カール・マルクスの國家理論

高畠素之

一、階級搾取國家觀

マルクスの學説に依れば、國家は階級支配の道具である。階級の區別が撤廢されたとき國家も亦消滅する。社會はそのとき以後、自由の王國となる。個々人は、何等の支配強制も受けないで生活し得るやうになる。

この見解は言ふまでもなく、階級區別の基礎を經濟的搾取被搾取の關係に求める唯物史觀に立脚するものである。社會の内部に、一方には他人の餘剩勞働(即ち勞働の結果として勞働者が収得する所よりも以上に生産されたもの)を横取りする人々の一群と、他方に此餘剩勞働を横取りされる多數者の一群とが存するとき、彼等の社會は階級社會を構成する。搾取者の群に屬する人々は、彼等に共通するところの利害に連結せられて、一つの階級となり、被搾取者の群もまた共通利害に依つて一つの階級に結合され、此等の二階級が利害衝突に依つて社會の内部に相對立することゝなる。全社會は階級に分裂されるのである。ところで此階級の對立及び抗爭を勢ひの赴くまゝに放任して置けば、社會は遂に全く分裂崩壞してしまはなければならない。さうなると、搾取階級も最早や搾取階級たることを得なくなる。なぜならば社會そのものが破壞してしまふとき、その社會の内容を成す階級的構成も今崩れ去つて仕舞ふからである。

斯くて搾取階級は現在の社會關係を破壞し去ることなく、飽くまで自己の搾取的地位を保持せんが爲に、一定の強制力を以つて社會の秩序を維持し、被搾取階級の反抗を壓服することが必要となつて來る。この必要に應じて現れたものが、即ち國家である。されば國家とは、その領土内に住む人民に對して、絶對的の強制權を振ひ得るところの、組織された權力である。經濟上の支配階級たる搾取階級は、この權力を掌握することに依つて、政治上の支配階級となることが出來る。

搾取階級は斯くその搾取的地位を維持するために、社會の強制支配權を握ることを必要とし、この必要に應じて國家が生じて來たとされる。マルクスと一心同體の協力者であつたフリードリヒ・エンゲルスは、その著『家族、私有及び國家の起原』の中にマルクスの國家理論を次の如く述べてゐる。

『國家なるものは決して、外部から社會に強制せられた權力ではない。またヘーゲルの主張する如き道徳的觀念の實現でも、理性の影像でも、理性の實現でもない。國家は寧ろ、或る一點の進化段階に於ける社會の一産物である。それは、この社會がそれ自身に對して解き難き矛盾に陷つたこと、調和すべからざる對抗に分裂したこと、而して自ら此對抗を排除する力がないことを告白するものである。然しこの敵抗が、經濟的利害の相衝突するこの階級が無益の鬪爭の中に己れ自身と社會とを消耗せしめてしまはないためには、斯かる衝突を鎭壓し、之れを秩序の埒内に制限すべき一見社會の上に立つところの權力が必要となつて來る。而して斯くの如き、社會から生れて而かも社會の上に立ち、且つ漸次に社會から隔離されるところの權力、これが即ち國家である。』『國家は階級敵抗を抑制する必要から出で、同時にまた階級衝突の中央に生じたものであるから、それは勢力の最も強大なる、經濟的支配階級の國家たることを常とし、而してまた此階級は國家に依つて政治上の支配階級となり、斯くして被壓迫階級を抑壓搾取するための新たなる機關を獲得するに至るのである。即ち古代の國家が、先づ第一に奴隷所有者に依る奴隷抑壓のための國家であつたと同樣に、封建國家は貴族の體樸奴隷を抑壓するための機關であり、また近世の代議國家は資本が賃銀勞働を搾取するための道具となつてゐるのである。』

エンゲルスは更らに、その著『空想的及び科學的社會主義』の中で次の如く述べてゐる。

『從來の社會は階級對立の範圍内に動いてゐたものであるから、隨つて國家を必要とした。國家とは要するに、夫々の時代に於ける搾取階級がその外部的生産條件を維持し、特に又被搾取階級をば當時存在せる生産方法に依つて與へられた壓伏條件(例へば奴隷制、農奴制、隷農制、賃銀勞働制)の下に強制的に抑留せんがための一機關である。』

斯くの如く、國家なるものは階級搾取の行はれる社會が生んだ産物である。階級搾取の條件が變化するとゝもに國家の形態も變化して來た。然るにプロレタリア解放運動の終極の目的は、ブルジヨアを覆滅すると共に一切の階級を無くしてしまふことである。マルクスは、この目的の實現は科學的の確實さを以つて達成されると信じてゐた。近世資本主義の社會は、ブルジヨア及びプロレタリアの兩階級に分割される。而してブルジヨア階級なるものは、人類の歴史上に最後のものとなるべき搾取階級である。ブルジヨア階級は社會發達の道程に於いて必然的に滅亡すべき運命に在るものであるが、この階級の滅亡後に於ける社會には、もはや搾取階級も被搾取階級も存在しなくなる。然らば階級對立が斯く存在しなくなつたとき、國家は如何になるか。國家は階級支配のために存するものであるから、階級がなく從つて階級支配がない社會が成立した曉には、國家は當然無用の長物となつて消滅すべきものである。

マルクスはその著『哲學の窮乏』の中に次の如く述べてゐる。『第三階級の解放、市民的秩序の條件が、一切の特權的身分の撤廢であつたと同樣に、勞働階級解放の條件となるものは、階級といふ一切の階級を撤廢することである。勞働階級は進化の道程上に於いて、舊來のブルジヨア社會に代らしむるに階級及び階級對抗を排除する一つの聯合(アソシエーシオン)を以つてするであらう。』而してこの時『嚴密の意味の政治的權力は最早存在しなくなるであらう。』なぜならば『政治的權力なるものは、ブルヂヨア社會の内部に於ける階級的對抗の公的表現に外ならないからである。』

更らに『共産黨宣言』の中にも次の如く述べてゐる。『進化の道程上に於いて階級制が消滅し、一切の生産が聯合した個々人の手に集中せられるとき、公的權力はその政治的性質を喪失する。嚴密の意味の政治的權力なるものは、一階級が他階級を抑壓するための組織せられた權力である。プロレタリアがブルジヨアに對する鬪爭に於いて必然的に階級として結合し、革命に依つて己れを支配階級となし、而して階級として強制的に古き生産關係を廢止するに至れば、この生産關係と共にプロレタリアは階級對抗の存立條件、階級そのもの及び階級としてのプロレタリア支配をも廢止する。階級と階級對抗とを有する舊ブルジヨア社會がなくなつて、各々の自由なる發展が全員の自由なる發展の條件となる一つの聯合がこれに代へて現はれるのである。』

