階級の概念と其の近世的體現―米田博士の批評を兼ねて―

高畠素之

階級なる語は近來甚だ廣く用ゐられて來たに拘らず、其の正確なる概念は今だ決定されて居らぬやうである。通常、知識階級、勞働階級等の如き階級と名づけられた社會團體に對しては、精細なる説明が試みられて居るが、何が故にその社會團體が階級と名づけられるか、即ちその社會團體を階級と名づけねばならぬ特質は何處にあるかは全く顧みられて居らぬ。思ふに階級とは社會團體中の或特質を帶びたものであらうが、現在多く用ゐらるゝ階級の語は、單なる社會團體なる語と置き換へても意味の上に何等の變化を生ぜぬやうな、茫漠たる曖昧觀念の下に用ゐられて居る。之は畢竟階級てふ概念が決定せられて居らぬ爲めである。

手近き一例として、米田庄太郎博士の最近の論文『現代社會の階級分析』(『改造』新年號及二月號連載)の如きも、博士は現代の社會を大體、有産者階級、中等階級、プロレタリア階級の三個に分析され、此の三個の所謂階級に各概念を與へて、有産者階級を『財産を以つて生活の基礎となし、而して財産所得を以つて獨立に安樂なる生活を營む事が出來、且つ財産の力を以つて彼等が社會的及政治的勢力を振ふ根柢となさんとする人々の總體である』とせられ、中等階級とは『國民學校に於て與へられたる普通教育以上の教育を受け、其の職業に於て純粹なる身體的或は機械的勞働を爲さず、大なり小なり精神的なる勞働をなして身體的勞働を指揮し或は管理する人々である』となし而して、『中等の所得を収め且つ又屡々中等の資産をも有する人々である』との一般的提説を大體肯定すると言はれ、又プロレタリア階級とは『先づ總て財産を所有しない人々、或は所有して居つても、其の所得だけで獨立せる生活を營む事の出來ない人々』と解し、其の代表的部分たる現代勞働階級を『法律上其の人格を認められて法律上の自由を有し、更に今日では一般政治上の自由を有し、而して財産を有せず、或は少くも財産所得に依りて獨立なる生活を營み得るだけの財産額を有せず、更に自ら獨立に企業を營むだけの資本をも有せず、他人と一定の契約を結びて勞働を提供し、それに對して拂はるゝ一定の報酬即ち特に賃銀と稱せらるゝ報酬を受け、全く又は主として其の賃銀に依りて獨立なる生活を營む人々を總括するものである』として居られる。

そこで、博士の試みられた階級分析の原理は一體何であらうかと云ふことが問題となる。三階級中の一を中間階級と言はず特に中等階級てふ優劣の差別を聯想せしむる語を用ゐられた點より見れば、恰かも牛肉の上等、下等と云ふが如き、何等かの優劣に根據せる分類かと思はるゝが、下級官吏、薄給事務員の貧困、無學、無氣魄を一瞥すれば、博士の謂はるゝ中等階級が勞働階級に對し必ずしも下等肉に對する中等肉の如き優越を有するとは斷定出來ぬ。又上等階級即ち有産者階級と中等階級とを比較して見るに有産者の唯一の強味たる所得の一點に就て云ふも、有産階級の總てが、中等階級の總てよりも優越であるとは斷定出來ぬ。要するに博士の謂はるゝ三個の階級は、之れを經濟上の實力より見れば相互交錯して居ると言はなければならぬ。即ち下等階級のキリは中等階級のピンよりも遙かに上に抜け、又上等階級のピンは中等階級のキリよりもずつと落ちて下等階級のキリとスレズレになる位である。斯くて、博士の階級分析は經濟上の實力の優劣を標準としては成り立てぬ事となる。政治上、文化上、社會上の實力より見ても同樣である。

然るに若し此の分析の基礎的標準を所得獲得の手段上の差別にあると見れば、博士の與へられた三階級の各概念の上に矛盾は起らぬやうである。けれども、單に所得の手段のみの差別に依るものとすれば、階級分析は遂に職業分類と混同する事となり、かくて階級對立は職業の對立を意味し、階級鬪爭は職業鬪爭を意味する事となる。恐らく、階級分析が職業分類の別名であるとは博士御自身も承知せられざる所であらう。されど博士の所説を仔細に吟味し行く時は、遺憾ながら、其の階級分析の基礎標準として所得獲得手段上の差別、即ち職業の差別以外に何物も見出し得られぬのである。

が、米田博士の階級觀には、おぼろげながら或優劣の意味が含まれて居る事は、前述の中等なる用語より見るも略ぼ推定される。米田博士のみでなく、一般に用ゐらるゝ總ての階級なる語は、必ず何等かの優劣を意味して居ると見る事が出來る。例へば知識階級と言へば、裏面に無知識階級を聯想せしめ、貴族階級と言へば平民階級を想起せしむる如く、階級なる語には常に必ず優劣を比較せしむべき對照物の存在が伴うて居る。

