働だ。さういふ勞働は、一般に生命を縮める傾がある。そして彼等は、時々猛惡なインデイアンの襲撃も受けたらうし、その結果、何程かの人命が奪はれ、或は兎に角、収穫を荒らされたに相違ないのである。

サー・ウヰリアム・ペテーは、人口は僅かに十年といふ短期間に倍加し得ると想像した。しかし、マルサスは、以上の實例に基づいて人口倍加の期間を二十五年としたら、最も内輪な安全な斷定であらうといつてゐる。

ところで、土地の生産物はどの位の率で増加するか。マルサスはこの問題の考察上、一の重大な經濟學説を認めた。それは即ち、収穫遞減の法則といふもので、彼れはこの法則を明確な形では言ひ現はさなかつたけれども、次のやうに述べてゐる。曰く、耕地が次第に擴張され遂にすべての肥沃な土地が占有されるに至れば、食物の年々の増加はどのみち既耕地の改良に俟つほかはないが、この資源は、すべての土壌の性質からして、遞増しないで遞減して行くと。

人間が殖えるに從ひ、從來顧みられなかつた荒蕪地でも耕作が行はれるやうになる。日本のやうな人口稠密な國では、山の上にまでソバ、粟などいふ粗末な食物を植ゑてゐる。しかし、斯ういふ瘠地からは、勞働と資本とを多量に投じても、その割合に多くの食物がとれないことは分り切つてゐる。無暗に荒蕪地を開墾するよりも、その勞働と資本とを肥えた既耕地に投じた方が割りに合ふことが認められてゐるが、さうすれば前述の『収穫遞減の法則』が働らき出す。つまり、既耕地の改良や施肥などのために、今年或る分量の資本と勞働とを追加して五石の収穫増加を得たとしても、來年更らに同一量の資本と勞働とを追加しても五石といふ収穫増加は得られず、その翌年の追加資本及び勞働は更らに少量の収穫増加しか齎らさない。土地の生産物は斯ういふ性質を持つてゐるから、一定面積における土地生産物の増加率は、人口増加率のやうに斷定することは出來ない。しかし、マルサスは次のやうな説明を與へてゐる。

イギリスの農業は大變發達してゐるけれども、まだまだ進歩の餘地はある。そこで、假りに、最善の政策を採用して、大いに農業を奬勵することにより、この島國の平均産物が二十五年で二倍になると假定する。これは、合理的に考へ得る最大の増加だらう。その次の二十五年間に、生産物が四倍になると考へるのは、土地の性質に關する我々の知識に反する。そこで、今假りにこの島國の生産額は二十五年毎に、現在の生産額に等しい分量だけづゝ増加して行くものと假定する。如何に熱心な空想家でも、これ以上の増加を想像することは出來まい。ところで、この増加が行はれるとすれば、數百年のうちにこの島國は隅から隅まで花園のやうになつてしまふだらう。若しこの假定を全地球に適用し、地球の與へる人間の生活資料が現在の産額に等しい分量だけづゝ二十五年毎に増加して行くと認めるならば、それは人間の努力で作り得る可能な増加率よりも、遙かに大きな率であらう。それ故、地球の食物産出量は、人間が働らくに最も都合のよい事情の下にあつても、等差的に増加するに過ぎないと斷言してよい。

斯くして、人口は等比的に増加するのに、食物は等差的にしか増加しないといふことになる。即ち、人口は一、二、四、八、十六といふ風に鼠算で増加するのに、食物は一、二、三、四、五といふ風に、一單位だけづゝしか殖えて行かないのである。

以上二個の増加率をつき合はせて見ると、大變な結果が現はれて來る。イギリスの人口を一千一百萬とし、現在の生産額はこの人數を容易に養ひ得ると假定しよう。最初の二十五年間に人口は二千二百萬となり、食物も亦倍加する。次の二十五年間には人口は四千四百萬となり、食物は唯だ三千三百萬の人口を支へるに足るだけとなる。その次の時代になると人口は八千八百萬となり、食物は丁度その半分の人口を支へるに足るだけになつてしまふ。そして百年後には、人口は一億七千六百萬となるのに、食物は僅かに五千五百萬の人口を支へるに足るだけとなり、一億二千一百萬の人口は全然食物を與へられないことになる。

イギリスといふ島國を離れて、全世界を眼中に置く段になると、移民による過剩人口の處分などは問題でなくなる。假りに、現在の世界人口が十億であると假定すれば、人類は一、二、四、八といふ率で増加し、食物は一、二、三、四といふ率で増加するのだから、二世紀の後には人口對食物の比が二五六に對する九となり、三世紀後には四〇九六に對する一三となり、二千年も後にはこの差は殆んど勘定も出來ぬほど大きくなつてしまふ。