此等の引抄によつても知られる通り、プロレタリア階級解放の彼岸に於いては、個々人を強制的に支配するところの權力(その機關は即ち國家)は消滅に歸して、その代りに自由なる聯合が現はれて來る。斯かる時代が來れば、最早や何人でも他人の意志に服從して、自己の意志を曲げる必要はなくなる。社會の上方に位して、人々に命令を下し、個々人の自由意志を拘束するところのものはなくなる。社會はたゞ自由なる個々人の集團となり、個々人が己れ自身の意志に從つて他人と關係を結び共同するところの集團と化してしまふ。例へばそれは、自由なる競技團體の如きものとなる。ベースボールの如き團體的な運動は、一人では出來ない。ベールボールは必らず九人の者が一組を作ることを要する。ベールボールによつて團體競技の快を味ひ、體力を練らうとする者は、この九人より成る團體に入らなければならない。けれども彼れは誰れに強制されて此團體に加はるのでもなく、たゞ己れ自身の好む所に從つて加入する。而して一度び加入した上は、彼れはその團體の規約を遵守し、出すべき會費を出し、練習日には他の人々と一緒になつて出場しなければならない。けれどもこれは、自己の目的を追求するために自ら甘んじて受けるところの義務であつて、それを欲しなくなれば、彼れは何時でも脱會することが出來る。

自由聯合の社會は正に斯くの如きものである。人間は一人ぼつちで生活することが出來ず、よし出來たにした所が、從來他人と結合して生活した時のやうな安全裕福な生活はなし得ない。そこで彼等は殊さら他から強制されなくとも、大勢の他人と協力して生産に從事し、また消費享樂の方面に於いても、他人と共同するやうになる。全社會は斯くして自由意志に從つて共同する人々の大なる團體となるのである。人々は自己の幸福のために自ら社會の秩序に服し、個人の幸福と社會の幸福とが完全に一致するやうになる。

この自由聯合の理想社會は、無政府主義者の希望する理想社會と何等異なる所はない。この點に於いては、マルクス社會主義も無政府主義も同一の標的を目指すものと言ひ得る。然るに此等の兩主義は、國家觀の上で和解し難き對抗的位置に在るものと一般に認められてゐる。實際此等の兩主義は、發生の初期から國家問題に關して斷えず爭つて來たのである。その原因は何處にあるかといへば、マルクス主義の『プロレタリア國家』なる觀念こそ、兩者に不一致を生ぜしめる根底と成つてゐるのである。そこで先づ、此プロレタリア國家なるものを考察することが必要となる。

二、プロレタリア國家

マルクス主義の下に唱道されるプロレタリア革命の順序は、プロレタリアがブルジヨアに打ち勝つた後、直ちに國家なき理想社會が建設されるとはしないで、その中間段階として『プロレタリア國家』といふ一種の國家が或る期間に亘つて存在すべきものとする。プロレタリアは先づ、強大なる階級に組織されなければならない。階級に組織されるとは、即ち政治的な團結に結合されるとの謂である。プロレタリア階級の人々が、共通の政治的意識に目覺め、共同の政治的目的を以つて結合されねばならないといふのである。斯く政治的に結合したプロレタリアは、先づ第一にブルジヨアから政權を奪取する。即ち彼等を政治的支配階級たる地位から失墜せしめ、プロレタリアが代つて政權を掌握する。斯くしてブルジヨアに代はり、プロレタリアが新たに社會の支配者となる。

斯くなつた時、國家はその本來の性質を失つて、特殊の意味を與へられることになる。何故ならば、プロレタリアは階級搾取維持のために政權を使用するものではないからである。プロレタリアの目的は階級搾取を廢止し、階級を廢絶せしめることにあるからである。從來の勞働者が政權の運用者たる位置に上つても、彼等が新たにまた他の人間を搾取するといふのでは、たゞ搾取者が交替したゞけに止まり、何等の本質的進歩をも意味しない。それでは政友會に代つて、憲政會が内閣を乘取つたのと大差はない。プロレタリアが國家權力を握つた曉には、その權力はプロレタリア階級自身の都合のためにのみ利用せられることなく、全社會のために利用せられなければならない。即ち國家は特殊の一階級の利害を代表するものではなく、社會全體の利害を代表するものとならなければならないのである。

けれどもプロレタリアが政權を掌握したからといつて、それを以つて直ちに國家は全社會を代表するに至るものではない。何故ならば、社會の一方には未だブルジヨアが生息してゐて、ブルジヨア社會回復の機會を覗つてゐるからである。そこで彼等を押へつけるために、國家權力を利用する必要が生じて來る。茲に於いて、國家はプロレタリアがブルジヨアを壓伏するところの機關となり、プロレタリアの階級支配機關となるのである。

なほこの外にも、プロレタリアの國家は一つの重大な役目を演ずる。政權の變動そのものは、實際社會の經濟的事情とは何等直接の關係を有するものでなく、政權がブルジヨアからプロレタリアの手に移つても、勞働者は依然として工場に赴き、工場所有主は依然として勞働者を使役してゐる。そこで斯かる搾取制度の殘留を廢除するために、プロレタリア國家は一切の私有資本を禁じ、生産機關を國有とし、生産を國家の管理に移して、從來の經濟的支配階級を漸次撲滅することに努める。資本の私有が許されず、生産が國家の手に管理されるに至つたとき、ブルジヨアは全く餘剩勞働搾取の手段を失つて自滅するの外なくなる。斯くして、プロレタリアの政權掌握後に尚ほ殘存するところの搾取的經濟は、プロレタリアの政權運用に依つて漸次に撲滅され、これに代へて搾取なく階級のない共同的社會が建設され、一切の強制權力は不要となつて國家は遂に自滅することゝなるのである。

プロレタリアに依つて政權を掌握された如上の國家が、即ち謂ふ所の『プロレタリア國家』なるものである。プロレタリア國家は上述の如き大手術を社會の上に行ふものであるから、その當初に於いては恐らく普通の國家よりも更らに強大な強制權力を必要とする。殊にブルジヨアの反抗を押へつけるためには、極めて嚴格な強制力が必要となるであらう。これは現在の露西亞にも見られる所である。マルクスは斯くして、終極に於いては國家の消滅を目標(1)とするけれども、そこに至る過渡的必要段階としてプロレタリア國家なるものを通過しなければならないとした。否寧ろ、プロレタリア國家が先づ來たらなければ、終極の目標とする社會の實現は到底望まれないとしたのである。この意味に於いて、マルクスは權力肯定論者であつたといひ得る。無政府主義は此點に於いて、マルクス主義と對立する。無政府主義者は一切の權力を惡となし、國家を以つて斯かる惡中の最惡なるものとするからである。