然らば階級概念の構成要素は、社會關係の上に築かれたる優劣の差別であらう乎。それに答ふる前に、先づ優劣なる概念に就て一應の考察を試みなければならぬ。

思ふに社會關係に依つて生じた優劣には、主觀的なるものと客觀的なるものとがある。主觀的の優劣は、價値の主觀的比較に依つて決定さるゝ差別である。例へば、かの總ての民族の抱ける自主的なる人種的優劣の觀念の如きである。自民族は他の民族よりも優れたりとなす獨斷は、總ての民族に共通した傾向であると言はれて居る。かゝる自主的價値批判に依る優劣の決定が、即ち主觀的の優劣である。けれども、階級の觀念は純客觀的のものなるが故に、假りに其の本質は優劣にあるとするも、かゝる主觀的な優劣とは沒交渉のものである。階級に就て考察すべきは、客觀的の優劣でなければならぬ。

優劣とは、言ふまでもなく優勢と劣勢との對立である。換言すれば力の不均等なる二個物の相關聯した併存である。故に假りに階級の本質が優劣であるとすれば、それは力の均等ならざる二個或は二個以上の社會團體が對立して存在する事でなければならぬ。然らば、力の不均等即ち、優勢と劣勢は如何にして認識されるであらうか。

思ふに、それは三個の形態に分類する事が出來る。搾取と被搾取、支配と服從、創造と模倣と是れである。即ち、搾取する者とそれに搾取さる者とが對立する場合、支配する者とそれに服從する者とが對立する場合、創造する者とそれを模倣する者とが對立する場合に、優勢と劣勢とが認識されるのである。社會關係に於ける諸種の優劣は、すべて之を以上三個の對立の何れかに約元する事が出來る。そこで歩を進め、此の三個の優劣對立に就て少し精細なる考察を試むる事とする。

抑も搾取と被搾取とは、優劣が經濟關係の上に體現したものであり、支配と服從とは、優劣が政治關係の上に體現したものであり、創造と模倣とは、優劣が心理關係の上に體現したものである。

搾取と被搾取との關係は、二個の種類に分たれる。生産的搾取と交換的搾取とが是れである。蓋し搾取とは、他人の領有すべき經濟的價値を、何等かの手段に依つて自己の領有に移す事を意味する。而してかゝる搾取は、他人が生産をする際、其の勞働に依つて得た生産物を自己の領有に移す事と、他人と貨物を交換する際、其交換は同一交換價値の相互給付に依つて行はるべきものなるに拘はらず、不等なる交換を行つて自己の利得を計り、他人の損失を來たす事との二形態がある。即ち前者は生産的搾取、後者は交換的搾取である。人類の經濟生活の樣式、即ち生産と分配との組織如何に依つて、此兩搾取とも行はれぬ場合がある。又單に一方の搾取形態のみ行はるゝ場合もあり、主として他方の搾取形態のみ行はるゝ場合もある。が經濟生活の全般を通じて考ふれば、此の二個の搾取が存在すると言ふを得る。而して兩搾取ともに行はれ得ざる社會に於ては、優勢と劣勢とが經濟關係の上には存せざる事となる。

次に支配と服從との關係に就て考へるならば、支配とは自己の意志の發動に依つて、他の意志の發動を抑制し、更に自己のと同一の意志内容を他人に抱かしむる事を意味する。此の關係の最も明かなる適例は、國家内に於て政府と、其意志に背反せる意志を抱ける人民との關係である。此の場合、政府は原則上人民の意志を拘制し、支配と服從との關係が明示される。之れ蓋し政府と人民の一部分は、原則上力が不均等なる爲である。

最後に、創造と模倣との關係を考へて見るに、創造の内容を爲すものは、新しき欲望、若しくは欲望の新しき充足手段である。即ち茲に二人ありて自己の欲望を分化せしむるか、或は既存の欲望の新しき充足手段を創造したとすれば、他に其の新欲望を抱く者、若しくば新充足手段を取り容れる者が現はれる。是が模倣である。例へば或時代に於ける人類は、自己の能力を反省せる結果、空中を飛行するが如き欲望は抱いて居らなかつたとする。其の時一人の空想家が、飛行の愉快を想像し提唱し、多數の他人が其刺戟を受けて想像力を働かして之に同じたとすれば、それは即ち欲望自體の創造と普及とを意味する。次に飛行の欲望の充足手段として飛行機が發明され、又多數の人がそれに倣つて飛行機を作るとすれば、それは即ち欲望充足手段の創造と模倣である。此の關係に於て、創始し發明する者と、それを模倣する者との間には明かに力の不均等がある。即ち優劣の別がある。

次に、是等優劣の三種類に就て、各々其の本質を考へて見る。

經濟的優劣即ち搾取被搾取の關係と、政治的優劣即ち支配服從の關係とを、成立せしめ存續せしむる要因は何であらう乎。それは實に物理的の力であつて、此力こそ、右兩種の優劣を決定する不均等の力たるのである。而して物理力の單純なる形態は腕力である。搾取と支配との存在する所以は、其の最も單純なる形態に於ては、物理的な力の不均等に基因するものである。されど、社會の發達が或段階に達すると、社會團體に於ける物理力は赤裸々の形では存せぬ事となり、物質的な社會制度と、精神的な社會意識との二個の外被を以つて被はるゝ事となる。

