消費組合と公設市場との價値

高畠素之

一 消費組合の種類及效果

消費組合には、廣義のものと狹義のものとの二種類がある。狹義のものは、商品の最終消費者が、組織を造つて小賣商人の機能を營む組合で、卸商より購入せる商品を組合員の間に分配する小賣消費組合とも云ふ可きものである。廣義のものはそれが一歩を進めて、卸商人の機能を具へ商品を生産者より直接購入する揚合、及び更らに進んで生産機關を設け、自ら生産に從事する揚合のものをも含む。一般に消費組合と言へば、狹義のものを指してゐる。其機能が卸賣業者、生産者の分にまで侵入するは、寧ろ特殊の發展をなせる揚合である。又若し、手を生産にまで延ばし、生産品を一般市場に賣捌くか、卸賣を經營して、取扱商品を一般小賣業者や他の消費組合に販賣するが如き揚合には、既に企業の性質を帶びて來るので、之は單なる消費組合を以て目すべきではない。

公設市揚は、行政機關の機能が分化し、營利を目的とせずして、小賣商人の機能を營むもので、こゝに謂ふ處の狹義の消費組合と一致する。此の方は卸賣業者となり、生産業者となるが如き發達は、全然考へ得られぬ。

狹義の消費組合と、公設市場との目的は、必然消費者の負擔に轉嫁さるべき、小賣業者の獲得する利潤と小賣販賣に伴ふ徒費とを除かうとするにある。

全體現在の商人が行つてゐる取引なるものは、商品の所在の移動と所有の移動との、二要素から成り立つて居る。農村で生産された米が消費者たる都會人の手に達するまでには、一定の距離を運搬して來なければならぬ。之は所在の移動である。一方米はその間に仲買、卸商、小賣商と點々賣買されて行く。之は所有の移動である。その中で所在の移動には、明かに勞働が加へられるから、自然その價値が高まり、隨つて其價格も亦高まるのは當然であるが、商人は原則上、購買價格よりも販賣價格を高くするから、所有の移動に依つても亦價格が高まる事となる。商品が商人の手を經由する毎に生ずる價格増加の中で、所在の移轉に依る部分は、共移轉の行はるゝ限り、何人が行ふとも避け得られないものであるが、所有の移動に依る部分は、利潤を目的とする商人の手を經由する度數が減ずれば、それに應じて減少すべき筈である。而して公設市場と狹義の消費組合とは、小賣商人を經由するに伴ふ一段分だけの此の増加を除かうとするものである。

又小賣販賣には徒費が伴ふ。それは、(一)商品の企業的仕入れに依つて生ずる過剩品の損耗、(二)小賣業者間相互に行はるゝ競爭に伴ふ廣告費、店頭装飾費等、(三)運搬が分散して行はるる爲めに生ずる消費勞働量の増加等である。是等の徙費も亦、消費組合と公設市場とに依つて、絶滅又は輕減され、消費者の負擔がそれだけ輕くされる事となる。

狹義の消費組合と公設市場とに依つて、現在經濟生活の上に齎らさるゝ效果の内容は前述の如く説かれて居るが、さてその價値は果して如何なる程度のものであらうか。

我々は、社會問題解決の資材と目さるべき一切の社會事業は、すべて二個の觀念より評價すベきものと考へる。一は、それが現在社會に於ける、經濟生活の上に齎らし得べき國民の幸福と量を推定する事で、他は現社會を根柢より運動の上に投じ得べき其の力を推定する事がある。換言すれば、その改良性能力と革命性能力とに就ての評價である。但し公設市場に對しては革命性能力を望むことは出來ぬので、それはたゞ消費組合に就てのみ考ふるの外はないのである。

思ふに現在の大多數國民の經濟生活上に投ぜられつゝある間斷なき不安と缺乏とは、生産と消費との兩面から來る。生産の側に於ては、彼等は生産機開を所有せざる無産民なるが故に、賃銀勞働者としてその收入の上に不安と缺乏とを舐めなければならぬ。更に消費の側に於ては、その生活必要品の供給を、生産資本家以下幾階段の流通當業者に依つて自由に左右され伸縮される。商人の利潤が如何にして生まるゝかの、經濟學的考察はともあれ、一般國民はそれ等の幾階段が利得に飽く爲めの犠牲となる事に依つてのみ始めて生活必要品を手に入れる事が出來るのである。かゝる經濟制度の下に、小賣商人の占取するは僅少なる一片に過ぎない。隨つて一般國民の強ひられつゝある不安と缺乏との全量中、小賣商より生ずる部分は至つては些々たるものに過ぎぬ。消費組合と公設市場とは、此の些々たる不安と缺乏とを除去せんとするものなるを思はゞ、其の效果は甚だ狹き範圍に局限されたるものなる事は、明かに斷定し得る所である。