マルクスはその國家論に體系を與へないで死んだ。隨つて彼れの國家論は彼れの文獻のあちこちに散在してゐる斷片を蒐集し綜合して見なければ、充分には判明しないのであるが、エンゲルスは稍々系統的にその叙述を與へてゐる。例へば彼れの名著『反デユーリング』の中には次の如く述べられてゐる。

『プロレタリアは國家權力を占取して、先づ生産機關を國有にする。然しながら斯くすることに依つて、プロレタリアはプロレタリアのそれ自身を廢絶(止揚)し、一切の階級差別及び階級對抗を廢絶し、隨つて又國家としての國家を廢絶する。從來の社會は階級對抗の範圍内に動いてゐたものであるから、隨つて國家を必要とした。國家とは要するに、夫々の時代に於ける搾取階級が其外部的生産條件を維持し、特に又、被搾取階級をば當時存在せる生産方法によつて與へられた壓伏條件のもとに強制的に抑置せんがための一機關である。國家は全社會的代表であつて社會全體を目に見える一團に總括せるものであつた。けれども之れは、國家が、夫々の時代にみづから全社會を代表せる階級の國家であつた限りに於いてのみ行はれたことである。即ち古代に於ては、國家は奴隷所有者たる市民の國家であり、中世に於いては封建貴族の國家であり、現代に於てはブルジヨアの國家である。國家は遂に事實上全社會の代表となつた時、それ自身を不用に歸せしめる。壓伏すべき何等の社會階級も最早や存在しなくなるや否や、階級支配が廢絶され、從來に於ける生産上の無政府を基礎とした個々の生存競爭が廢絶されると同時にまた、これに基ける諸種の衝突や過冗が除去されるや否や、最早や特殊の壓伏力たる國家を必要とするところの、壓伏せらるべき何ものも存在しないことになる。現實に於いて國家を全社會の代表たらしむる最初の行爲、換言すれば社會の名に於いてする生産機關の占取は、同時にまた國家が國家としてする最後の獨自的行爲である。社會事情に對する國家權力の干渉は、一つの部面から他の部面へと次第に不用となり、遂には自然に寢入つてしまふ。人に對する支配に代つて、物の管理と生産行程の指導とが現はれて來る。國家は廢止されるのではなく、自滅するのである。』

この引抄の最後の一句は、國家の自滅を説いてゐる。自滅とは言ふまでもなく、外部から強制手段を加へることなく自然に消えて無くなるといふ意味である。社會に存在するところの、階級對立及び階級搾取を支持し助長する一切の事情が、プロレタリアの政權運用により漸次に廢除されて行くに從ひ、政權行使の必要範圍も次第に狹められて、遂には全くその必要がなくなる段階に到達する。かくして國家は、自然に寢入つてしまふといふのである。

從來、社會黨内に於ける日和見主義、御都合主義と謂はれた連中は、この『國家は自滅する』といふ文句を取り上げて、マルクス主義は無政府主義の如く國家を廢止せんとするものでなく、徐々の改良によつて國家の自滅を期するに過ぎないといふ、非革命的な漸進主義を唱へて來た。けれども斯ういふ改良主義は、本來のマルクス主義と似てもつかないものである。右の一文に依つても知れる如く、國家が自滅するのは最後の段階であつて、その前に先づプロレタリア革命によつて、國家權力をプロレタリアの掌中に移轉せしめなければならないとするのが、マルクス主義の主張である。

マルクス主義者の中で、晩近この點に重大な意義を認めて力説したのはレニンであつた。レニンはかの漸進主義者を難じて、彼等はマルクスを『極めて皮相淺薄』に、『ブルジヨアにとつて有利な』形に解釋し、マルクス主義を『不具化』するものだと言つてゐる。レニンの主張に依ると、國家自滅の結論は、國家廢止の序説と相須つて、茲に初めて完全なマルクス國家論を形成するのである。即ちプロレタリア革命に依つてブルジヨア國家が廢止され、しかる後に、尚ほ殘存しつゝあるプロレタリア國家が自滅するところの最終段階に入るのである。

三、プロレタリア獨裁

マルクス主義に依れば、プロレタリアは政治革命に依つて國家の政權を掌握する。しからば、その政權掌握は如何なる形式方法を以つて行はれるかといふ事が、次の問題となつて來る。

マルクスは『ゴータ綱領』を批評した書簡の中で、資本主義社會と共産主義社會との中間には『プロレタリア獨裁』の國家が必要とされる所以を述べてゐる。中間國家の理論それ自身は明白であつて、爭ふ餘地はないのであるが、プロレタリアは如何なる方法によつて政權を獨占し、これを如何なる形に於いて行使するかといふ問題に對してはマルクス主義者の間にも種々なる解釋の相違がある。

レニンはマルクス及びエンゲルスの文獻を周到に渉獵して、彼等の見解は、無産階級の政權獲得が所謂××××なるものによらねば不可能であること、而して一度び獲得せられた政權はプロレタリア獨裁の形で行使されなければならぬことを認めた點にあるとの斷定を下した。彼れはエンゲルスが國家の廢絶(止揚)を説いたのは、所謂革命的激變なるものに依らない國家の漸次的消滅を説いたのではなく、寧ろ革命的激變を必要とする所以を説いたものであると力説してゐる。レニンの言ふ所に依れば、エンゲルスは國家を以つて『一種特別の抑壓權力』なりとする。從つてプロレタリアの自己解放は先づ、プロレタリアを抑壓するブルジヨアの特殊權力に代ふるに、プロレタリアの『特殊抑壓權力』を以つてすることから始められねばならない。エンゲルスはこれを國家としての國家の廢止と呼んでゐることは、先きの引抄に示される通りである。ところで此抑壓權力の交替は、決して平和裡に行はれるものではなく、強制手段を以つて行はれるとする。エンゲルスはマルクスと共に、常に『革命』の避くべからざることを強調したのであるが、レニンはこれについて『反デユーリング』の中に與へられたエンゲルスの言説を指摘して曰く。

『××が歴史上更らに異つた役目、即ち革命的の役目を演ずること、マルクスの言葉を以つて言へば、一つの新たなる社會を孕んでゐる各舊社會の助産婦となること、社會的運動が貫徹せられて、痲痺死亡した政治形態を破壞するための要具となること、これに就いてはデユーリング君は口を緘して一言も語らない。氏はたゞ呻吟嘆息の下に搾取經濟を顛覆するためには暴力は恐らく必要であらう(不幸にして!なぜならば、暴力の行使は必らずその行使者を墮落せしめるから)その可能を承認するに過ぎないのである』と。