搾取者及び支配者の現實の物理力が、被搾取者及び服從者のそれに及ばない事は、社會に於ける普通の事實である。それにも拘らず、弱き搾取者と支配者とが、優勝の地歩を占むるを得るは、全く社會制度と社會意識との魔力性に依るのである。我々はこゝに社會制度と社會意識とに就て説明を試むる餘裕は無いが、すべての社會に於て、搾取者と支配者とが常に其の數少なく、隨つて其の物理力弱りに拘らず、物理力の卓越を條件とする優勝を支持し得る不可思議は斯る魔術性を無視しては到底理解し得ざる現象である。

然るに、創造と模倣との關係は等しく優勝と劣勢との對立ではあるが、其の直接の要因たる力は精神的の力である。創造の本質に關する精細なる心理的研究は茲に略する事とするが、要するに創造は、想像、思索、分析、綜合等純頭腦力の作用に依つて行はるゝものである。此の點に於て、搾取と支配とが物理力の作用に基くのとは全く本質を異にする。

尤も右の斷定には一個の修正を要する。即ち物理力とは言つても、それが人間の有する物理力である以上、其の生成發達及び發動の上に常に知識的考慮の費さるゝ事は勿論であると共に、精神的の力も、物理的の力に依る優勝が其の生成、發達及び發動を助勢すべきは明かである。されど斯くの如きは、副次的な影響であつて、直接本質を構成する力に就て云へば、前述の種別存すること明かである。

然らば、以上三種の優劣關係は、其相互の間に如何なる交渉を有するであらうか。是れ次に來る可き問題である。

等しく物理力の上に成立した搾取的優勝と支配的優勝とは、本質上必然に竝行し連帶的とならなければならぬ。かくて互ひに助長し合ひ、各々自己の優勝性の安定と發達とを進めて行く事となる。

而して此の交渉は、右二個の優勢力が同一體の上に體現された時特に明かである。一人或は一社會團體が、搾取者たると共に支配者たる場合が、即ちそれである。かゝる場合は事實に於て普通である。その生成過程は、搾取關係の下に支配關係が派生された結果か、又其の反對なるか、それとも二箇の別個的なりし關係の合體に基くかは別として、此の二種の優劣關係が常に同一對の上に累存するは事實であつて、何れにしても此の雙方が本質上密接なる交渉を有して居るは明かである。

けれども、創造的優勝は其の基礎を成す力が種類を異にする故、本質上全く別個の境地に存在する事となる。時には搾取的優勝或は支配的優勝と創造的優勝とが、密接なる抱合の下に發現する事もある。其の著しき場合は搾取或は、支配の優勝から創造的優勝が派生する事である。が、それと全く反對に、被搾取或は服從の劣勢と抱合して創造の優勝が發生する事もあらう。要するに創造的優勝は搾取的及支配的優勝と一定方向の交渉を有して居らぬのである。之れ蓋し此兩種の優勝の基礎をなしてゐる物理力と精神力が相互沒交渉なる結果である。

我々は曩に優劣の對立を三種に區別したが、今又、其の基因たる力の種別の上から之れを二種に分つ事が出來る。即ち物理的優劣と精神的優劣とである。そこで主題に立ち歸り、優劣の關係をかく三種別し又二種別せるに照らして、階級の本質を優劣の觀念なりとする假定を吟味する事とする。

最初に假定した如く若し階級の本質を社會團體の優劣に置くならば優劣の種別に應じて階級も亦三個の對立種別に分たれなければならぬ。然るに優劣の三種は二個の相一致せざる力の上に立つて居る。そこで階級の概念が之に應じて構成さるゝものとすれば、それは必然三個の種別を含まなければならぬ。即ち搾取と被搾取との階級對立、支配と服從との階級對立、創造と模倣との階級對立是れである。而も斯くの如きは果してあり得る事であらうか。

假りに階級對立に三個の種別ありとした場合、其三個が各々異なる分野に存在する時は矛盾を暴露しなくて濟む。けれども之れが同一社會團體の上に體現し來たる場合を推想するに、搾取と被搾取の階級對立と支配と服從の階級對立は共に同一の物理力を基礎とするが故に、必然連帶し抱合し行くを得るであらうが、之等の階級對立と創造及模倣の階級對立とは衝突する事あるを豫想しなければならぬ。

