階級獨裁と政黨獨裁

在獨 力ール・カウツキー
高畠素之(譯)

(1)階級と門閥

曾てマルクスに依つて刻印されたプロレタリアの獨裁と云ふ言葉は、此數年來格別熱心に宣傳された。不幸にしてマルクスは、彼れが偶然發した此言葉を更らに立入つて究明するに至らなかつたのである。エンゲルスも亦一八七一年の巴里コンミユーンはプロレタリア獨裁の一例だと言つたことはあるが、それも只一度きりで、それ以上の攻究には携らなかつたのである。

所で此兩先輩の全思想體系に着眼する人にとつては、プロレタリア獨裁なる語の意義を如何に解すべきかと云ふことに就き何等の疑念も存し得ないのであるが、個々の文言に拘泥する人にとつては、此獨裁なる語は充分説明に値するものたるを失はないのである。實際のところ此言葉には、尚いまだ研究し盡されて居ない幾多の問題を含んでゐる。

プロレタリア獨裁の代辯者たちは、好んで此獨裁に資本の獨裁を對立させる。即ち資本獨裁に代ふるにプロレタリア獨裁を以てしようと云ふのが、彼等の主張なのである。所が仔細に考へて見ると、プロレタリア獨裁なるものは特殊の國家形態たるサウエート共和制を要すると説かれてゐるに反し、資本獨裁の方は種々樣々の國家形態と一致し得るものであることが分る。資本獨裁なるものは、君主國にも共和國にも集權國家にも聯邦國家にも、普通選擧の下にも、階級選擧の下にも甚しきは何等の選擧權存せざる場合にも存するのである。

資本獨裁と稱する所のものは畢竟するに、無産プロレタリアが生産機關の獨占者たる資本家に左右されると云ふ事實を示すに過ぎぬ。

個々の資本家は先づ自己の經營内に於て獨裁を行ふ。而して階級獨裁とは要するに、種々なる資本家か其企業内に於て強行する個別的獨裁の總計に外ならぬ。

プロレタリアに對する資本の斯くの如き獨裁に對立すべきものは、資本に對するプロレタリアの獨裁ではなく資本關係を撤廢すること是れである。換言すれば、資本家を消滅せしめ勞働者をばプロレタリアたる位置から、社會的に調節さるべき生産行程に對する關與者たる位置に轉ぜしむること是れである。

資本獨裁は政治上の現象ではなく、經濟上の現象である。さればこそ、夫れは種々異れる國家形態と一致し得るのである。反對に、資本に對するプロレタリアの獨裁と云ふ言葉は、之れを經濟的に解するならば意味をなさない。資本が個々の經營を我手に所有してゐる限り、其經營内に於てプロレタリア獨裁を實行すると云ふことは不可能である。斯くの如き獨裁が可能たるには、資本家が其經營に對する一切の所有權、及び其經營内に於ける一切の權利を喪失すると云ふ條件を要する。然し此條件が實現された曉には、もはや、プロレタリア獨裁の對象たる資本家一般が經濟上廢除されたことになる。

實際のところ、プロレタリア獨裁なる語は常に政治上の意味に解せられてゐる。即ちプロレタリアは國家權力を占取して、之れを自己の利害關係に一致したやうに行使する。換言すれば、資本家に對抗して此國家權力を行使するのである。一般的社會化の遂行されざる限り、資本家は尚暫時、一定の生産部面に於て經濟上その職分を續行するからである。斯く解することに依つてのみ、プロレタリアの獨裁と云ふ言葉に意義が含まれて來る。然し斯樣に解した場合プロレタリアの獨裁に資本の獨裁を對立させることは不條理となる。なぜならば、斯くの如き對立は、經濟上の事實と政治上の要求と云ふ二個の比較し得ざる事物を相互比較することになるからである。

然しプロレタリアの獨裁と云ふ書葉を、それに意義あらしむる唯一の方面から、即ち政治上の一要求として解すると云ふことになると、茲に又新たなる問題が生じて來る。それは即ち、一階級は直接政治上の支配權を獲得行使することが出來るか何うか、又出來ないとすれば出來るやうにするには如何なる中間段階を要するかと云ふことである。

階級とは人の生計の基礎たるべき收入源泉の種類――例へば、勞銀、利潤、地代等――隨つて又人間の行爲を動かす利害の種類に於て相互一致するところの個々人の總計を謂ふ。加ふるに又大抵の場合、生活條件竝に習慣、及び夫れに基く風俗、儀禮、見解等の一致をも必要とするのである。斯る一致の結果、一階級の平均成員は相互の條件等しき限り、何づれも自己の階級仲間と同樣の行爲をなす傾向を生じ、互ひに共同の目標を立て共同の敵に對して之れを達成しようと努める。然し此揚合、一階級の成員總體は鞏固なる外部的結合を形成するものではない。それ白體としての階級は組織を缺き、又他階級に體する嚴密の區劃を缺くのである。