右の通り人口増加の勢は、食物増加の勢よりも優勢なのであるが、人間は食物なしには生活は出來ない。そこで、この優勢な人口増加力は、必ずや何等かの制限作用によつて、食物増加の速度と歩調を一致せしめられねばならない。

4.人口に對する制限の種類

前述のやうに人口増加は、人口と食物の増加率に差異のあるため必然的に生ずる所の食物不足によつて制限される。しかし、この窮極的の制限は、飢饉といふ場合を除けば、直接的には現はれるものでない。人口はこの絶對的な制限を受ける以前に、種々の原因から直接的の制限を受ける。この直接的制限をなすものは、生活資料の不足から生ずると思はれる一切の習慣と疾病、それからこの不足とは關係がないけれども人體の衰弱と死亡を早める所の一切の道徳的物質的原因である。

これらの人口制限は、強弱の差こそあれ、如何なる社會にも作用してゐて、人口を生活資料の水準に抑止するのであるが、大別して積極的制限と豫防的制限とに分けることが出來る。即ち、生れ來る人口を阻止する防禦的の制限と、既に生れてゐる人口を減らす積極的の制限に分類し得る。

積極的制限の中には極めて澤山の種類が含まれ、罪惡から起るものにしろ、貧困から起るものにしろ、兎に角、人間の自然的壽命を縮める一切の原因がこれに屬する。だから、この制限の中には、すべての不健康な職業、苛酷な勞働や寒暑の害、極端な貧乏、小兒の榮養不良、大都會、凡ゆる種類の不節制、凡ゆる普通病及流行病、戰爭、傳染病、飢饉等を擧げることが出來る。

豫防的制限は、それが有意的である限りでは人間に特有のもので、將來を慮る人間の優れた理性に基づくものである。しかし、この制限は、人間の自然的欲望を抑制するのであるから、その抑制に罪惡が伴はぬと假定しても、人間にとつて一の害惡には相違ない。この抑制に罪惡が伴ふ段になると、そこから生ずる弊害には甚だ著しいものがある。性道徳の頽廢が社會に瀰漫すると、その結果、必然に家庭の幸福が亂され、夫婦親子の情愛が弱められて、社會一般の幸福と道義とが大いに損はれる。殊に私通は、色々な他の罪惡を招く。

以上の積極的豫防的の人口制限は、これを別の見方で分類すると、道徳的抑制、罪惡、貧困の三者に分れる。豫防的制限の方面では、變則的な性慾滿足を伴はずに行はれる結婚の抑制が、道徳的抑制に屬する。亂媾、不自然な情慾滿足、夫婦の性冒涜、私通の結果を隱蔽する不正手段等は、明らかに罪惡に屬する豫防的制限である。

積極的制限についていへば、自然の法則から必然的に來るやうに見えるものは、いづれも貧困に屬するといつてよい。そして戰爭、不節制の如く、明らかに人間自身が作り出すもの、その他、人力で避け得る多くのものは、混合的性質を持つてゐる。即ち、それらのものは、罪惡によつて齎らされ、その結果は貧困を生ずるのである。

5.人口制限の作用方法

以上に擧げた積極的豫防的の諸制限は寄り集つて、人口に對する直接的制限を形成する。人口の増加力が充分に現はれてゐない國、即ち二十五年以内に倍加するやうな増加速度を示してゐない國には、必らずこれらの諸制限中の何づれかゞ、何等かの程度で作用してゐる。しかし、この作用があるにも拘らず、人口が生活資料の範圍以上に増加する不斷の傾向を持たぬ國は殆んどない。この不斷の傾向が、絶えず下層社會を貧困に陷れ、彼等の境遇の目立つた永久的の改善を妨げてゐるのである。

現在の文明社會の状態では、右の結果は次のやうな過程に隨つて生ずる。今、或る國の生活資料は丁度その人民を支持して行くに足るだけあるとする。人口増加の不斷の傾向は、この場合にも、生活資料の範圍を超えて人民の數を増加させる。そこで、以前に千五百萬の人口を支持した食物は、今や千六百萬の人口に分配されねばならぬことになる。隨つて貧乏人は益々貧乏となり、その多數は非常な困窮に苦しまねばならぬ。勞働者の數は市場に於ける所要勞働量に比し多過ぎることになつて、勞働賃銀は下り、一方では食料品の價格が騰貴する。隨つて、勞働者は前と同じだけ儲けるのに前よりは餘計に働かねばならぬことになる。かういふ困難の時期には結婚數は減少し、家族を扶養することは困難になるから、人口の増加は緩慢となる。その一方では勞働賃銀が安く、勞働者が餘る程あり、勞働者が一層精勤をはげむといふ事情が相合して、やがて農業家をしてヨリ多くの勞働者を雇傭して新らしい土地を開墾せしめ、既耕地を改良せしめることになり、遂には人口と生活資料との割合が最初と同じ比例になる。さうなれば、勞働者の境遇は再びかなり良くなつて、人口に對する抑制は或る程度まで弛められる。かうして、人民の幸福に關する逆轉進轉の運動が繰り返されるのである。

