=詩人=

高畠素之


百人一首や中山啓の詩を見てゐると、時々これはと思ふ名句に出くわす位だから、決して總べての詩や歌がさうだと不遜に早合點をする譯でもなく、そんな資格もない譯だが(惡源太!)近頃の詩には全く詐僞のやうなのが多いんぢやないだらうかといふ氣がする。米一升といふからには、一升桝に一杯つめて貰ひたい。空間の所々に米粒らしいものを竝べて、正味二合にも足りないやうなものを一升に見せかけ、その上横や倒さの活字を校正もせず放つたらかし、五號活字の眞中へ時々二號活字が轉ろげ込んだりしてゐても直すでもなく、それで書いてあることは無暗に狂ひじみてゐて、正氣の沙汰と思はれるのには滅多に出くわさない(滅多に詩を見る時間もないが)

何もかも量で定まるといふ譯ではないが、便宜上の天地と別行以外、べた一面文章として文字を詰めるには、文字を詰める努力以外に、少なくとも、呂律を廻らせないと人に笑はれるといふ氣兼ね苦勞が要る。近頃の詩人の書いたものは、文字を抜いた上に呂律まで抜きにして、折角の白紙の中程へ斑點を羅列して汚したやうなものぢやないか。そんなことなら、恥と外聞を構はない限り、それこそ三歳の童兒にだつてやつてやれないことはないだらう。

かつて葉書一本ろくろく書けない詩人がある由を、小栗慶太郎君から聽かされた。文筆は弄びたいが、呂律が廻らないといふやうな、一人前の文筆屋になれない人間が、得て詩人部落へ落ち込むのではないか。葉書が書ける位ゐの人間なら詩人にはならないよ、と誰れやらが言つた。

昔の人は詩を作るよりも田を作れといつたが、斯うなると田を作るよりも、せめて葉書一本世間竝みに書くやうにして呉れ、といひたくなる。(高畠)


底本:底本:第三次『局外』二月號(大正十五年)

注記:

巻頭言

改訂履歴:

公開:2007/08/19
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system