而して斯くの如き鞏固なる組織と區劃とを有するに至つたとき階級は一轉して門閥となるのである。

中世の社會は諸種の門閥に區分されてゐた。それは、變動緩慢なる生産事情の下に於ては可能のことであつた。然るに一切の經濟事情を間斷なく革命するところの資本制生産方法は、斯くの如き門閥上の區分と固定化とを許さない。ブルヂオアは其權力を掌握するに至つた何處に於ても、門閥上の區分を撤廢して、之れを悉く人民の大衆中に滅却し去つたのである。

此大衆中から階級の差別と其經濟上の根底とを索し出すは、一朝一夕の問題ではなかつた。それは實に、マルクスの如き又エンゲルスの如き大人物の力に依つて始めて成就された科學上の一大功績であつたのである。これに反して、門閥及び其區劃は一目明然と表面に顯はれてゐて、何人にも其儘これを認知し得るものであつた。門閥意識は最初より各成員に與へられてゐたのである。然るに明白なる階級意識は、一定の科學的認識に依つてのみ獲得し得るものであつて、それを普及せしむるには顯著なる開發事業と開發を受けた人々の熱心なる宣傳的活動とを要するのである。

階級對立なるものは、事態の牲質上必然的に生じ來たるものであつて、夙に人々の感知する所となるのである。けれども夫れは最初より階級間の對立として感知さるゝものではない。一例を擧ぐれば、プロレタリアの憎惡は最初一定の個々人に、搾取者中の惡性なるもの貪慾なるもの冷酷なるものに對して向けられるのであつて、資本家階級全般に對して向けらるるものではない。而して鬪爭が更らに擴大し、反對階級中の一定部類に對する鬪爭として現はるゝに至つた場合、それは先づ富者に對する貧者の鬪爭と見做されるに過ぎないのである。例へばベルネは其著『巴里書翰』中に於て、階級鬪事を其樣に名づけてゐる。マルクスを手本にして仕上けたラツサルレの如き人物でさへ、十九世紀六十年代に於ても、尚プロレタリアを小所得者と同一視し、かくて當時の小ブルジオア的小農的普魯西に於けるプロレタリアは總人口中の大多數を占むる者であるから、普通選擧制を實施すればプロレタリアは即時政權を獲得するに相違ないと主張したのである。

門閥と階級との間に顯著なる區別の存することは以上説く通りである。故にマルクスは、其門弟中の少なからざる者がプロレタリアを稱して第四閥と言つたことを喜ばなかつたのである。門閥的選擧制を樹立するは、極めて單純の問題であつた。其の成立は單なる實力問題たるに至つた。反對に、近世的生産方法を有する一國家内に嚴密なる階級區分――專擅及矛盾なくして現實に於ける階級選擧制の樹立を可能ならしむる所の――を與へんとせる企圖は、今日に至るまて悉く失敗に終つたのである。此方面に於けるブルヂオア的企圖は、國勢調査的選擧制を造り出す以外には何も心得て居らなかつた。極めて異れる階級の成員と雖も同等の所得水準を示す限り、一括して之れを同じ瓶の中に投げ入れたのである。然るにボルシエヰーキも亦、生産勞働と云ふことを選擧權賦與の標準にしてゐる。此點に於て彼等は、生産勞働――其意味は何うであるにもしろ――をなすものは單にプロレタリアのみであると信ずるかの如く、而して非生産的に使用さるゝ幾多のプロレタリアあるを忘れたるかの如くである!(予は『カムプフ』誌、第一三年第一二號紙上に此問題を取扱つた)。

(2)階級と政黨

階級を嚴密に區別するは不可能である。一階級の有らゆる成員か階級意識を有してゐる譯ではなく、階級が其儘一組織を成してゐる揚合は何處にも見出されないのである。斯る事態の下に、一階級が單に政治上の鬪爭を戰ひ抜くのみでなく、更らに國家權力を略取し維持するなどゝ云ふことが、何うして行はれ得るであらうか?それは實は實際のところ、一見して不可能たるかの如く見える。事實に於ても亦全く不可能な事なのである。

階級が政治上に有效な作用をなし得るには、一の介仲者が必要である。而して斯る仲介者たるものは即ち政黨である。封建國家の下に於てはしばしば又古代希臘羅馬的國家に於ても――門閥と門閥との間の鬪爭が行はれたものであるが、近世國家に於ては其代りに政黨と政黨との間の鬪爭が行はれるやうになつた。國家權力を得んとして鬪爭するものは、階級ではなくて政黨である。政治上門閥に代り得る資格あるものは、ひとり政黨のみである。なぜならば、鞏固なる組織を成すものはひとり政黨のみであつて階級ではないからである。