以上の説明は大體に於いてマルサスの説明をその儘移したのであるが、この説明はかの獨逸の社會主義者ラツサレに依つて『賃銀鐵則』と名づけられた所の經濟學説の萌芽と見做し得る。この學説はマルサスと同時代の經濟學者、デヴヰツド・リカルドも説いた所であるが、マルクスは『資本論』の中、産業豫備軍を論じてゐる場所で、この説を論駁してゐる。

餘談はさて措き、再びマルサスへ歸らう。右に述べた進轉逆轉の運動は、あまり判然と人の目に映らない。それには色々な原因がある。在來の歴史が、單に上層階級の歴史に止つて、この進轉逆轉の運動が主として起る下層社會の歴史的事實につき、信頼するに足る説明材料を我々は殆んど持たない、といふことも、その原因の一つなのである。それから、變動の時期そのものが、色々な介在的原因によつて不規則にされるといふ事情もある。その介在的原因といふのは、例へば或る製造業の勃興又は衰退、農業上の企業的精神の盛衰、年の豐凶、戰爭、流行病、救貧施設、移民、その他類似の諸原因である。

殊に、この變動を曖昧ならしめる重大な原因は、勞働の名目上の賃銀と實質上の賃銀とに差異のあることである。勞働の名目上の賃銀が一般的に下落するといふことは、極めて稀れにしか起らない。しかし、食料品の名目上の價格が高くなつてゐるにも拘らず、勞働賃銀の方は何時までも同じでゐるといふ現象は屡々見る所だ。これは實質上からいへば勞働賃銀の下落であつて、かういふ状勢が續く間は、下層社會の境遇は漸次に惡くなる。だが、資本家の富は、勞働の實質上の賃銀が低廉なために益々膨張する。資本が膨張すれば、益々多數の勞働者を雇ふことが出來る。しかし、人口の増加は、實質賃銀が安く家族扶養が困難なために妨害されるから、一定の期間を過ぎると勞働の需要は供給に超過し、需要供給の法則に隨つて勞働賃銀は騰貴することになる。この樣に、勞働賃銀は名目上少しも變動しないのに、實質賃銀が、隨つて下層社會の状態が、進轉逆轉の運動を行ふといふことも有り得る。

賃銀勞働などゝいふものゝ存在しない野蠻社會にも、右と同じ性質の變動が行はれることは疑はれない。人口が殆んど食糧の極限まで増加すれば、あらゆる豫防的竝びに積極的の制限が活動を開始して、性に關する惡風が流行し、捨兒や嬰兒殺しが増加し、戰爭と疫病の發生する機會が多くなり、またその慘害程度も甚だしくなる。そして、人口に對するこれらの制限作用は、人口が食物の水準下に減ずるまで繼續するが、そのために食物が幾らか豐かになると、再び人口の増加が始まる。そして、一定期間を過ぎると、再び前のやうな原因でその増加が阻止される。

以上の理論はどう考へても明白確實であつて、これを否定する理窟は思ひ當らない、とマルサスは主張する。そして、彼れは、その理論を次ぎの三つの命題に約した。

一、人口は必然的に生活資料によつて限定される。

二、人口は、非常に有力且つ明白な制限によつて阻止されない限り、生活資料の増加に伴つて必らず増加する。

三、これらの制限、及び優勢な人口増加力を抑壓してその結果を生活資料の水準に抑止するすべての制限は、道徳的抑制、罪惡、貧困の何づれかに歸屬する。

マルサスは、この命題の第一は説明するまでもないことであり、第二と第三とは、過去現在の社會における直接的制限を觀察することによつて充分確證され得るとなし、最低段階の野蠻社會から始めて、順次に各種の社會の歴史的統計的研究に進んでゐる。

この歴史的統計的研究は非常に克明で、詳細を極めてゐるが、結局、次のやうな結論に達する。男女間の情慾といふものは、いつ如何なる社會でも、殆んど同じ強さのものであると思はれる。然るに、その結果たる人口増加に對しては、常に必らず色々な方法で制限が加へられて來たのである。野蠻人の社會に於いては、戰爭が最も有力な制限であつた。そして、野蠻の域を脱した、かなりに文明程度の進んだ社會でも戰爭は時々起り、そして下層民の間には絶えず周期的に流行病と飢饉が起つて、これらのものが最も有力な人口制限をなした。社會の進歩につれて戰爭の機會は少なくなり、衞生施設は發達し、都市は改善され、更らにまた土地生産物の分配法も改善されたために、流行病、飢饉の慘害も大いに緩和されて昔ほどは頻發でなくなつた。そして、その代りに豫防的制限が盛んに行はれるやうになつた。