二 資本集中の趨勢と消費組合

次に、その革命能力に就て一考しなければならぬ。革命能力とは、現社會の經濟組織を根柢より改造し、新しき經濟組織を迎へんとする運動上の能力を云ふ。

此に就ては、二樣の考へ方に依るを要する。一は、消費紅合が漸次發達して所謂廣義のものとなり、高級流通機關即ち問屋の域を侵し、更らに自ら生産を營むに及んで全經濟生活を自ら自己の體内に吸收すると考へることである。此場合一切の國民が何づれかの消費組合に包容され各組織が全産業を吸収する日を豫想し得るとすれば、それは即ち現經濟制度が改造せられた日である。そこで消費組合はかゝる發達を遂げ得るや否やてふ問題が起る。次に消費組合が一個の運動主體として自己の發達以外に、何等かの革命性社會運動を推進するを得るや否や、之が其革命性を考察する第二途である。

先づ第一の場合に就て考へて見るに、かゝる將來社會觀が明かに架空の想像なる事は、既に百年前ロバート・オーエンに依つて實證された所である。而も、オーエン以後現時に至つて益々助長されつゝある經濟界の趨勢は、更に明かに其眞實を證明して居る。資本の集積と、企業の集中とは、資本家と無産階級との間に益々大なる溝渠を造りつゝある。小資本家は中資本家に、中資本家は又大資本家に壓迫され、併呑され、驅逐され、斯くて企業界は、巨大なる資本家の横行獨占に委せられつゝある。

かゝる産業界に向つて、無産民の消費階級が進んで企業を試みんとするが如きは全然社會の變遷過程に逆行せんとするものである。たゞ、小賣業の如きは巨大の資本を要せぬが故に、此方面に於ては消費組合に依る經營も可能であつたに過ぎぬ。企業の擴大は利潤の集積に依つてのみに行はれる。貧弱なる資金に出發し、而も利潤の蓄積を目的とする能はざる消費組合に於て、其れが不可能なるは言ふまでもない。

三 歐洲に於ける事實

消費組合の最も發達せる英國を始め、歐洲各國に於けるその現状を見るも、吾々の此提言は裏書されて居る。

一八四八年、ロツヂールバイオニーアの創始せし以來英國の消費組合は漸次發達し、一九〇五年には、組合數一四五七、組合員數二一五三、〇〇〇餘に達し、一九一一年には、組合數一五五七、組合員數二、六六一、〇〇〇餘に達した。一九〇〇年前後より、組合は合併の傾向を示し、漸次包容人員を増加しつゝある。數量に於ては甚だしき發達であるが、卸賣を營み、生産にまで手を延ばす機能上の進歩は容易に見る事が出來ぬ。たゞ一八六〇年、マンチエスターに生れた、英蘭卸賣組合、一八六九年グラスゴウに設立された蘇格蘭卸賣組合の二つが、稍世に顯はれて居るに止まる。之等は何づれも卸賣を一歩超えて自から生産の域に入つては居るが、その生産物は比較的大資本を要せざるものゝみである。即ち一八七三年靴工場を設けて以來、漸次擴大して菓子類、石鹸、蝋燭、漬物、煙草、羅紗、革具の生産、印刷工場、茶畑等の經營に手を延ばした。その一九一〇年に於ける各種の方面に使用せし生産資本は二六七萬磅に達して居る。現在の歐米を通じて、最も卓越せるものにして、而も設立後五十年を經たるに、運用資本僅かに此の額に過ぎざるが如きは、消費組合の機能上の發達の如何に困難なるかを語れるものである。而も、すべての資本はより大なる資本の爲めに壓迫される故に、今や此の種の經營は、漸くその困難を増大しつゝある。前途の運命、自から明かである。

獨逸の消費組合は、十九世紀の中葉に萌芽し一八九〇年代より著しく發達したが、一八九〇年種々なる困難と鬪ひつゝ辛うじて石鹸の生産に著手せし以外、すべて小賣的のものゝみである。一九〇三年勞働者の組織せる消費組合が團結し、中央聯合會なるもの生れたが、是は單に小賣組合の聯合たるに過ぎぬ。

その他の歐洲各國に於ても、小賣的消費組合は何れも相當の發達を遂げて居るに拘らず、卸組合は獨逸に伯仲する程度に達したるもの少なく、英國には遙かに及ばない。

要するに一歐洲に於ける消費組合は、それが機能上の發達を遂げ、資本制生産に迫つて革命的威力を示すに至る事の、到底絶望的なるを語つて居る。

四 社會運動の主體としての消費組合

更に眼を轉じて、消費組合の革命性能力を他の一面より、即ち消費組合が革命性社會運動の主體たり得るや否やに就て觀察する。此に就ては、主として心理的立揚から、人が革命性社會運動を望む心理と消費組合を組織する心理とを、彼此比較する必要がある。此の二つの心理が全く相背馳せるものなることは、殆ど自明である。相背馳せるものは相反撥する。消費組合の心理は、革命性社會運動を助長するどころか、却つてそれを阻碍するの心理である。即ち消費組合は、その本質上反革命的のものである。更に消費組合が豫期の結果を納め、それに依つて生活上の不安と缺乏とが幾分綾和さるゝ時、反革命心理は益々助長されるに違ひない。