政黨の對立は、其背後に存する階級の對立なくして之れを理解することは出來ぬ。政黨なるものは終極に於て階級利害に指導されるからである。然し夫れはたゞ終極に於てのみである。而も此事實は、他の部面に於ける如く又政治部面に於ても、しばしば幾多の唯物史觀信奉者たちに依つて忘れられる。彼等は一切の心理現象を直接經濟に依つて説明しようとする。それは大抵の場合、極めて生硬な、往々また全く不合理な見解に到らしめるのである。一定の政黨は一定の階級利害に奉仕し、此階級利害の中から自己の活力を吸收し來たるのであつて、後者に依らずして前者を説明することは不可能である。然し如何なる政黨も階級と合致するものではない。政黨とは、自己の追求する目的及び此目的の爲に應用せんとする手段に就き、徹頭徹尾ではない迄も兎にかく本質に於て相互に一致し、且つ共同の活動をなさんが爲め相互協力する――今日の國家に在つては、政治上の成果はたゞ集團に依つてのみ達成し得らるゝものであつて、個々人に依つては達成し得られないから――所の、主義主張を等しくする人々の自由な結合に外ならぬのである。

扨て、所得源泉を等しくし、隨つて等一なる利害開係を有し、生活上の慣習や風俗や見解などに於て相互一致する所の人々、換言すれば同一の階級を形成する人々こそ、最へ早く共同の一政黨を組織するに至ることは明瞭な事實である。此意味に於て、階級は政黨の根抵たるのである。然し階級は決して政黨と同意義のものではない。

門閥意識なるものは、人が生れながらにして若しくは一定の職業に携はることに依つて、所屬するところの門閥の一員であると云ふ事實と同時に與へらるゝものであることは、我々の既に見た通りである。然るに階級意識の方は階級所屬の事實と同時に與へらるゝものではなく、開發事業に依つて覺醒され、宣傳に依つて普及さるゝことを要するものである。宣傳なくんば、如何なる政黨も存立するを得ない。すべての政黨は不斷の擴大を遂ぐべきものである。如何なる政黨も自己が其利害を代表する階級の全成員を包括すると誇稱する譯にはゆかないのである。

此意味に於て、政黨は其代表する階級よりも常に小である。而して二個以上の政黨が同一なる階級利害の代表者として現はれ來たる場合には、政黨と階級との間の範圍の差異は更らに大なるものとなり得るのである。要するに政黨の結合さるゝは、單に其組成員たる人々が自己の奉仕する利害に就て一致すると云ふ事實にのみ依るものではなく、また如何にすれば此利害に最も善く奉仕するを得るかと云ふ方法に就ての一致、換言すれば、目的上の一致と同時に其手段に就ての一致にも依るのである。

斯くして同一階級内に種々異れる政黨が成立し得ることゝなる。此事實に就ては、最早これ以上の説明を要しない。如何なる黨人も此方面に於て、自黨又は友黨の組織中より自己が望む以上に多大の經驗を提供し得るのである。

同一階級が二個以上の政黨に分立し得る如く、それと反對に又、同一の政黨は種々異れる階級の成員を包含し得る。之れは單に、個々人が自己出身の階級に不忠となり反對するに至るといふ意味に於てのみ言ふのではない。此の種の行動は特に斯る脱退者が元來教育の進んだ階級の出身であつて、それが無知なる状態を脱し得ざる他階級に轉じゆくといふ場合に、極めて重要の問題たり得るのである。一個人と雖も、光明の負擔者、知識の負擔者として異常なる大影響を及ぼし得るものであつて、手近かの例を擧げるならば、工場主たるエンゲルスやロバート・オーエンの如き即ち夫れである。但し此點に於て、マルクスは問題外に置く。蓋し彼れは資本家ではなく、眞の階級を形成することなき生粹なインテレクチユアルの一人であつたからである。

然るにまた、一階級中の單なる個々人ではなく其顯著なる部分が、自階級の利害に逆ふことなく寧ろ熱心に之れを擁護しつゝ他階級と結合して一政黨を成すと云ふ場合も生じ得る。一階級の成員のみに依つて支持さるゝ一政黨が、國家を支配し、或は少なくとも強大なる影響を國家の上に及ぼし得ると云ふ場合は滅多にない。如何なる政黨にしろ、其核心たる階級と若干の共同的利害關係を有する他階級の少なからざる分子を我手に吸收し得たる時、大勢力を獲得することが出來る。自己の階級的利益を追求するに當り、他階級との關係が如何なる形態を採るかと云ふことは有らゆる階級の政黨部面に於ける最も八釜しき問題の一であり、且つ階級を種々なる政黨に分割せしむる最頻發的原因の一たるものである。例へば十七八世紀に於ける英吉利に就て見るに、大地主階級中の一部の人々は自己の利益を擁護すべき最良の方法は王の專制權力を強大ならしむるに在りと信じた。彼等は王から豐かなる贈與を受くべく希望してゐたのである。之等の人々はトリー黨を組織するに至つた。同じ大地主階級中の他の分子たちは大銀行業者及び大商人と提携することを、政治上にも經濟上にもより得策と信じた。之等の銀行業者及び商人は、無能にして且つ淫蕩に沈衰せる君主の手から國家の支配權を?ぎ取り、強硬なる致富政策、殊に植民政策の爲に之れを利用しようとしたのである。斯くしてホイツグ黨は組織されるに至つた。同樣に十九世紀六七十年代の墺地利に於ても、貴族は『自由主義』『憲政主義』の一派と反動主義、聯邦主義の一派とに分裂した。此墺地利の場合に於ては國民的要素の加はれるため分裂は一層複雜となつたのである。