即ち、物理力に於て劣勢なる被搾取と服從との階級が精神力に於て優勢なる場合には、被搾取服從階級は創造階級となり、搾取支配階級は模倣階級とならなければならぬ。故に若し三種の階級を肯定する場合、優勝と劣勢とは相互矛盾し錯綜し階級の概念を優劣に置かんとする提唱自體が崩れる事となる。そこで此の自家撞着を避けるには、結局階級の概念中から物理的優劣と精神的優劣との何れかを除き去るの他はない。此場合我々は躊躇する所なく精神力に基礎を置く創造と模倣との優劣を除かなければならぬ。蓋し他の二種の優劣は固定せる支持者に依りて繼續的に存在せるに反し、此の優劣は斷續的に存在し、優劣の支持者が不定なる故である。

かくて階級の本質は優劣の差別であるとした假定は、少くとも優劣中の、創造と模倣とに依つて生ずるものを除く事に依つて修正されねばならぬ事となる。而して斯く修正を加へたる社會的優劣、即ち搾取と被搾取との關係、支配と服從との關係を階級の本質と見做し、かゝる關係の構成者が同一社會内に於て相互社會團體を組成せるものを階級と見做す時、階級の概念は結局左の如く決定される。曰く階級とは同一社會内に搾取と被搾取、又は支配と服從との優劣關係を構成して對立せる社會團體を云ふ。

斯くて現代の社會には、搾取者と被搾取者との經濟的階級對立と支配者と被支配者との政治的階級對立との二組の階級對立が存する事となる。今かゝる階級の概念を明かにする爲、現代社會に於ける如上二組の階級對立に一瞥を投じよう。

現代社會に於て主として、經濟的階級を構成する者は資本家と勞働者とである。故に搾取の主要なる種類は、前述の所謂生産的搾取である。されど之に附隨して、交換的搾取も又行はれて居る。交換的搾取の構成者は、商工資本家と、消費者としての一般人民とである。現社會に於ける商品の交換は對等なる交換價値を以つて行はるゝ事を原則とする。けれども市場を自己の領域とせる商工資本家は、需給關係の影響以外に又自己の意志を以つて、或る程度まで商品の價格を支配し得るの實力を有して居る。かくて彼等は屡々價値(又は生産價格)以上の價格を人爲的に作製して消費者に迫つて來る。現市場の支配的精神なる商機商略なるものは實に如何にして價格を價値以上に釣り上げんかとの組織的思索に外ならぬものである。故に、商略が成功する都度不均等なる價値に依る交換が實現し、剩餘價格とも言ふべき不當なる貨幣が商工資本家の手に収められる。斯の如き、原則と一致せざる交換の當事者を、單に商業資本家と言はず、特に商工資本家と呼ぶ所以は、今日の實際生産界に於ては、生産資本家も、斯る流通工程上のボロイ幕を豫想して一切の策戰を樹てゝゐるからである。生産的搾取を勞働者に加ふる事のみを以て滿足するが如き工場主は、今日に於てはもう亡ぶべき運命を抱いて居る者と云はなければならぬ。

實際經濟界の斯樣な事象を認むる限り、現代社會に於ける交換的搾取を無視する事は出來ぬ。隨つて經濟的階級は、かゝる二種の搾取と被搾取とに應じて二個の部分より成立せるを否定する事は出來ぬ。

併し資本主義的生産の行はるゝ社會にあつては、何と云つても生産的搾取が主要な搾取形態であるから、こゝでは此の一部面に就てのみ述べる事とする。

資本家が勞働者に對して經濟的搾取を加へつゝある事の論證は、マルクスの經濟學説に依る現存生産制度の解剖に待たねばならぬが、此の一點は今や總ての人々に依つて肯定せられて居る故、茲では之を既定の事實として取扱ふ事とする。

資本家と言ひ勞働者と言ふ、何れも經濟生活上の社會關係である。之を生産の側より見れば、生産行程の構成分子たる生産機關と勞働力との中、生産機關を所有して提供する者が資本家であつて、生産機關を所有せず、唯一の所有物たる勞働力を提供する者が勞働者である。又之れを個々の消費生活の上より見れば、現代の社會に於ては一切の物貨が商品として市場に置かれて居る。故に經濟的欲望を充足するには先づ貨幣を以つて之等を購買しなければならぬ。隨つて現代人の消費生活は貨幣の獲得に端を開くのであるが、生産機關の所有に伴ふ利潤に依つて此貨幣所得をなす者が資本家であつて、勞働賃銀に依つてなす者が勞働者である。

斯く斷定すれば甚だ明快であつて、殊に巨富を擁する大資本家と純無産の勞働者とを對比すれば甚だ明快に區別されるが、資本家にも無限の程度があり、勞働者も貯蓄等に依つて幾許かの株を所有するやうな場合がある。然らば兩者が、其の資本家たり又勞働者たる本質を脱する境界線は何處に存するか。兩者の本質に對する決定的説明は、此の境界線の説明に依つて初めて與へられるのである。そこで先づ純粹なる形態に於ける、資本家と勞働者との概念を樹立することが必要になつて來る。

我々は先づ、標準的なる文化生活を想定する。與へられたる社會の與へられたる時代に於ける、其社會全體の平均的なる文化享樂の生活が、即ちそれである。而して自己及び家族が此の標準生活を營む爲めに必要なる貨幣額を想定し、假りに之を標準生活と名づける。

