放言

高畠素之

伊太利に於けるフアスシスチ黨の崛起ほど痛快な皮肉はない〔。〕第一に共産黨やサンヂカリストの暴力が手もなく適用されたことだ。直接行動や獨裁主義は俺の專賣でございとばかり浮かれてゐる日本の主義者どもも、いまにその手を喰はされることがないとも限らない。

第二に、國粹主義者といはれるフアスチスチが社會黨や共産黨の國家主義、國有主義を攻撃してゐることだ。彼等は『國民は國家よりも貴重なり』との標榜の下に、片ッぱぢから産業の民營還元を強行して居る。産業集中に反對の無政府主義も、斯う出られては商賣になるまい。

要するに人生は複雜である。新しいものは古いものを利用し〔、〕古いものは新しいものを利用する。新しいと稱するものが必ずしも新しいものばかりではなく〔、〕古いものにも存外新しい所がある。ボリシエ井ズムとフアスシズムと、何方が新しくて、何方が古いかは、必ずしも簡單な問題ではない。

一千八百何十年の頃露西亞に『人民の中へ』といふ運動が流行したさうだ。高等の教育を受けた有惰階級の元氣の好い青年が、自分ばかりで知識の寶を獨占するのは天道樣に申譯がないとあつて、盛んに『無知』なる民衆の中に侵入して知識の施療をした。それが後年に於ける革命の種蒔になつたとかで、露西亞革命史上に特筆大書されてゐる。

露西亞人といふものは隨分罪のない人種だ。これが日本人であつて見ろ。例へば新人會や種蒔社等々のビロード書生が『人民』の中に出沒して彼等の『無知』を啓發すると假定せよ。よしそれが施療であるにした所で、第一目に一丁字なきプロレタリアが承知しない。『何に、ベラ棒め』と來る。『親のスネを噛りやがつて』と來る。『大學が何だ』と來る。『てめえらの樣な青二才に物が分つてたまるかい』と來る。『人に物を教へる柄でもあるめえ』と來る。『うぬらのやうなゴクつぶしは、四ツ角でヴアイオリンでも彈いて居れ』と來る。『日ツ本人なら日ツ本人らしくしろ』と反對に教へてかゝる。

日本人は利口だ。露西亞人は片山潛君の文章を見て『日本人は頭が好い』と賞めたさうだが、此賞讚を聞いて『流石に露西亞人は頭が惡い』と思はない日本人が幾人あるか。

近藤榮藏一派のボリシエ井キが今頃になつて大杉榮のブローカーを攻撃して居るのは、大杉榮が今頃になつて後藤新平から錢を貰つたことを白状してゐるのと同樣に滑稽な沙汰である。大杉のブローカーは太陽が西に沒する以上に自明の事實であつた。それを僕等が嘗ていく度びか面白半分に曝露してやらうとした時いつも口をつぐんで暗に彼れを庇護するやうな態度を採つたのは、主として今日の近藤榮藏一派(即ち前衞社、流彈社)の後押しをしてゐる長老たちであつた。

それも善い。たゞ罪のない下廻を矢面に立たせて、自分だけ良い兒にならうなどといふケチな量見はやめることだ。


底本:第一次『局外』第三號(大正十一年十二月)

注記:

文字を増補した場合は〔 〕内に入れた。

改訂履歴:

公開:2007/02/11
最終更新日:2010/09/12

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