同樣の分裂は、人の知る如く、又他の階級の上にも見出されるのである。

階級の政黨的分裂は尚二個の要素に依つて促進される。即ち第一に、個々の階級は學説の上に先づ現はれ來たるを要する如き同質的の組織體ではないと云ふことである。蓋し學説なるものは、各種の事象の特徴を示す場合、個々の事實の普遍性、共通性に重きを置き、特殊性を輕視する傾きがある。然るに現實に於ては、個々の階級の内部に、實際的政治家の看過すべからざる極めて明確な階級對立が屡々目撃される。此事實は既に(一八八九年)『佛蘭西革命時代に於ける階級對立』を取扱へる拙文中に指摘せる所であつて、爾來予は幾度びか階級鬪爭説を餘りに單純素朴に解することの危險を警戒したのであつた。學説なるものは、現實の混迷的多樣中に在りて進路を誤まらざらしむる導線である。それは現實の餘蘊なき寫象ではないのである。

例へば資本家階級に就て見るに、此階級は決して渾一的のものではない。貨幣資本家は商業資本家に比し全く異れる政治上の利害及傾向を有してゐる。而して産業資本は又、特殊の利害と傾向とを以て此雙方に對立するのである。南北戰爭の當時、紐育の貨幣資本家及商人は、自由貿易主義を信奉せる南方奴隷所有者の政黨たる民主黨に加擔し、産業資本家の方は保護税主義の傾向を有する農民的反奴隷的なる北方諸州の政黨である共和黨に加擔したのであつた。

産業資本家それ自體の内部に於ても、諸種の差別と對立とが可能である。例へば纖維工業は平和主義、穩便主義に傾き、反對に製鐵工事は好戰主義、強行解決主義に傾くと云ふ事實がある。

階級の政黨的分裂を助長する第二の要素は、國家なるものは必ずしも階級支配の統治機關たり器官たるのみのものではないと云ふ事實これである。國家は血族的氏族的團體や村落共産體や都市自治體などの後を承けて、而も其獨立を廢除したものであるが、之等の先行團體は、支配上の目的ではなく文化及保安上の目的に役立つ幾多の職分を國家の手に傳へたのである。之等の目的は國家の手に依つて更らに屡々擴大され、新たなるものを包含するに至つた。國家の職分は、單に國民の生命財産の安全を保證し、家族の如きも團體間の爭議に關する強行的解決を禁じ、敵の襲撃に對して國土を保護し其獨立を維持すると云ふことにのみ限らるゝものではない。國家は又生産力の發達を絶えず促進せねばならぬのである。例へば交通機關たる鐵道や郵便や電信などに關する事務、或は又衞生、學校、科學的研究等に依る人間生産力の維持増進と云ふことが、今日國家の上に如何ばかり重大なる任務を課してゐるかを見よ!

之等の任務は總て全人民に關するものであつて、個々の階級にのみ關する問題ではない。勿論それは、各階級特殊の立場より見れば特殊の姿容を採るのである。然し階級意識ですら事態其者の中から直接發現し來たるものではなく、それを得るには一定の思想的努力を要するのであるが、此事實は階級的の立場より國家の文化的任務を考察せんとする場合には更らに著しく當嵌るのである。特殊の一見解と階級的利害との聯絡が其聯絡を曖昧ならしむる幾多の中間段階に依つて媒介されると云ふことは、屡々見受けらるゝ事實である。而して斯る問題を評價するに當つては、階級的利害の外に尚多數の異つた因子――階級的利害を屡々背後に押し遣る所の――を考慮に入れなければならぬ。

政局の如何に依つて、此種の問題が國家政治の前面に押し出されることがある。斯る場合には一階級内に甚しき分裂を釀し得るのである。歐洲戰爭の勃發當時、國防の問題が如何にプロレタリアの隊伍を攪亂したかは我々の記憶に尚新たなる所である。加特立派の勞働者と自由思想派の勞働者とは、デモクラシー及び社會政策の點に於ては全然一致するに拘らず、一度び教會政策が論議されると云ふ如き場合に立ち至ると激烈な抗爭を始める。

之等すべての因子の作用に依り、政黨と階級とは決して嚴密に合致するものではなくなる。即ち、如何なる政黨も一階級の有らゆる成員を包括することはないと同時に、また總ての階級は自階級以外の階級の成員をも包含すると云ふことになるのである。