さて、資本の所得が此の標準生活費に達するだけの資本及びそれ以上の資本を所有する者が資本家の純粹なる形態であつて、勞働に依つて此の標準生活費及びそれに足らざる所得を得る者が勞働者の純粹なる形態である。即ち標準生活費を資本所得のみに依つて得るものが、純粹なる資本家の最低程度であつて、標準生活費を勞働所得のみに依つて得るものが、純粹なる勞働者の最高程度である。純粹なる形態に於ける資本家と勞働者との極限線はかくして定められるのである。

けれども、資本家に就ては尚ほ一個の重なる修正が加へられなければならぬ。それは利潤率の低下に基く所得の減少に依り標準生活費の獲得に不安を來たすに對して用意を必要とする事の修正である。利潤率は必然的法則の下に低下する。隨つて同一の資本量は永久に同一の所得を生み得るものではない。故に所得額の固定を計らん爲めには、現所得の一部を割いて資本量を増加し、之に依つて利潤率の低下に伴ふべき所得の減少を補はなければならぬ。故に現在の資本量は標準生活費と共に資本の増大を支持する貨幣を生むに足るものでなくてはならぬ。即ち此の資本量を所有する者にして初めて、純粹なる資本家形態の最低限に屬するを得るのである。

上述の如く現社會の經濟的階級對立の骨格を構成する基本的要素たるものは、資本家と勞働者との純粹なる形態であるが、それ以外に尚、現社會には副次的なる要素として不純粹なる形態がある。かくて搾取被搾取兩階級共に純粹なる基本的要素と不純粹なる副次的要素とより成り立つものである。

先づ資本家階級に就て言へば、上述の如き純粹なる資本家が、其の資本量漸時減少し爲に資本所得のみにては標準生活費を獲得する能はざるに至り、此の不足を勞働所得にて補ふ場合がある。斯る場合には彼はもう純粹なる資本家ではないが、所有資本を運用するの點に於て尚搾取能力を維持して居る。故に此の程度の經濟的地歩を占むる者も亦、搾取階級に屬すると見做さなければならぬ。けれども此の程度の資本家は純粹なる資本家に比べて其の本質が稀薄となり副次的となる。我々は此の種の地歩を占むる者を假りに資本家階級の副次成員と呼び、之に對してかの純粹なる者を其の基本成員と呼ぶ。即ち資本家階級は基本成員と副次成員とに依つて組成されるものである。

右と同一の分析は、勞働階級の上にも適用する事が出來る。純粹なる勞働者が幾分の資本(此の場合資本なる用語は正確を缺くも假りに斯く呼ぶとすれば)を所有し得たりとするも、其の量減少にして自己の資本に對し自己の勞働を費すのみにては標準生活費を獲得する能はざる時は、他面に於て、又賃銀勞働者たるの生活を營まなければならぬ。少くとも彼は此の一面に於て、被搾取の關係を構成するものである。之れ即ち勞働階級の副次的形態である。故に資本家階級に於けると等しく此の程度の地歩にある者を勞働階級の副次成員と呼び、それに對して純粹なる形態の勞働者を勞働階級の基本成員と呼ぶべきである。

斯くの如き經濟的地歩を最も明確に示してゐる者は小農制農業である。蓋し農業に於て、純粹の小作人即ち毫も自己所有の土地を有せず、借地のみの耕耘に從事する者は、被搾取階級の基本成員である。次に幾分の土地を所有するも、其の過少なる爲め他に借地の要あるもの、即ち所謂自作小作農は自己の土地を耕耘する點に於て他の搾取を受けないが、借地を耕耘する立場に於ては地主の搾取を被らなければならぬ。故に彼の生活は被搾取を脱し得て居らぬ。かくて自作小作農は被搾取階級の副次成員たるものである。

他面、純粹の地主、即ち現代のみにて標準所得に達し得るものは、明かに搾取階級の基本成員である。所有地の量此の程度に達せず、標準生活費を獲得するには、所有地の一部を自ら耕耘するの要ある程度の所謂自作地主は、自ら耕作するの點に於て、何人にも搾取を加へないが、他の一部の土地を賃貸するの點に於て、搾取を構成する故に彼は生活の一部分を搾取階級の中に置いて居る。隨つて自作地主は搾取階級の副次成員たるものである。

今此の小農制農村に於ける階級の分類と、その所屬成員とを表示すれば左の如くなる。


               ┌基本成員──地主
         ┌搾取 階級┤
         │     └副次成員──自作地主
  小農制農村階級┤
         │     ┌基本成員──小作人
         └被搾取階級┤
               └副次成員──自作小作