我々は此の點に於て、一切の勞働組合に對しても疑念を抱くものである。革命主義を標傍するサンヂカリズムの如きでさへ、其實際の效果に於ては、兎もすれば單なる勞働條件の改善を殆ど一歩も出でざる有樣であるが、其他すべての勞働組合運動も、眼前の行動目的が勞働條件の改善である限り、運動の成功は自己の地歩に幾分の進歩を齎す事となり、それに伴ふ滿足と安逸との爲、知らず知らず鬪爭の氣勢を鈍くし、遂には眠前の些末の利便にのみ糊着する革命性のものとなつて了ふ。況んや最初より小賣商人の射利から免かるゝ事に依つて僅かなる幸福の増進を計らんとする消費組合に、勞働組合以上の戰鬪性を望むは明かに背理である。

たゞ消費組合に依つて假令微細なりとも、生活上の安定か進めらるゝを得ば經濟的にも心理的にも無産階級の地歩を鞏固にし、隨つて革命性運動をも、一層有力ならしむるの基礎が簗かるゝとの觀察も成り立たぬ譯ではないが、それは消費組合の改良能力の上に數ふ可きものであらう。間接に生じ來たるべきすべての影響は問題外である。

要するに、革命性社會運動に對する消費組合の關係は、寧ろ妨害物でこそあれ、吾々は之に何等の期待を抱き得ないのである。

斯くの如く消費組合の價値は、現社會に對する革命能力に於ては絶無であつて、改良能力に於ては現經濟制度が民衆の生活上に齎らす巨大なる禍害の極小部分を、除去し得るに過ぎぬ。されど、如何なるものも無きには優る。現存經濟制度の根柢が動搖せず、多數國民が不安と缺乏との絶えざる脅威を受くる事が避く可からざる運命と觀取さるゝ間は、消費組合も亦慈善、温情主羲、新マルサス主義、勞働組合、潔癖派社會主義、觀念派自由論の類と共に先づ在つても宜しいものであらう。

五 現日本に於ける實情

右は、消費組合と公設市場との普遍的本質に對する評價であるが、現在日本に行はれつゝあるものゝ如きは此の評價にすら、値せざるものである。

日本の消費組合は、夙に明治二十五年の交より、品川彌次郎、平田東助の兩人が歐洲より輸入せしに始まり、三十三年には産業組合法が發布された。爾來、他の産業組合と共に、政府の官吏が努めて地方人にその設立を獎めて今日に及んで居るが、その効果未だ見るべきものがない。一方大工場、官廳等、多數の勞働者の集合せる所に、所謂温情主義の一反としてその經營者、管轄者が強ひて設立した所の消費組合かある。而もそれ等は多く當事者が結托せる商人をして營ましむるもので、會員と名附けられたる勞務者は、不滿と不平とを僅かに威壓に依つて抑制しつゝあるが如き奇怪なるものが多い。一般國民の間に、大正六年秋以來の物價暴騰に應じて、諸所にその勃興を見た。而もその多くは主唱者が商人であるか、商人と結べる射利者であつて、巧妙なる營利策として消費組合の名を用ゐて居ると見做さねばならぬものが多い。眞の自動的に生れ出でたものは未だ殆んど見るを得ない。要するに日本では、未だ消費組合の本質的償値すら實現されて居らぬのである。

公設市場も亦同巧異曲である。東京其他大都市に、その設けられたるもの甚だ多いが、何づれも實は官廳の依頼に依つて幾種かの小賣商人を集合せしめ、それ等に幾分の薄き利率を以つて營業せしむるに過ぎない。現に東京市大阪市等にて執りつゝある公設市場の事務は、大體左の如きものである。

一、販賣品目及販賣店、并びに販賣店の取引き生産者、卸商をなるべく指定する。

二、販賣價格に、市場主任、勸業課員或に農會評議員等と市内主なる商人とに於て、毎月二回或は毎週一回調査評定する。

三、販賞にすべて現金とする。

四、市場に、事務員使丁を置き、商工課又は勸業課にて事務を取扱ふ。

此の種の所謂公設市揚は、眞の公設市場と云ふべき、小賣商を經由する爲めに生ずる價格膨張の一切を除き得るものに比べて、遙かに價値の低きもので、現に市當局すら、一般市價に比して米は約五分、その他の商品は一割五分乃至二割五分の低廉に過ぎぬと言つて居る。又その賣上成績は、大正八年中に於ける東京全市二十個所の平均合額、一日二萬二千圓に過ぎない。不均低廉率を假りにその二割とすれば四千四百圓、是ぞ東京全市民が所謂公設市場に依つて與へらるゝ生活費節減額の總計である。之を一株式會社例へば鐘淵紡績會社の、大正七年分に於ける純益二千三百萬圓、一日平均六十九萬四千五百圓に達せるに比べんか、寧ろ滑稽の感を起さしめる。若しかゝる冗談半分の施設に依つて、階級對立の一掃さるベき時が、一日でも延ばさるゝとすれば、無産國民に取つては、葉書一枚で借金を倒されるやうな話である。されど若し、政府や資本家が、消費組合公設市場の類を奬勵する心底が、この葉書一枚にあるとすれば、其『價値』は恐らく無限に絶大なるものであらう。


底本:『解放』第二卷第十一號(大正九年十一月)

改訂履歴:

公開:不詳
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system