マルクス及びエンゲルスの合作たる『共産黨宣言』にも、プロレタリアの發達が或點に達すると、從來或は多く或は少なく隱蔽された形で行はれてゐた内亂が『公然たる××に破裂し、ブルジヨアの強行的××によつてプロレタリアは其支配を確定するに至ると書いてあるし、更らに一八四九年十一月七日の『新ライン新聞』に掲げられた文章の中にも『舊社會の斷末魔の苦痛を、新社會分娩の苦痛を短縮し、輕易にし、集中する方法は僅かに一つあるのみ』と斷言して××××なるものゝ必要を力説してゐる。

けれども、マルクス及びエンゲルスの所説は、斯かる暴力是認論のみを以つて終止するものではない。他の一面に於いて、彼等は平和手段によるプロレタリア革命の可能をも承認してゐたのである。それは如何なる場合に可能であるかといへば、デモクラシーの發達した國に於いて勞働者が選擧權を得、言論出版の自由を得、結社の自由を得てゐる場合が即ちそれである。デモクラシーの發達した國としない國との區別に應じて、プロレタリア政權獲取の方法も亦おのづから異つて來るとは、マルクス及びエンゲルスの主張するところである。マルクスは一八七二年アムステルダムの民衆大會でなした演説の中に次の如く述べた。

『勞働者は、新たなる勞働組織を建設するため、何日かは政治的權力を掌握しなければならない。彼等は舊制度を支持するところの舊政治を顛覆しなければならない。…………だが、この目的を達成する方法は、何處に於いても同一であると我々は主張するものではない。これについては、各異なつた國の異つた制度、風俗、習慣等を顧慮しなければならないことは、我々の知るところである。而して我々は、亞米利加や、英吉利や、又若しその制度施設を更らによく知つたとすれば、恐らく附け加へて言ひ得るであらうと信じられる貴國(和蘭)の如き、勞働者が平和的方法に依つて、この目的を達成し得るところの國があることを否定するものではない。然しこれは、如何なる國に於いても一樣にさうであると言ふのではない』と。

亞米利加や英吉利などの如き民主的の國に於いては、勞働者も參政權を有してゐるから、勞働者が數量的に増加し、階級意識に目覺めて、よくプロレタリア解放の目的に向つて邁進するやうになれば、彼等は多數の政治的代表者を多く選出し得てブルジヨア代表を壓倒し、プロレタリアの政權獨裁を實現することが出來る。反對に、獨逸の如き官僚的軍閥的な國家に於いては、勞働者は政治的の運動を固く禁じられてゐるから、政權を取るにはどうしても從來の政治組織を粉碎してしまはなければならない。マルクスの見解は實に斯くの如きものであつた。同一の見解は、エンゲルスの左の文書の中にも示されてゐる。

『議會に一切の權力が集中されて、人民多數が議會の背後に置かれることゝなるや否や、立憲的に如何なることをも意の如く行ひ得る諸國では、舊社會が發達して平和的に新社會に化成されてゆくことは、考へ得るところである。佛蘭西や亞米利加の如き民主的共和國。また…………王室が民意に對して無力となつてゐる英吉利の如き君主國は正にそれである。』即ち多數國民の後援を有する政黨が議會を通じて自由に國政を左右し得る國では、平和手段が可能となつてゐる譯である。

エンゲルスは更らに、獨逸を此等の諸國と比較せしめて、『獨逸に於いては、公然共和主義的の政綱を立てることは許されない。而して斯かる事實こそ、平和的な方法を以て獨逸に共和制度を樹立せんとすること、否、單に共和制度のみでなく、進んでは共産主義社會をも建設せんとすることが、如何に甚しき幻想であるかを證明するものである』と主張してゐる。これは『エルフルト綱領』を批評したエンゲルスの書簡中に與へられてゐる一節である。

斯く考へて來れば、マルクス及びエンゲルスが普通選擧について可なり重要な意味を認めるに至つたことは不思議でない。然るにレニンは暴力革命一天張りであるから、勿論選擧などは眼中に置かないのみか、寧ろ有害なるものとして排斥する傾向があつた。彼れに依れば、エンゲルスは普通選擧を以つてブルジヨア支配の武器であるとなした。しかしエンゲルスは、普通選擧がプロレタリアにとつても有力な武器となることを認めてゐたことは拒まれない。即ちエンゲルスは次の如く言つてゐる。由來、普通選擧制度なるものは、ブルジヨア國家の施設として案出されたものであるけれども、結果に於いては寧ろ、勞働階級がブルジヨア國家の攻撃に利用すべき有力な新手段となつたのである。勞働者は國會や自治體議會の選擧に參加し、ブルジヨアと角逐して、充分その威力を發揮するに至つた。ブルジヨア政府は遂に、勞働者黨の合法的な選擧の成功を以つて、違法的な叛亂の成功よりも遙かに著しく恐怖するやうになつた。要するに、合法的な政治運動は、『舊式な叛亂、胸壁に據る市街戰』よりも遙かに有効のものだとするのである。

マルクスもエンゲルスも、上述の如くデモクラシー及び普通選擧を是認してゐたのであるが、然らばこれはプロレタリア獨裁といふ、一見デモクラシーとは相對立した極に立つ政治形態と如何に調和せしめるべきであらうか。レニンは普通に解せられる所のデモクラシーを排斥する。彼れ及びその一味に依つて成就された露西亞の共産制度は、舊來のブルジヨアから參政權を剥奪し、勞働者及び共産黨員でなければ政權に參加する資格を持ち得ないやうにしてしまつた。即ち參政權は『勞働者』の範圍だけに限定されてしまつたのである。レニンはこれをプロレタリア・デモクラシーと稱し、茲にプロレタリア獨裁の本體が置かれてゐると主張する。

獨裁といふ言葉は、通常の用語法に從へば、何等法律の拘束を受けない一個人の單獨支配を意味してゐる。けれどもプロレタリア獨裁といふ以上は、階級の獨裁であつて一個人の獨裁でないことは勿論である。マルクスはブルジヨア階級の獨裁に對立するものとして、プロレタリア獨裁といふことを主張した。而して彼れの謂ふブルジヨア獨裁とは、ブルジヨア支配と大して異なる所はないのである。民主國に於いては、プロレタリアも參政權を有するが、彼等の力は微弱であつて、その政治的意志は容易に行はれない。反對に、ブルジヨア階級の意志は、實政治を動かしてゐるのである。エンゲルスは『デモクラチックな共和國に於いては、富は間接的に、だがそれだけ益々確實に威力を振つてゐる。第一には、直接的なる官吏腐敗の形に於いて(亞米利加)、第二には政府と取引所との結托に依つて』と述べてゐる。けれども彼れは、プロレタリアの政權掌握(獨裁)が一切他階級の政治的權利の剥奪を必要とするとは主張しなかつた。寧ろ、プロレタリア獨裁なるものは、デモクラシーの中止に依つても行はれ得るし、デモクラシーの範圍内に於いても行はれ得ると認めてゐたのである。