他の生産部門に於ては、搾取被搾取兩階級共に其の副次成員は甚だ複雜なる外形を示して居る爲、之れを看取すること容易でない。殊に商工業等は農業の如く自己の所有する資本を直ちに自己の使用する生産機關に體現せしむる事が出來ぬ場合が多い。かゝる場合に、其の經濟的地歩の眞の本質を發見する事は頗る困難である。けれども、すべての生産部門を通じて搾取能力を具備しつゝ被搾取の境地に立てる者、即ち兩階級の副次的成員に含まれて居る。而してかゝる成員が、實際何れの階級の副次的成員なるかは、農業に於けるが如く明快に知る事は容易でないが、要するに搾取能力者の搾取量と、被搾取物としての被搾取量との比較に依つて決定さるゝものである。それには別に精緻なる考察を要する。是と相待つて、當事者の心理状態の傾向が何れの階級と多く類似せるかの問題も重要なる判別要素である。蓋し階級に關する我々の考察の主要目的は、全社會の階級的分裂と、それに繼起すべき階級鬪爭の形態とに就ての觀察にある。而して階級鬪爭の勢の前に、社會成員を支配するものは、主として其の心理状態である。

階級の本質を優劣に置き、優劣の要素を經濟的には搾取と被搾取とにありとなす我々の見解に從つて、現代社會を分析する時は必然に階級外の社會分子が認めらるゝ事となる。

今一度農業に例を取るならば、かの自己の土地を自ら耕す自作農こそ、正に階級外に立つものではなからうか。彼等は他に貸すべき土地の剩餘もなく、又他から土地を借るの要もない。故に地主あるの本質も小作人たるの本質も含んで居らぬ。隨つて搾取被搾取の何れにも觸れて居らぬのである。かゝる經濟的地歩に立つ者は、何れの階級とも沒交渉なるは言ふ迄もない。

之れと同じ性質の社會成員は農業以外の職業部門にも含まれて居る。商業に於ける小賣商人、工業に於ける手工的作業場の所有主等の大部分は此の種類に屬するものである。是等の多くは商店若しくは作業場を所有し、商品若しくは原料を購入する貨幣及び是等の運用に依つて所得を得るまでの生活を支持する貨幣を所有して居る。隨つて賃銀勞働に從事するの要はないが、さりとて自己の生産機關は從つて他の勞働者を吸収するだけの規模を有して居らぬ。かくて、搾取被搾取何れの階級とも沒交渉の境地に立つて居る。かの醫師辯護士等の如き、通常知識的獨立職業者と呼ばるゝ所の者も亦、此の種類に屬する社會成員である。

かの中等階級なる語は、畢竟、不明確なる階級外に立てる社會に對して與へた杜撰なる觀念の名稱に過ぎぬ。經濟的優劣は搾取と被搾取との社會關係に依つてのみ成立する。而して階級はかゝる社會關係に依つてのみ構成される。隨つて搾取若しくは被搾取の對象を有せざる社會成員は、何れの階級にも屬し得ざるは明かである。

米田博士は其の所謂中等階級を、先づ知識階級と企業者階級とに分類せられ、次に企業者階級を手工業者階級と小商人階級とに分類せられ、次に知識階級を分類して獨立自由職業者階級と月給取階級とに區別せられた。即ち博士の言はるゝ中等階級は、手工業者、小商人、獨立自由職業者、月給取の四分子より成り立つものである。

此の中の月給取は、其の經濟生活の本質より見て、勞働者と何等異る所はない。素より勞働の種類が主として肉體的なると、主として頭腦的なるものゝ形式上の差別はあらう。又肉體的勞働が主として機械的なる動作の反覆より成るに反し、頭腦的勞働が多くの獨創分子を含むと云ふ心理上の差別もあらう。けれども之等は經濟生活上の差別ではない、即ち經濟的階級との關係に對して何等の差異を與ふるものではない。現に博士も右の論文中に、プロレタリアを説かるゝに際しては、プロレタリアとは、先づ總て財産を所有しない人々、或は之を所有して居ても其の所得だけで獨立せる生活を營むことの出來ない人々を意味するものとなし、而して之を他人又は他團體に雇はれて働き、之に對して與へらるゝ報酬に依りて獨立なる生活を營むものと、然らずして他人又は他團體より恩惠的に與へらる生活資料に依り他に依屬して生活するものとに大別し、更に前者を賃銀者階級と、月給取階級とに分ちて、勞働者と月給取とを同一プロレタリア階級の中に包含せしめて居られるに拘らず、他方にては中等階級なる概念を勞働者より離して立てゝ居らるゝは明かに矛盾である。思ふにかゝる矛盾は、階級の分析を職業の分類と混同せる結果であらう。同樣に米田氏が手工業者、小商人、獨立自由職業等の如き、我々が明かに階級外の社會なりと目する社會成員に對し特に中等階級なる無意味の名稱を附せられた事も、畢竟階級の語を職業の別名たらしむるに基くものであつて、等しく階級概念の不明確に因るものと思はれる。