しかし、現在の状態では、この豫防的制限には屡々罪惡を伴つてゐる。結婚延期の期間中道徳を守るといふ道徳的抑制の部類に入る豫防的制限は、現在では男子の間にはあまり行はれてゐないが、それも社會の進歩とともに段々行はれるやうな傾向を示してゐる。女子についていへば、近世の文明國では生涯のかなり長い期間を道徳的抑制を守りつゝ送る者の割合が、昔に比べて、或は文明の遲れた國々に比べて、遙かに多くなつてゐることは確かである。兎に角、結婚の結果を考慮して、結婚を延期するといふ一般的意味における豫防的制限は、文明になればなるほど有力に作用し、積極的制限は漸次に驅逐されるといつて差支ない。これは喜ぶべき傾向で、家族扶養の見込が充分に立つまで結婚を見合はせ、而もその間、嚴格に道徳的行状を守るのは、神と社會とに對する人間の義務である。

6.マルクスのマルサス説批評

最後に、マルクスのマルサス説批評をつけ加へて、この稿を畢ることにしよう。マルクスは『資本論』の中で、かなり激越な口調を用ゐてマルサスを罵倒してゐる。マルクスは動植物界における生存競爭は認めるが、人間界には、マルサスの主張する如き人口原理は適用しないといふ。各時代の生産事情はおのおの特有の人口法則を持つもので、永久不變の抽象的な人口原理などいふものはない。現代における人口過剩の現象は、資本主義經濟の所産であるとマルクスは主張する。

マルクス説の立場からすれば、現代の過剩人口には二た通りの意義がある。第一は資本主義經濟そのものに直接相伴ふところの恆久的過剩人口、他は資本主義經濟に必然相伴ふ現實的投資の伸縮によつて増減せしめられる所の一時的過剩人口である。

資本主義の下における産業の發達は資本の蓄積と表裏してゐる。蓄積とは社會全體の資本がヨリ大となることである。生産力の發達はヨリ大きな資本の充用を意味し、ヨリ大きな資本の充用は生産力の發達をも意味する。ところで、資本が擴大されて生産力が増進するといふことは、資本中の生産機關(機械、建物、原料)に充用される部分(マルクスの謂はゆる不變資本)が増大して、勞働者雇傭に充用される部分(マルクスの謂はゆる可變資本)が相對的又は絶對的に減少することを意味する。即ち、資本の蓄積が進み、生産が發達するに從つて、勞働者の雇傭に投ぜられる資本部分はますます減少して來る。これがため、雇傭されない、職を得られない不斷の勞働者人口が造り出される。資本主義の發展とともに機械經營が發達して、熟練技術の必要を驅逐するといふ傾向も、この過剩勞働者群の擴張に貢獻する。なぜならば、この場合には、勞働が容易になつて、未熟の婦女、幼童も一人前の勞働をなし得るやうになり、勞働軍の範圍が擴大されるからである。斯くして、恆久的の過剩勞働者群が造り出される。この勞働者群は軍隊の豫備軍のやうなもので、資本家は必要に應じて自由にこの豫備軍の中から勞働者を召集し、不用になれば自由にこの豫備軍中に放り込む。けれども、この過剩人口は、マルサスの謂ふ如く人口が食物以上の急速力で増殖する結果ではなく、反對に物資の生産力が勞働者雇傭に充用すべき資本部分以上の急速力で増大する結果なのである。

第二種の過剩人口は、現實的投資の伸縮につれて増減する。現實の投資は、産業界の景氣の如何に應じて、絶えず伸張したり収縮したりしてゐる。それが伸張した場合には勞働需要も殖えるが、需要の殖える割には賃銀は昂騰しない。殖えた需要は先づ恆久的豫備軍を以つて充たし得るからである。この豫備軍の全部を以つてしても尚、充たし得ないといふ程に勞働需要が殖えることは、戰時その他異常な場合を除いては滅多にない。投資が収縮して、勞働需要の減少した場合には、過剩となつた勞働者は無造作に豫備軍の中へ放り込まれる。要するに、現代の過剩人口といふものは、實際に生活資料が不足だから生ずるのではなく、資本主義經濟がこれを造り出してゐるのである。

このマルクスの人口論が、どの點まで眞實で、どこまで無理があるか、その判斷は讀者に任せるとして、茲にはただマルサス人口論紹介の尻尾を飾るために、マルクスの言ひ分をザツと掻い摘んで置くに止める。尚、マルクスの、人口論については、拙譯『資本論』(改造社版)第一卷六〇二頁以下を見られたい。


底本:『改造』第九卷第十二號(昭和二年十二月。「大衆講座」の一つ)

改訂履歴:

公開:2007/08/12
最終更新日:2010/09/12

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