マルクス及びエンゲルスは巴里コンミユンを以つて最上の政治形態なりとした。マルクスは其著『巴里コンミユン』の中で、『コンミユンは本質上勞働者階級の政府であつた。収得階級に對する生産勞働者階級の鬪爭の結果であつた。勞働者階級の經濟的解放を行ひ得べき政府形態が漸くにして遂に發見せられるに至つたものである』と言つてゐる。然るに此コンミユンなるものは、『巴里の諸地區に於いて普通選擧の下に選擧せられた市會議員から成つた』ものであつて、それはデモクラシーと相反するものではなかつた。エンゲルスは同書の緒言に、『獨逸の俗物共は近來再びプロレタリア獨裁なる語を聞いて恐怖に襲はれてゐる。諸君は此獨裁の如何なるものであるかを知らんと欲するか。巴里コンミユンを見よ。これ即ちプロレタリアの獨裁なるものであつた』と書いてゐる。

要するに、マルクス及びエンゲルスのプロレタリア獨裁なるものは、全國民に政治的權利を附與するデモクラシーと必ずしも兩立し難いものではない。たゞ斯かるデモクラシーに立脚したプロレタリア獨裁は、プロレタリアの實勢力が、政治上の自由競爭に於いてブルジヨアを壓倒し得る場合でなければ、維持することは不可能だとしたに過ぎないのである。

四、マルクス國家論の批判

マルクス學説の經濟學的方面は、從來かなり充分に檢討を經てゐるから、マルクス主義者の間に著しく見解の扞格を見るやうなことはないが、社會學的方面に至つては、これと反對に、種々なる異論が見出されるのである。マルクス學説の社會學的方面といふ中には、唯物史觀説のほか、それに關連した國家論も含まれる。唯物史觀説に就いても、種々批判と修正を加へる餘地のあることは言ふ迄もないが、國家論に就いては更らに批判の餘地が多いのである。蓋しマルクスの國家論は、何處に於いても系統的に述べられて居らない上に、從來この方面の研究が極めて等閑に附せられて來たことは拒まれないからである。實際のところ、マルクス派學者の間から國家論について權威ある貢獻をなしたものは、寥々曉の星の如き有樣であつて、一般マルキシストはみな型の如き信條の墨守を以つて滿足してゐたのである。

マルクス、エンゲルスの教義を奉ずること極めて忠實であつた獨逸社會民主黨の首領べーベルの如きも、この點に於いては一般の例に漏れなかつた。彼れはマルクス、エンゲルスの信條に從つて、階級廢止の後には、國家と名づくべき何ものも存しなくなると主張しながら、或る場合には『庶民國家』なるものを説いてゐる。彼れの謂ふ所に依れば、今日の國家は階級國家であつて、被抑壓階級たる賃銀勞働者や、手工業者や、小農民や、精神勞働、小官吏などの人口は非常なる多數に達してゐる。されば此最大多數者たるプロレタリアが政權を獲得せんとするのは、多數に依つて小數を壓迫せんとするのではなく、寧ろ萬人の權利と位置とを平等にせんとするに外ならないのである。プロレタリアは階級支配を欲するものではない。寧ろ、彼等が成就せんとするところのものは、合理的にして民主的なる社會である。彼等は國家を以つて、階級支配の國家から一つの庶民國家に、何等の特權も存在することなき民主國家に轉化せしめんとするのである。而してこの國家に於いては、組合的生産が個人的生産に代り、自助は國民的補助となり、國民的補助は國家的補助となつて、自助と國家的補助とは渾然一體となる。

この主張は明かに國家を認めるものであつて、國家は消滅するといふ説とは到底一致し難い。斯かる庶民國家説は、同じく獨逸第一流のマルクス主義者たるカール・カウツキーの非難を受けた。彼れによれば、マルクス主義は國家を以つて階級支配の機關に外ならないとする。されば階級國家といふ言ひ現はしは妥當でない。階級國家にあらざる國家はないのであるから、階級といふ形容は重語である。彼れは曰く『庶民國家といふ言葉を以つて、プロレタリアに依つて征服せられた國家を意味せしめようとしてゐる人もあるが、謂ふ所の庶民國家なるものも、これ又一種の階級國家ではないか。なぜならばそれは、プロレタリアに依つて他の階級が支配されるといふ假定に立つからである。尤も同じ階級支配といふ中にも、一つの著しい區別がある。プロレタリアの階級支配は、階級維持のためでなく寧ろ階級廢止のために行はれるといふ一點が即ちそれである』と。

しからばカウツキー自身は如何にといふに、彼れも亦國家消滅といふ結論に對しては、極めて曖昧な態度を示してゐる。彼れは『エルフルト綱領』の中で、『勞働者階級が國家の内部に於いて支配階級となつた時、茲に初めて國家は一つの資本企業たることを止めるやうになるであらう。その時初めて、國家を一つの社會主義的組合に改造することが可能となるであらう』と言ひ、また社會民主黨は『勞働者階級が政權を獲得し、これに依つて國家を變じて一つの大なる、大體に於いて自給自足的なる經濟組合たらしめん』ことを欲するものであると言つてゐる。然しこの後ちの場合には、國家の廢止に言及して居らない。しかのみならず、その一大經濟組合を呼ぶに、『未來國家』なる名稱を以つてしてゐるのである。更らに、無政府主義とマルクス主義の區別を述べた彼れの言説を見ると、彼れの解釋するマルクス主義なるものは、國家を肯定する所に特色があるやうに説かれてゐる。即ち無政府主義は國家權力を破壞せんとするに反して、マルクス主義は國家權力を占取せんとするものだといふのである。而してプロレタリアの政權掌握が成功した曉には、國家の機能は從來よりも更らに擴張されるであらうと説いてゐる。これに對して、レーニンは猛烈な非難を加へた。彼れは曰く、國家廢止の一點については、マルクス主義者と無政府主義者との間には何等異なる所がないのであつて、カウツキーはこの根本問題につきマルクス主義の立場を全く放棄して御都合主義に變節したものであると。