(3)ブルジオア的政黨

以上は如何なる政黨に就ても當嵌ることである。然し此點に於て、ブルジオア的政黨とプロレタリア的政黨との間には本質的の一差異が存してゐる。元來、ブルヂオア的政黨なるものは、資本的利害なり地主的利害なりの何れかを代表するものである。ブルジオア的世界に屬する諸階級の中公然たる階級的利害と夫れを徹底的に代表する能力とを有するものは、ひとり資本家と大地主とのみである。小ブルヂオアと小農民とは、有産者と勞働者との混血兒である。それは半ばは有産者半ばは勞働者であり、而して其の階級的利害は絶えず兩者の間を動搖してゐる。インテレクチユアルは種々異れる部類より成るものであつて、特殊の一階級意識を展開することは出來ぬ。かくてブルヂオア的諸階級中、明確にして徹底的なる階級利害を有するものは、ひとり資本家と大地主とのみである。

彼等は特殊の階級的政黨を組織するの能力を有してゐる。然し資本制度の發達すると同時に、又デモクラシーなるものが發達し來たり、參政の可能は有らゆる人民階級に押し擴められてゆくのである。かくて人民の多數を制すると云ふことは、益々政治上の決定的因子となる。然るに資本家と大地主とは、如何なる國に於ても少數者――而も極少數者――である。彼等は少數者たらざるを得ないのである。蓋し勞働者の造り出す餘剩價値をして、搾取者のために有福、甚しきは豪奢なる生活を確保するに充分ならしめんとせば、勞働者の數がヨリ大なるを要するからである。されば勞働者の數は常に著しく搾取者の數を超過すべきであつて、搾取者が自己の收人を増加しようとする努力は、被搾取者の超過數を大ならしめんとする努力を意味することゝなるのである。

依是觀之、資本家も大地主も近世的國家内に於て獨裁權を獲得すべき能力を有して居らぬことは明かである。彼等は其支配權をば他の分子と共に分有せねばならぬ。超社會的なる國家權力たる君主權、官僚軍閥等の存する場合、搾取者は兎もすれば之等の權力に依頼するものである。而して此點の利用にかけては大地主は資本家以上に機敏なるものであるが、然し大地主も亦時に專制的國家權力の壓迫を感ずることあるものであつて、斯る權力に對抗して自分自身の權力を展開し得ることを有利と信ずるやうになる。之れは資本家にとつては、更らに重大な問題となるのである。而も資本家にして斯る自己權力を展開せんとすれば、人民中の他の分子にして經濟上若しくは精神上或程度まで自己に隷屬するか又は指導階級との間に一定の共同的利害を有する人々と共に、政治上の目的の爲に提携するの外はないのである。共同的活動の爲に種々なる分子が資本家と結合すると云ふことは、資本家から見れば恐らく一の危急事たるであらう。而も之れは相互の妥協なくしては不可能な事である。かくして妥協はブルヂオア的政治の本質たるに至る。而して此傾向は農業方面に於けるブルヂオア的政治よりも寧ろ資本家的政治の上に、ヨリ著しく看取されるのである。

斯くて今や、經濟的方面ではなく、政治的方面から解した資本獨裁といふ言葉の眞義が明かとなるのである。

マルクルがプロレタリアの獨裁と言つたのは、恐らく妥協なき階級の獨裁といふ意味に外ならぬであらう。斯く解してのみ此言葉は意義をなすのである。然し獨裁なる語を此意味に解するとすれば、資本の獨裁といふ言葉は意義をなさなくなる。なぜならば、資本階級なるものは自力のみを以て妥協なしに國家を支配し得る場合に立つたことは無いからである。妥協は資本階級の政治的生命要素である。資本主義の古典國たる英吉利は又(資本制經濟の開始以降)妥協政治の古典國となつた。而して我々は何處を眺めてもブルヂオア的政黨なるものは――資本に奉仕するものであるにしろ、土地所有に奉仕すものであるにしろ――常に必ず種々異れる階級要素の雜合體として存するものであることを知るのである。

(4)プロレタリア的政黨

勞働者の政黨は、ブルヂオア的政黨とは全く趣きを異にしてゐる。

生産機關の私有に對抗する無産者の階級としてのプロレタリアは、此私有を立脚點とする他の諸階級とは嚴密に區別される。一の有産階級と他の有産階級との間には幾多の廣き橋が架されてゐて、其聯絡を容易ならしめる。反對にプロレタリアと他の諸階級との間に架されてゐる橋は其數極めて少なく、且つ通行困難のものである。さればプロレタリアが其政治戰に於て他の階級要素を自己の味方に引き入れると云ふことは、頗る困難であり極微なる範圍内に於てのみ行はれ得るに過ぎぬ。小ブルヂオアも小農民も、決して大纏めに勞働者の政黨内に存するものではない。從來、社會黨として農民方面に熱心なる運動を試みたるものもあつたが、何等の顯著なる成績を擧げることが出來なかつた。

