新著批評

高畠素之

□『價値論と社會主義』小泉信三著

内容から言ふと、寧ろ『リカルド及ロドベルトス研究に立脚せるマルクス價値説の批判』とでも題すべきであらう。第一篇‐緒論、第二篇‐ロドベルトス研究、第三篇‐マルクス研究、第四篇‐雜録といふ仕組である。

從來、日本學界のマルクス批評は大抵みな、マルクスを讀まざる人が西洋人の手になつたマルクス批評をお手輕に換骨奪體した者に外ならなかつた。これに對してマルクス派側から提出された辯護論も亦、多くはマルクスを讀まざる(若しくは讀んでも消化し得ざる)人々が西洋人(殊にメリケン)の書いたマルクス辯護論をお手輕に受賣りする程度を突破するに至らなかつた。

所で從來における兩陣の戰鬪振りを第三者として評價するならば、大體に於てマルクス主義者の方が武者ぶり鮮かに勝味が多かつた樣に思はれる。マルクス主義者たちも内心さう信じてゐたに違ひない。それは當然の自身であらうが、たゞ彼等は勝つて兜の緒を緊めることを忘れた。マルクス論戰はいつも此手でカタがつくものと高をくくつてゐたらしい。だからマルクス主義者の論法には爾來進歩の跡が殆んど認められないのである。反對に批評家の方はドンドン新陳代謝して行つて、古いものは蹂躙され、新らしいものは辯護論者以上にマルクスを精探し、マルクス主義者の祕藏論法などはピンからキリまで百も承知二百も合點といふ状態に達して來た。小泉信三氏の如きは正に此新進マルクス批評家中の撰英と目すべきものであらう。

試に本書に納められてゐる小泉氏對山川氏の價値論戰を一瞥するに、結論に於ては山川氏の言分に幾多の眞理が含まれてゐる場合にも、論戰としては山川氏の負けになつてゐるやうな點が少なからず認められる。山川氏がマルクスの主張として提唱し、リカルドの所論として駁撃してゐる所のものを、却つてマルクス自身の言葉、リカルド自身の叙述を以つて打破せしめられてゐるなどは無殘の極である。

要するに、山川氏の失敗は舊式のマルクス批評家に對すると同じ準備、同じ態度を以つて、新進の小泉氏と接戰した點にある。かつて北昤吉氏(實は他の人)と檢討した時のやうな準備を以つてしては、小泉氏に齒が立つものでない。山川氏が學問上の討究は自分の柄でなく、自分の眞目的は宣傳にあるといつた意味の告白を以つて休戰の辭に代へてゐるのは滑稽である。こんな事を言ふ位ゐなら、寧ろ『今度は思ふ樣に鬪へなかつたが、いづれ又準備を仕直して戰陣にまみえよう』とでも出た方が餘ツ程勇ましい。實際のところ、學究的方面に於て現在のマルクス論者に最も必要とせられる所のものは此『準備の仕直し』である。ひとり日本のみと言はず、本場の獨逸に於てもマルクス論者の學問的貯蓄は最早批評家側に吸収し盡され、底の底まで見透され、行き詰りの極點に達してゐる有樣である。過去に於てマルクス批評家がマルクス主義文獻を探究した如く、今やマルクス主義者の方が却つてマルクス批評家の文獻を探究せねばならぬ皮肉の状態に置かれてゐる。小泉氏の此新著は眞面目なるマルクス主義學究者の刺激劑たり、參考書たる意味に於ても貴重なる文獻たるを失はない。

終りに、予はマルクスの價値論と價格論との間に立論上矛盾ありとする小泉氏の説には贊成できないが、マルクスの價値推究その者の中にかゝる矛盾を非難せらるべき弱點を藏すと見る點に於ては、小泉氏の見地に多大の價値を認めるものである。(素)

(芝愛宕下町一ノ一、改造社出版、定價三圓)


底本:第二次『局外』創刊號(大正十二年五月)

改訂履歴:

公開:2007/08/19
最終更新日:2010/09/12

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