カウツキーなどよりも更らに批評的な態度を持つてゐるベルンシユタインに至つては、明かに國家の存續を主張する。彼れも亦、カウツキーと同樣に無政府主義と社會主義との區別を明かにし、社會主義は國家を改造してこれに社會主義的性質を與へんとするものであるが、無政府主義は國家を全く破壞して、自由聯合の社會に至らしめようとするものであると述べてゐる。而して彼れは、國家は永久に死亡するものではないといふ説を支持するため、狹小な地域に於ける微細な共産團體に於いては、法律はなくても差支えないが、近世の大社會は反對に、法律又は何等かの強制なくしては秩序を維持することが出來ないと斷言してゐる。法律又は何等かの強制がなければならないとする主張は、これ即ち、國家がなければならないとする主張に外ならないものであつて、ベルンシユタインの斯かる所論は、マルクス主義の範圍を逸脱してゐるとの非難も與へられてゐるが、社會には何等かの強制が必要だとする思想は、マルクスやエンゲルスも抱持して居らなかつたわけではない。エンゲルスが海牙のインターナシヨナル會議(一八七二年)に先だち、獨逸の社會主義者クノーに與へてバクウニンを評した書簡の中には次の如き一節がある。

『バクーニンに從へば、インターナシヨナルなるものは政治的の鬪爭を目的とするものではなく、社會的清算(革命の遂行)に際し之れを以つて直接舊國家組織に代はらしめ得るために造らるべきものとなるのであるから、之れを出來得る限りバクーニンの將來社會の理想に近づかしめることが必要となつて來る。この社會には、第一に何等の權力もない。權力は即ち國權であり、而して國權は即ち×××を意味するからである。(究極に於いて決斷を下すところの意志なく、換言すれば統一的の指揮なくして、如何にして工場を經營し、汽車を走らせ、汽船を航行せしめんとするか。これに就いては、バクーニン等は何等説明する所がない)。少數者に對する多數者の權力も亦消滅するとされる。各個人、各地方團體は、それぞれ獨立して自治を行ふといふのである。だが、僅かに二人の個人から成る社會にしても、その各人の自主權の一部を放棄せしめることなくして、如何にして成立し得るか。これまたバクーニンの不問に附するところであつた』と。

カウツキー、べーベル、ベルンシユタイン等從來のマルクス主義者が、斯くの如く國家消滅説に對して、或は躊躇逡巡し、或はまた牽強附會してゐるに對し、純然たる正統マルクス主義の旗印を掲げて現はれたのは即ちレニンである。レニンは、國家消滅説がマルクス主義の本領であることを、蔽ふところなく主張してゐる。彼れに依ればマルクス主義の理想實現の段取りは先づプロレタリア革命に依つて××××をプロレタリアの手に収め、かくしてブルジヨア國家を廢止する。エンゲルスが『國家としての國家』の廢止といつたのは即ち之れである。この廢止後に殘存する所のプロレタリア國家なるものは、本質を抜き去られた殘骸國家に外ならない。レニンは之れを『半國家』と名づけてゐる。斯かる半國家は社會革命(生産機關の國有)が完成されたとき、次第に自滅する。エンゲルスが國家は寢入つてしまふといつたのは、即ち之れである。このとき社會は完全にデモクラシーの形態を採り、人類は初めて自由の國に躍り込み、各人は自己の能力に應じて勞働し、自己の欲望に應じて支給されるといふ自由郷が實現されるのである。

マルクス主義國家論に於いては、レニンの所説が比較的最も純眞であることは、今や一般に認められやうとしてゐる。だがレニンの解釋を以つてしても、マルクス主義國家論の曖昧は拂拭されるものではない。マルクス主義に依れば、プロレタリア革命に依つて『國家としての國家』が廢止され、その後にプロレタリア國家が出現し、それが漸次に自滅するといふのであるが、『國家としての國家』が廢止された後には、『國家として』の何ものも殘らない筈である。廢止されるブルジヨア國家と、自滅するプロレタリア國家とが、全然本質を異にしたものであるとすれば、兩者に對して國家といふ言葉を共用することはヘンなものである。レニンは『プロレタリア國家』を以つて、『ブルジヨア國家』の廢止後に殘存するところの『半國家』に過ぎないとしてゐるが、半國家とは抑も何であるか。國家は階級搾取維持の機關であるといふのは、マルクス、エンゲルス、隨つて又レニンの主張するところであつて、『國家としての國家』とは、要するに斯かる意味の國家を指すのであらう。然るにプロレタリアの政權把握後には、階級的搾取が無くなるのであるから(舊來のブルジヨアから所得を剥脱することは『収奪』であつて『搾取』ではない。マルクスの謂ふ搾取とは、他人の餘剩勞働を搾り取ることである)、隨つて『國家としての國家』も廢せらる。それは能く解ることだが、この本質的國家の廢止後に尚ほ殘るとされる『半國家』なるものゝ正體がなかなか解らない。

曩に引抄したエンゲルスの説明に依ると、プロレタリアの政權把握に依つて、『國家としての國家』が廢せられ、次に『壓伏すべき何等の社會階級も最早存在しなく』なり、『階級支配が廢絶され』て、國家が『事實上全社會の代表となつた時』、『特殊の壓伏權力たる國家』を必要とするところの何ものも存在しなくなり、かくして國家は自滅してしまふといふのである。

これを概評すると、プロレタリアの政權把握に依つて、階級搾取は無くなるから、隨つて階級搾取維持の機關たる『國家としての國家』は廢止されるがその後にもなほ『階級支配』は殘り、階級壓伏は殘るから、斯かる壓伏權力としての國家も亦殘存する。而して此意味の國家が消滅するのは、社會に階級が無くなつて、『國家が事實上全社會の代表』となつた時、初めて行はれるところである。レニンの謂ふ『プロレタリア國家』即ち『半國家』とは、要するにこの搾取を抜きにした單なる階級支配の權力を指すものであらう。而して搾取を加へた階級支配の權力たる國家は即ち『國家としての國家』(當面の場合で言へばブルジヨア國家)だといふのであらう。

これなら解らないことはないが、然し斯く解することは、唯物史觀説に立脚したマルクスの階級觀と衝突することになりはしないか。如上の説明に依れば、階級搾取支配と單なる階級支配とが明かに區別されてゐて、搾取のないところにも階級の存在を許すことになるのであるが、マルクスの唯物史觀が階級の本質的要素を搾取に置くことは明かである。