要するに中等階級なる觀念は階級外の社會に對する概念上の錯誤に基く見解である。

一〇

次に、政治的階級對立に就て簡單に考察して見る。

政治的階級對立、即ち支配と服從との階級對立は現社會に於ては政權の掌握者と、一般國民とに依つて構成されて居る。支配者の地位は、その根據たる政權機關が社會意識に依りて存續せしめられる事に依つて支持さるゝものである。社會意識とは要するに、個々の社會成員が、自己の意志以外の他の全成員の意志を推定する所に成立する。假りに自己の意志と、他の全成員の意志として自ら推定したるものとの間に背反性を認めたる時、彼は全成員の一致せる意志に背いては到底自己の意志の遂行せらるべからざるを察知し自己の意志を放擲して全成員の意志なりと推定せる所に默從しようと考へる。かゝる心的傾向は實に萬人に共通せる所であつて、萬人悉く自己以外の全成員の意志を推定する時は、假りにその推定が誤れるものであつても、結局初め推定せる内容に等しき意志を各成員が抱く事となる。斯くして全成員の意志が成立する事が、即ち社會意識の作用である。

假りに或一個の行政機關存在が、實際は國民全部の意志に反するものとし、而も國民の各個は此の行政機關を好まざる者は單に自己一人であつて、他の全國民は之を喜べるものと考へてゐるとする。そこで彼は全國民の意志に反したる自己一人の意志を發表する事は、種々なる不利益の伴ふべきを慮り、沈默して自己の意志を葬る。之れと同一の過程が全國民の個々の心理上に反覆されて、こゝに社會意識は成立する。斯くして始めは國民の全部が好まざりし、其の行政機構も國民の全部が喜べるものと等しき基礎を得て安存する事となる。

支配階級とは斯る行政機關に據れる者の謂である。此の階級は何等の物理力を有せずとするも、其の背後には全國民の物理力があつて之を支持するものゝ如く、社會意識によつて全成員に認識せられ、全成員は其の前に服從する事となり、こゝに階級對立が生成するのである。

一一

次に、經濟的階級と政治的階級との相互交渉の關係は如何。

此の問題に就て先づ説明の要を感ずるは、政治的階級は經濟的階級の一反映に過ぎず、是等二つは實は同一物の兩面に過ぎずと爲せる見解に對してである。

政治的階級と經濟的階級との構成者が同一の社會團體なる事、即ち搾取階級は同時に支配階級であり、被搾取階級は同時に服從階級である場合は、屡々見られる所である。

けれどもかゝる結果は或條件の下にのみ實現さるゝものであつて、右二對の階級が直ちに本質上同一物であるとの斷定は成り立ち得ない。蓋しかゝる斷定は、兩階級對立の發生過程と各階級成員の心理上の反映とに就て考ふる時、容易に轉覆せらるゝ事となる。元來、支配階級の原始的發生は、社會的分業の形態として端を開いたものである。原始人の一群中に特殊の能力を抱ける者が現はれ、其の能力の發揮が此の群全體の要求に一致した場合、彼は從來の一般的なる生活を更めて、特殊の動作に出づる事となる。是れ即ち社會的分業で、其の原始的なる種類は魔術師、祈祷師、武將等であつた。彼の此の地位は全群をして彼の命に聽從せしむる事となる。こゝに政治的階級の端は開かれたのである。此の支配者が若し自ら經濟的欲望を旺盛にし自己の特權を利用して、搾取の行爲に出たとするか、或は他に搾取階級が出現して此の支配者の地位を奪ふなり此の支配者と抱合するなりするとすれば、搾取と支配とが一體となり、二種の階級對立は同一の構成者に依つて存在する事となるが、それは斯くなるべき條件の下に於ける一變化の結果たるに過ぎぬのである。

更に之を心理的に觀察すれば、政治的階級の獨立なる存在が一層明かとなる。蓋し、人類の欲望は、之を順次單純なる形態に約言して行く時は、性慾、食慾、優勝慾の三欲望のみの時代に到達することゝなる。而して支配の欲望は優勝的欲望の手段として、かゝる原始的形態の欲望より直接派生し來つたものである。

他方、現在に於ける資本家の心理に就て考へても、搾取は經濟的欲望の充足に基くものではなく、搾取に依つて得らるべき蓄積を他に誇示せんとする優勝の欲望に基くものである。搾取が若し單に經濟的欲望に因るものとすれば、有限なるべき經濟欲の爲めに無限の蓄積は必要でない。他を凌駕する事を條件とする優勝の心理に出づればこそ、蓄積の願望は必然無限に進む事となるのである。

若し、支配に對する欲望が、搾取に對する欲望より派生したものであるとすれば、支配は搾取より派生する所であり、隨つて政治的階級は經濟的階級の反映に過ぎずとの見解に一根據を投ずる事となるが、支配と搾取との欲望は、等しく優勝の欲望より對立して派生したるものであつて、二個の欲望は各々獨立せるものなる事を考ふれば、支配も亦搾取より獨立して存在し得べく、隨つて政治的階級と經濟的階級とは本質上相互獨立せるものと見られるのである。