尤もヂオルヂアに於ては頗る趣きを異にしてゐる。然し、同地の事情は西歐諸國に反覆さるゝものではないのである。同地の農民は尚革命心を保持して居た。而して同地には何等の重要なる資本階級も存して居らず、大規模なる土地所有は全廢されてゐた。斯る事情の下に幾多の農民分子は社會民主黨に加盟することゝなつたのである。此實驗が其後如何なる發展を遂げたであらうかを攻究するは、興味あることである。而もそれは不幸にして、無殘の中絶を見ることゝなつたのである。此實驗は確かに前途望み多きものであつた。それは今日尚、世界史的意義ある事實たるを失はないのである。蓋しヂオルヂアに於けると同樣の階級組成を有する露西亞の革命的プロレタリアにとり、斯くの如きヂオルヂア的方法を採用するは、ボリシエヰズムに依つて誘ひ込まれた死巷より無事に脱出すべき唯一の通路たるべきが故である。然しなから強大なるブルジオア的要素と反動的なる農民とを有するより發達した地國に於て、此ヂオルヂアの手本を應用し得べしとは信ぜられないのである。

階級的混淆を有するブルヂオア的政黨とは反對に、勞働者黨なるものは外來的要素を有すること極めて少なき公然たる階級的政黨たるのである。それは單に非プロレタリア的分子は勞働者黨内に於て親しみを感ずること困難であると云ふ事實を意味するのみではなく、更に又プロレタリアと他階級との對抗極めて顯著なるため勞働者黨自身が實は容易に、他の政黨と一時的に提携し又は永久に合同する迄に決意するを得ないと云ふ事實をも意味するのである。此事實あるが故にプロレタリアは反動的民衆であると云ふのは、確かに當を失してゐる。ブルヂオア的諸階級及び諸黨派間に行はるゝ鬪爭が、社會發達上の重要なる槓杆たることは論を待たぬ。斯くの如き鬪爭に對して、プロレタリアは我不關焉的な傍觀者の態度を採るべきでなく、寧ろ思ひ切つて、其勝利が社會の發達とプロレタリアの向上とを最も著しく助長すると信ぜらるゝ階級又は政黨側に加擔すべきである。然し勞働者黨は之れが爲、ブルヂオア黨との固定的な聯合關係に入ることを常に危惧してゐる。

而して四圍の事情に依り已むなく斯る開係に陷つた場合には、後に至り其關係より脱却し得たとき、勞働者は必ず之れを快とするのである。

ブルヂオア的政黨の生命要素が妥協であるとすれば、勞働者黨の生命要素は即ち公然たる階級鬪爭である。勿論、如何なる政黨も――隨つてブルジオア的政黨も――階級鬪爭の道具たるは事實である。然し此鬪爭が不易的に且つ明瞭に現はれ來たるのは、ひとりプロレタリアに於てのみである。我々は階級鬪爭に就て語る場合、常に先づプロレタリアの鬪爭を念頭に置くのである。

政黨の組織と戰術とに就て、プロレタリアをばブルジオア的政黨を指導する階級から區別する所の今一つの事情がある。それは即ち、ブルヂオア的階級は近世的國家の下に獨裁を達成すべき能力を有して居らぬに反し、プロレタリアの方は何處に於ても獨裁可能の域に達しつゝあると云ふ事實である。

搾取階級は問題の性質上當然勞働者階級に對して常に少數者たるべき運命に置かれてゐる。搾取階級は更に其搾取すべき人口の數を増殖することに依つて自己の收入を大ならしめんと努むる結果、相對的に絶えす益々縮小することとなるのである。

併し勞働階級の内部に於て不斷に且つ急速力を以て増大するものは、實にプロレターリアのみである。小農民の數は絶對的に減少する。之れは我々の先に假定せる知く、大規模經營に依つて小農民が驅逐さるゝ結果ではなく生産技術の發達するにつれて地方民の人口が減少するに至る結果である。都市の小ブルヂオアは、少なくとも相對的に、換言すれば都市人口の増大に比較して減少するものである。歐洲戰爭は、都市人口のかゝる増大を一時的に阻止したが、それと同時にまた小ブルジオアをば著しくプロレタリア化した。小ブルヂオアは絶對的に減少するを免れなかつたのである。反對にプロレタリアの方は、如何なる國如何なる事情の下に於ても増大しつゝある。是れは單にマルクス流の思想系統を研究せる人々の知る如く、資本集積の増進によつてのみ行はるゝもではなく、また夫れ以外の過程によつても行はれるのである。プロレタリアと有産階級との間に幾多の中間層があつて、プロレタリア階級の嚴密なる區分を不可能ならしむることは我々の知る處である。プロレタリアが濟度の望なき窮乏と、深き野蠻状態との間に沈淪しつゝあるかぎり、之等の中間層はプロレタリアの味方たることを好まず、資本家階級に倚頼するのである。かくて彼等は資本家階級と合體して、何等の統一的階級をも代表することなき『ブルヂオア』を形成するに至るのである。然るに社會の發達はプロレタリアをば益々無力と野蠻状態との境涯から引き上げ、同時に中間層をば益々下方へ押し落す。斯くして兩部分は互に接近することゝなり、資本と中間層との間には超ゆべからざる間隙が開かれる。これ等の中間層は續々プロレタリア的精神に感染され、單に數の上に於てのみならず、知識力に就いても、プロレタリアの隊列を鞏固にするのである。