階級成立の要素が經濟上の搾取にのみ限られず、隨つて國家の成立要素も階級搾取にのみ限られないとすれば、搾取要素と他の要素との中、階級竝びに國家の成立上果していづれがヨリ本質的であるかといふ問題が起つて來る。)階級搾取が廢せられたとき、『國家としての國家』が廢せられることになるといふ、マルクス主義の見地からすれば、搾取要素の方がヨリ本質的でなければならない譯である。さればこそ、レニンは階級搾取なき後の國家を示すに『半國家』なる名稱を以つてした譯であつて、半國家とは要するに本質的にあらざる國家、第二義的の國家といふ意味であらう。

然し國家(隨つて階級)の本質が經濟上の搾取にあるか、又は搾取以外の例へば支配(強制支配)といふ如きものにあるかは、深き檢覈を要する問題であつて、この問題と關聯して更らに、國家は將來消滅するか否かといふ問題が生じて來る。

將來に於ける國家消滅如何の問題に關しては、種々なる學者の所論が提出されてゐるが、就中維納の法律哲學者ハンス・ケルゼンの反對論は最も有力と見られてゐる。いま、ケルゼンの主張の要點を摘録すると、次の如くになる。

國家は階級搾取維持の機關でもなければ、階級支配の組織でもない。國家は強制的の秩序である。強制的の秩序なくして、廣汎なる範圍に亘つた産業の秩序は維持されるものではない。それ故、階級は廢除されても、マルクス主義者の主張する如き大規模の生産を營む共産社會に於いては、國家は消滅するどころか、却つて存在の意義を加へることになるのである。さればマルクスの學説中に於ける、政治上の無政府主義と經濟上の共産主義とは、本來相容れざるものと見做すの外はなくなる。

この種の考へ方に對しては、エンゲルスが既に答辯を與へてゐる。エンゲルスは國家が消滅するとき、『人に對する支配に代つて、物の管理と生産行程の指導とが現はれる』と述べてゐる。物の管理は強制支配ではなく、隨つて國家を形成するものではないといふのである。が、ケルゼンはこの答辯を承認しない。なぜならば、苟くも物の管理である以上、人の管理(即ち一方の人の意志が他方の人に依つて決定されること)でないものはなく、苟くも生産行程の指導である以上、人に對する人の支配でないものはないからである。蓋し物や生産行程は自動的に動くものでなく、人間の意欲行動を通じて作用せしめられるからであると、ケルゼンは主張してゐる。

ケルゼンと同じく維納大學の教授を勤めてゐるマツクス・アドラーはマルクス主義を代表して以上のケルゼン説に反駁を加へた。彼れは曰く、ケルゼンの批評は批評の法則を無理してゐる。マルクスが社會學的の見地から立てた學説を、ケルゼンは法理學的の全く異つた見地から批評してゐる。マルクスの考へる國家は、ケルゼンの考へる如き抽象的な法理的概念上の國家ではない。マルクスにとつて問題となるものは、ブルジヨア國家であり、階級國家である。強制が社會に存するといふことは、マルクスにとつて國家の存在を意味しない。強制が如何にして、何人によりて行はれるかに依つて、國家ともなり非國家ともなるのである。共産社會にも強制はある。けれども此場合の強制は、全く性質を異にしてゐる。階級間の死活的利害衝突があつて、一つの階級が他の階級の意志を壓迫する場合にのみ、強制組織は支配となる。斯かる死活的な階級利害の衝突が行はれない場合には、強制はあつても支配はない。支配がなければ國家もないことになる。

アドラーは斯くケルゼンを反駁してゐるが、然し社會から強制のなくなることはないといふ見地に於いては、ケルゼンと一致してゐるのである。ケルゼンから見ると、強制秩序なるものは階級的抑壓の目的に利用されることもあるし、また階級撤廢の目的に利用されることもあるが、國家の本質は斯かる特殊の目的に在るのではなく、強制秩序それ自身に在るのである。この點、アドラーの見解と兩極的に對立してゐる。然しアドラーも、國家なき後ちに強制秩序の存續することは否定しない。而して之れが眞個のマルクス主義だと言ふのである。

が、果して然りとすれば、プロレタリヤ革命によつて國家は廢止され、やがてプロレタリヤ國家も自滅して、各人の自由な聯合を基礎とする社會が出現するといふ、共産黨宣言其他に明言されたマルクス及エンゲルスの主張は一體どうなるのであるか。更らにレニンが、國家の消滅に關しては、我々は無政府主義者と見解を異にするものでないと主張した言葉は、何うなるのであらうか。

要するに、マルクス主義の國家消滅説は、論據頗る曖昧であつて、矛盾多く、國家の現實的必然の認識と國家に對する鬱憤的反感とのヂレンマから生れた辯證法的詭辯の遁辭と見るの外はないのである。

五、國家社會主義の國家觀

最後に、筆者年來の主張たる國家社會主義の國家觀を概述して、蛇足に換へる。國家社會主義といふ言葉は、ラツサレ、ロドベルトス等の國家是認社會主義を示す爲にも使用される。國家は本來人類の自由と幸福との發展を役目とするものであつて、階級對立が廢除されたとき、國家の斯かる倫理的本質は完全に發揮されて、國家は完成されたものとなる。――これがラツサレ等の國家觀であつて、この種の國家觀に依つて立つ社會主義を示すに國家社會主義なる名稱を以つてすることは、從來しばしば行はれた所である。だが、筆者等の主張する國家社會主義は、斯かる倫理的國家社會主義とは著しく趣きを異にするものである。

我々は、國家の本質を以つて自由の發展にありとなさず、寧ろ自由の制限又は拘束にあると見る。この點は、無政府主義ともマルクス主義とも相共通する所である。ただ、無政府主義やマルクス主義はかるが故に國家は廢止すべきものと説くのであるが、我々はかるが故に國家の存立は必然的であると見做して、この實現的必然(2)の上に社會主義を樹立しようとするのである。

元來、國家に限らず、人間が社會を形成し、共同生活を營むといふことが、既にそれだけ自由の制限を意味する。社會とは單に個々人が集合するといふだけのものでなく、この集合が外部的に規制されたものでなくては、社會とはいひ得ない。而して斯かる規則の方面から見れば、如何なる社會も秩序であり、法的秩序である。この法的秩序としての社會の中、規模大にして且つ最も完全な組織を有するものは國家である。

國家は自由の制限であるといふことは、國家の本質は統制(強制支配)にあるといふことを、消極的に言ひ現はしたものに外ならない。この本質は、マルクス主義の主張する如く、階級搾取に求めらるべきものではない。搾取がなくとも統制は存在する。統制の起點は、社會をして社會たらしむる如上の規制それ自身の中に置かれてゐる。