一二

更に、二種の階級對立の關係に就て、最近我國に於ける階級の状態を見るに、明治初年以來日本の權力は明かに支配階級の獨占する所であつた。所謂藩閥と稱したる軍人を基礎とせる社會團體は純粹なる政治的支配階級であつた。隨つて當時の社會成員たる全國民は、之に對する服從階級の構成者であつた。而して當時に於ける經濟階級は、頗る稀薄な姿を示して居るに過ぎなかつた。何となれば、領主と農民とに依つて構成された封建的搾取及被搾取は崩解し、それに代るべき近代的資本主義的搾取及被搾取は僅かに萌芽を示したに過ぎなかつたからである。

かゝる状態の下に資本主義が侵入し資本主義的生産が勃興して來た。資本主義の領野は直ちに階級の領野である。其の發達に應じて經濟階級は多くの國民を吸収した。斯くて生産の殆ど全部が、資本主義生産に併呑せらるゝに及んで、國民の殆ど全部は支配階級に對する服從階級たると共に、資本家に對する被搾取階級となつた。即ち國民階級は劣弱階級の二重の構成者となつたのである。

之と同時に優勝階級の構成者にも亦類似の變化が示されて來た。即ち搾取階級の構成者たる資本家は、漸時支配階級の内部に浸入して行つた。かの憲法制定運動の成功は實に其の第一期の段階であつて、最近に於ける原敬氏の政黨内閣は其の第二段階である。第一段階に依つて搾取階級は支配的地歩を占むる根據たるべき政權機關を設立し、第二段階に於て是に立脚せる支配能力を發揮した。

斯くの如くにして、二種の優勝階級は漸時一體化せんとするの傾向を進めつゝあるが、舊支配階級は尚貴族院の一角と樞密院其他に依據して對峙の形を示して居る。優勝階級の一體化の程度は、劣勢階級の一體化の程度に比べて、まだ遙かに低いのである。

一三

最後に斯くの如き階級の概念に基く階級觀を抱く時、今後必然に激成せられ來るべき階級鬪爭の上に、如何なる過程が推定さるべきかに就て簡單に述べる。

抑も二種の階級對立の存在する所、必ずそこに二種の階級鬪爭が起らなければならぬ。而も茲に明かに看取さるべき一傾向は、二種の階級對立が併存せる場合、其の劣勢階級の一體化は容易に行はるゝも、優勝階級の一體化は相當に困難なる事である。之れは現在の日本に於て見られる所である。此の場合、二種の劣勢階級は一體となり、二種の優勝階級に向つて鬪爭が進めらるゝ事となる。之に對して二種の優勝階級間に生ずる離合に依り階級鬪爭は興味ある曲線を畫く事となる。即ち優勝階級相互の間に分離衝突の傾向が現はれたとする場合、劣勢階級は或時は搾取階級と結んで支配階級に對抗し、或時は又支配階級と結んで搾取階級と對抗する。搾取階級と結ぶ場合、劣勢階級は服從階級なるべく、支配階級に結ぶ場合には被搾取階級である。斯くて劣勢階級の變轉自在なる出沒に依つて、二個の優勝階級は相互相搏ちつゝ滅亡の淵に近づいて行くであらう。

此の過程は、露西亞に於ては極めて短時間に進行を遂げた。即ち資本主義的色彩の濃厚であつたケレンスキー一派は、其の本質搾取階級であつて、舊支配階級の直系たる軍閥を其當時の敵とした。而して此の兩者の拮抗衝突は、容易に赤色軍をして乘ずるの機會を得せしめた。議會開設以後の露西亞は、一體化せる劣勢階級と、未だ二體として存在せる二種の優勝階級との三角的鬪爭の途上にあつた。それが大戰動機を得て、先づ搾取階級の支配階級に對する痛撃が加へられた。之が所謂第一革命である。舊政府の顛覆からケレンスキーの失脚までは其の進行期間であつた。此の期間に於ける一切の國内鬪爭は新興の搾取階級に對する舊支配階級の復古的鬪爭であつた。搾取階級の支持に焦慮したケレンスキーが深く劣勢階級の援助を得んとするや、却つて劣勢階級に蹴起の機會を與へ、被搾取階級にして又服從階級たるプロレタリアは、一括して二種の敵階級を粉碎した。レーニン、トロツキー等を中堅とするボリシエヰキーの興起は、斯る史的使命を成就したものである。

搾取階級は無限の發展欲望を内抱して居る。支配階級は歩一歩其の壓迫を被るの他は無い。此の傾向は兩階級の必然的背馳性を語るものである。隨つて我々の茲に提唱する階級鬪爭の曲線的進行、即ち搾取及支配階級の衝突に乘ずべき劣勢階級の戰鬪的飛躍は、搾取支配の兩階級が併存せる露西亞の如き又日本の如き國に於て、深き可能性を伴ふものと考へられる。


底本:『解放』第三卷第三號(大正十年三月)
『急進』第二巻第十一号に再録。

注記:

『急進』再録の論文は、誤植が改訂されたほか、章番号が一部変更されている(11と13が10と12に吸収され、全11章となっている)。

改訂履歴:

公開:2006/01/21
最終更新日:2010/09/12

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