プロレタリアは如何なる國に於ても、遲かれ早かれ社會の多數者たると同時に又、勞働階級中の最知識的にして最良の組織を有し、且つ政治上及び經濟上の活動中心に於ける最有力の階級となるのである。それと同時にまた、資本主義の發達するにつれてデモクラシーが益々發展し來たり、勞働階級は集團組織と宣傳とによつて人民の多數をば國家に於ける政冶的決定力たらしむるの可能を益々獲得するに至るのである。

プロレタリアは他の如何なる階級よりも著しくその階級的位地の上から非妥協政策を採るの傾きを有してゐる如く、又現存社會に於ける諸階級中獨裁獲得の希望を有し得る唯一の階級たるのである。遲かれ早かれ、プロレタリアは如何なる○に於ても其獨裁權を確保するに至るのである。

獨裁とは妥協によらざる單獨支配のことであるとすれば、獨裁は即ち社會的條件に基くプロレタリアの支配形態たるのである。此點に於て、プロレタリアは資本家階級とは反對の位地に置かれてゐる。資本家階級なるものは、他の階級分子と妥協することによつてのみ支配することが出來るのである。茲に妥協と云ふは言ふ迄もなく他階級の好意に對する顧慮を指すに過ぎぬものであつて、經濟上の必然に對する顧慮を指すものでない。如何に顧慮する處なき階級政治と雖も、經濟的發達の法則を顧みない譯には行かない。また必然に通過すベき發達段階を無事に跳躍することは出來ぬのである。

如上の意義に於ける獨裁は、決してデモクラシーを除外するものではない。否むしろデモクラチツクな共和制こそ、この種の獨裁が計畫的に發逹維持せられ得る唯一の外廓たるのである。

(5)獨裁と政黨合一

階級は直接支配し得るものでないことは以上説く通りである。それはたゞ政黨の媒介によつてのみ支配し得るのである。階級獨裁は政黨獨裁としてのみ可能たるのである。然るに、政黨獨裁なるものは、その階級の全部或は少くとも大多數成員が單一の政黨に組織さるゝ場合を除いては、階級獨裁を代表し得るものでない。一階級が二個以上の政黨に分裂してゐる場合には、尠なくとも是等の政黨が協力一致して支配權の獲得と行使との爲めに活動することを要するであらう。

政黨の統一と云ふことは、單に勝利と支配權獲得とに對する最大の見込を與ふるのみではなく、尚また獨裁をばプロレタリアの現實的獨裁たらしめ、事實に於てプロレタリアを解放する處の唯一の可能を與ふるものである。

二個以上のプロレタリア黨を有する一國に於て、その一が他に對抗して政權を獲得すると云ふ場合は、常に例外たるに止るであらう。露西亞に於てボリシエヰーキを此状態に誘致したる事情は他の如何なる國に於てもかく容易に反覆されるものではない。かゝる場合には、獨裁は最初より人民の多數――プロレタリアの一部を含む――に對する少數者の獨裁と云ふ形をとる。然るに、少數者が永續的に權力を維持し得るは、其組織や知識や防禦力などが多數者のそれに優つてゐる場合に限るのである。少數者の數が少なれば少なる程、彼等は益々多數者の組織と獨立的知識と防禦力とを全く不可能ならしめ、反對派のプロレタリアをもかゝる資格から全然除外することに努めなければならぬ。

獨裁が合一的社會黨の獨裁ではなく、二箇以上の社會黨の一が他に對して有する獨裁である場合、それが斯くの如き形能を採るに至るは免れ難き所である。かゝる形態の獨裁は言ふ迄もなく總ゆるデモクラシーを除外する。それは益々非デモクラチツクとなり、專制的とならざるを得ないのである。なぜなれば斯くの如き獨裁の行はるゝ結果、自由なる自治自決を要求しつゝある勞働者間に不斷増大的な抗議を招致するに至るは自然の數であるからである。此獨裁がデモクラシーを遠ざかれば遠ざかる程、プロレタリア的階級鬪爭の究竟標的たるプロレタリアの解放と云ふことも亦益々遠方に押しやられる。この標的に達するは、プロレタリアの團體組織、言論出版等が完全に自由となり、警察、裁判、武力等による一切の干渉が廢除された場合にのみ可能たるのである。