勿論、單にそれだけでは、まだ國家とはならない。それだけならば、社會は即ち國家であるといふことになる。なぜなれば、規制なき社會は考へ得られないからである。然らば、單なる社會が國家となる限界は、何處に求めらるべきか。國家は先づ、一定の占有地域に結合せられた社會でなければならぬ。次に規制の機能が總括的に分化獨立して、それが一定の集團に依つて負擔されることを要する。

規制機能(支配機能)の分化は、原始的の種族社會に於いても、すでに或る程度まで進んでゐたことは事實である。其處には武將や裁判官の形を以つて、支配機關が個別的に特殊化された事實も示されてゐる。然し斯種の社會を以つて直ちに國家と呼ぶことは、何人も反對するところであらう。斯種の社會が國家となり得るためには、支配機能が先づ支配機能それ自身として、總括的に分化獨立することを要する。

而してこの支配機能分化の事實が、極めて明瞭な形を採るやうになつたのは、一つの種族社會が他の種族社會を征服して、征服した方の種族は專ら支配者たる位置に立ち、征服された方の種族は專ら被支配者たる位置に立つて、茲に支配階級と被支配階級との區別が確定されるに至つたときである。即ち種族社會それ自身の内部に於ける支配機能分化の内在的傾向が原因となり、種族對種族の外附的要素が機縁となつて、茲に初めて階級支配なるものが成立し、それと共に嚴密の意味の國家が生ずることになつたのである。されば國家とは單なる支配關係に立つ地域社會でなく、階級的支配關係に立つ地域社會だといふことになる。

種族對種族の衝突を呼び起す動機は一樣ではない。單なる優勝的欲望に誘はれる場合もあれば、また他の種族を征服して物質を得ようとする經濟上の欲望に專ら動かされる場合もある。これに從つて、征服後に於ける支配者被支配者の關係にも種々なる差異を生ぜしめる。經濟上の欲望が主として作用する場合には、被征服種族の物質を占取した上に、尚ほ彼等自身をば奴隷となしてこれに勞働を強要する。かくして被征服者は被征服者たると同時に、また被搾取階級となるのである。また優勝的の欲望が主として發動する場合には、被征服者を以つて軍卒となし、專ら軍事上の目的に驅使するといふやうな結果を生ずる。

然し階級支配が階級搾取を伴ふと否とに拘らず、兎にかく社會の内部に進行しつつあつた支配機能の分化特殊化が、斯かる階級區分の形に段階づけられたとき、茲に初めて國家なるものが成立するのである。されば國家の本質を以つて、階級支配に在りとなさず、單なる支配又は強制秩序そのものに在りとするケルゼンの主張は、我々の主張とは決して同一ではない。ケルゼンの如く解するときは、如何なる社會も國家であり得るといふことになつてしまふ。なぜならば規制なき社會はなく、如何なる社會も何等かの程度、何等かの形態に於いて強制秩序と見做し得るからである。國家は單なる支配、單なる強制秩序ではなく、階級的の支配、階級的の強制秩序でなければならない。

だが如上の主張は又、國家の本質を以つて階級搾取にありとするマルクス主義國家觀とも決して同一のものではない。階級支配そのものと階級搾取支配とは決して同一のものでなく、搾取なき階級支配の存在は、概念的にも歴史的にも、明瞭に考へ得るところである。

以上の定義から推せば、社會主義實現後の社會にも尚ほ國家が永續し得るや否やの問題は、終局に於いて、階級支配なるものが永續し得るや否やといふ問題に歸する。階級成立の第一要素となるものは、支配機能の特殊化といふことであつて、これは社會が進めば進むほど、他の社會機能の分化特殊化と竝行して益々著しくなる。支配機能特殊化の傾向は、主觀的には支配欲望、優勝欲望の發動となつて現はれる。社會主義の制度が實現されて、經濟上の不平等が廢除せられた曉には、經濟上の優越に依つて優勝的の欲望を滿足させることは不可能となるが、この欲望それ自身は決して消滅するものでなく、寧ろ益々旺盛に赴くであろうと想像される。優勝的の欲望は、學問芸術その他の方面にも發動するが、就中政治の部面に於いては、それが最も強く且つ露骨に發揮されることを想像し得る。

此等の點から推して、社會主義實現後の社會には經濟上の搾取がなく、種族衝突がないとしても、階級支配の現象は永く存續し、又は不斷に再生産されるものと推斷するの外はない。露西亞のプロレタリア政治革命が舊來の支配階級を顛覆して、共産黨といふ新たなるヨリ有力な支配階級を喚び起した事實に鑑みるとき、階級支配の現象が社會進化の現實と如何に密接に組合されてゐるかを知ることが出來る。露西亞の共産黨は單に、舊來の支配階級に對して新興支配階級たるのみではなく、また露西亞國民一般に對しても新たなる支配階級となつてゐるのである。

要するに、社會主義の實現に依つて階級支配が消滅すると信ぜしめる論據は成立しない。隨つて國家も亦、相對的の永續性を保存するであらうと推論される。

マルクス主義は搾取を起點として立論し、搾取から支配が生れると見る。隨つて搾取が無くなれば、支配も無くなり國家も無くなると主張するのであるが、この主張は搾取の無くなつた後も尚ほ『プロレタリア國家』なる強制支配の存續を許すマルクス主義の一面の主張と兩立し得ないことは、曩に述べた通りである。

階級支配は支配機能それ自身の分化に起因するものであつて、必然的に階級搾取と相共に生ずるものではないから、この形成的見地からしても階級搾取の廢された後に階級支配隨つて國家の存續することは認容し得る。否、寧ろプロレタリアの政權把握に依つて搾取關係が廢除されたとき、國家は搾取關係との結合を分離されて本來の支配國家に復歸するとも言ひ得るのであつて、レニンの謂ゆる『半國家』こそ却つて純國家であり、全國家であるといふことになる。

ブルジヨアを倒したとき、マルクス主義の謂ゆる『ブルジヨア國家』なるものは倒れてしまふであらう。然しそれは『國家としての國家』が廢除されるのではなく、寧ろ『國家としての國家』の再確立を意味するといふ風にも考へ得るのである。


底本:第二次『解放』第五卷第一號(大正十五年正月)

注記:

※『マルクス學解説』第四章「マルクスの國家學説」と一部が重複しているため、それを用いて二三の文字を改訂した。
(1)國家の消滅を目標:底本は「國家を目標」に作る。『マルクス學解説』によって改めた。
(2)實現的必然:『マルクス學解説』も同じ。「現實的必然」か?

改訂履歴:

公開:2006/01/21
改訂:2007/11/11
最終更新日:2010/09/12

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