反動派

高畠素之


◆自分に反對する者は、何でもかんでも『ブルヂオア』の一語でケチをつけやうとするのが、主義者の奧の手であつた。然し此手で行くとブルヂオアと言はれる方の人が、ヨリ多くプロレタリアであつたりする場合があつて、一體誰れがプロレタリアでないんだなんかと冷かされるのが辛らいと見えて、近來ブルヂオア呼ばりは大分減つたやうであるが、其代り今度は『反動派』といふ新術語が流行し出した。

◆ブルヂオアといふ言葉その者に意義があると同樣に反動派といふ言葉にも意義がないとは言はぬ。現社會制度が絶對的永久的のものでない限り、次いで來たるべき新社會の樹立を信ずることは、もとより空想ではない。而して此新社會が社會主義の制度を實質とすべきことは我々の體驗と學問との指示するところに依つて明かである。そこで此社會主義制度の實現に、努めて逆行せんとするやうな傾向を一括して、反動的といふならば、我々は固よりそれに反對するものではない。

◆けれども茲に問題となることは、社會主義實現の傾向を助長せんが爲に、現在に於ては明かに如上の意味で表面反動派と目せらるゝ力と提携し又は利用せんとした場合である。日本の主義者は斯かる場合をも反動的と目してゐるやうである。現に我々の國家社會主義も反動派の中に加へられてゐるやうだ。これについて、チヨツト冷かして見たくなることがあると云ふのは、若し斯る場合をも強いて反動的と云ふとすれば主義者のお臺目たるボリシエヱズの傾向もマンザラ革命的ばかりではないといふ事である。主義者の哲學に依れば、國家權力は滅亡すべきものである。隨つて主義者から見れば、國家權力の滅亡に向つて直行する傾向のみが革命的であつて、國家權力と提携又は利用せんとする傾向は反動的と云はねばならぬ。然るにボリシエヰズとは、一面に於て國家權力を否定しながら、他の一面に於て之れを利用せんとしてゐる。此意味に於て、我々の傾向を若し反動的といふならば、謂ゆる政治運動に狂奔する主義者の傾向も同樣に反動的だらうぢやないか。

◆そこへ行くと、無政府主義の方が遙かに徹底してゐる。無政府主義者は理論に於ても運動に於ても、國家權力を否定するものである。我々は斯樣な傾向を空想的と見て一笑に對するものであるが、然し我々の傾向をも反動的と云ふ者に對しては、此無政府主義者の主張のみが――少なくとも態度に於ては純正革命的であると教へてやるの外はない。

◆この場合、提携又は利用は否定の爲だといふ言分は通らない。『反動派』たる我々だつて、内容實質の點に於て我々の主義を是認しない限りは如何なるものとも事を共にしないつもりなのだ。(素)


底本:第二次『局外』創刊號(大正十二年五月)

注記:

句読点は適宜附加した。

改訂履歴:

公開:2007/08/19
最終更新日:2010/09/12

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