一九一七年十一月ボリシエヰーキがメニシエヰーキ及び社會革命黨に對抗して自黨の獨裁を確立したとき、彼等は此獨裁をプロレタリアの獨裁と名づけたが、然しそれは最初より虚僞であつた。勿論彼等は最初此獨裁を主として資本家及び大地主に對して行使しようと考へて居たことは疑を容れない。然しながら事實のロツヂツクは彼等をして結局、此獨裁の鋒鋩をプロレタリアに差し向け、プロレタリアに對して夫れを益々苛酷に顧慮する所なく行使するの止むなきに立ち至らしめた。同時に、資本に對しては妥協をすることが益々不可避的となつて來た。これはボリシエヰーキの指導者たちの欲する處でなかつたことは確かである。けれども事實は個々人よりも強いのである。

合一的の社會黨は、有效にして且つ現實に解放力あるプロレタリア獨裁の第一條件である。かゝる獨裁に最も強く反對するものは、即ち社會黨が分裂してゐる處に於ては其合同を防げ、社會黨が尚合同してゐる處に於ては其分裂を助長する處の人々である。

プロレタリアの解放は今や、第三インターナシヨナルの分裂運動によつて著るしく阻止されて居る。けれども夫れがため絶望すべき理由は毫も存しないのである。政治上に於けるプロレタリアの分裂傾向は、ブルヂオア階級に於けるほど甚しくはない。プロレタリアの生活條件は、ブルヂオアの夫れに比すれば遙かに單純であつて分化の程度が遙かに低い。然して數により固く結合し組織された大衆による活動は、プロレタリアにとつてはブルヂオアに於けるとは全く異つた程度に於て最重要な戰鬪要具たるのである。勞働者達は夙に此事實に氣付いてゐる。集團組織に結合するの可能と見込とを有する場合如上の活動に對する彼等の要求は押へ難き程強くなるのである。組織上の分裂はプロレタリア運動の小兒病である。かゝる分裂は、何等の獨立的プロレタリア集團も存せざる處、換言すれはプロレタリアがインテレクチユアルの指導に盲從し、或はアテドもなく暗中を模索しつゝある處に於て、最も頻繁に見出されるのである。此分裂熱が歐洲戰爭以來かくも著るしく増大したのは、主として次の事情に基くのである。それは即ち、軍隊の崩潰により國際的社會主義に於ける支配的位地を獲得するに至つたものは、經濟上及び政治上進歩の最も遲くれた歐州の大國家露西亞の社會主義者たちであつたと云ふ事實である。彼等は他の社會主義團體に對抗して獨裁權を略取することに依り過大の勢力を獲得したのである。露西亞に於ける社會主義的分裂は同國の少壯的性質に應當せるものであつた。然るに勝ち誇れるボルシエヰーキは露西亞に於ける獨裁力のみをもつて滿足せず更に國家權力上の總ゆる補助具をもつて、自己の反對社會主義者に對する鬪爭をば自國内から全インターナシヨナル内に持ち込み、此目的を以て外國に於ける一切の大社會黨を粉碎しようと試みた。彼等は此目的のために、顧慮する所なく多額の資金を消費した。此運動に於て、彼等は其計畫の大規模なること、及び資本主義に對する其鬪爭の大膽にして有力なることゝにより國際的プロレタリアの間に集めたる信望の支持を受けたのである。之れにも劣らず彼等の運動の援助となつたものは即ち歐州戰爭が至る處に於て訓練ある舊來の社會主義者たちの隊列を疎薄にし、而して戰爭についで起つた革命が社會主義運動の内部にボルシエヰズムと分裂とに迎合し易き訓練なき多數の分子を投げ込んだと云ふ事實である。

然しながら、進歩の最も遲れた歐洲の大國露西亞により、又プロレタリア中の最も訓練なき分子によつて、かくも多くの國々の社會主義運動が支配されると云ふ事實は、最早終熄に近づきつゝあるのである。ボルシエヰズムの成績は其約束せるところとは益々反對の結果に陷りつゝある。而して訓練なき分子の勢力は、今や急速力をもつて減少しつゝあるのである。共産主義に依つて、是等の分子は敗北に次ぐに敗北をもつてするの運命に陷らしめられた。彼等のあるものは幻滅し、一切の政治戰より退却し、他のより價値ある人々は、今や熟慮と研究とに着手し始めたのである。

かくて茲に再び、分裂バチルスを死滅せしめ、社會民主々義の統一に對する欲求を優勢ならしむる一雰圍氣が形成されつゝあるのである。

決定的位地にある總ての國々、隨つて又インターナシヨナル内に、社會民主々義の統一が實現され、プロレタリア階級とプロレタリア政黨とが合致する――問題の性質上可能なる範圍内に於て――に至つたとき、茲に解放的なるプロレタリア獨裁に到るべき道が(最初は尠くとも歐洲に於ける經濟上指導の位置にある諸國内に)開かれることになるのである。

奴隷的獨裁ではなく解放的獨裁を要求する人々にとつて、社會黨の分裂せる場合、其の統合事業に協力すること以上に高尚な義務はないのである。


底本:『解放』第四卷第三號(大正十一年三月)
『春秋』第一巻第六号(昭和二年九月)にも類似の論文がある。

改訂履歴:

公開:2006/07/09
最終更新日:2010/09/12

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