大杉氏と自由戀愛と社會主義者

高畠素之


◎大杉氏の事件は、要するに一個の痴情沙汰である。色情のために理性を暗まされた人間の行動である。それが偶々新らしい男女の間に持上つたので、馬鹿に世間を騷がしたが、こんなことは世間にザラほどある。熊公たると八公たると、帝國主義者たると社會主義者たると、將又た一夫一婦論者たると自由戀愛論者たるとに論なく、苟くも生殖器を具備せる人間男女として通有の問題である。それを殊更ら、社會主義や自由戀愛の理窟に結びつけやうとする論者の氣が知れぬ。

◎尤も大杉氏自身では、今回の事件に關聯せる氏の一切の性的行動が、氏の平素の持論たる自由戀愛主義の實行であるかのやうに云ひ囃してるさうである。當人がさう云ふ以上は、成る程それに違ひあるまいが、當人の云ふことは滅多に當てにならぬ。私には何うも氏の言説が、後から無理にクツ付けた理窟のやうに思へてならぬ。最初ダラシなく幾人もの女に關係して了ひ、それが大びらに曝露されて見れば、平素言論を以て立つ大杉氏の事であるから何とか一應自分の主張に適合した説明を與へねばならぬ。そこで氏は自由戀愛論を持ち出したのだらう。

◎然し氏が何處迄も其性的逸樂を自由戀愛の理屈でジアスチフアイしやうと云ふ心底なら私にも聊か言分がある。

◎元來大杉氏は社會主義者である。社會主義者として自由戀愛論者である。自由戀愛論者だから、自由戀愛を實行する。洵に事理明白のやうであるが、實は之ほど曖昧不徹底な理窟はない。何ぜならば、大杉氏は社會主義者である。社會主義者として、平等論者である。平等論者として、大杉氏は果して平等論を實行して居るか。

◎成るほど政府や富豪に對しては、それを實行して居るかも知れぬ。若しくは實行することに愉快を感じて居るかも知れぬ。然しながら今の世の中に於いて、少なくとも大杉氏周圍の同主義者間に於いて、境遇上大杉氏より下の位置にある人々に對して氏は未だ曾て一向にそれを實行した(若しくは實行しやうとした)樣子が見えない。大杉氏は何故、其精蟲の配布に果斷であつたと同じ程度の、果斷決行を其財物の分配に於いて示さなかつたか。

◎斯く云へば、大杉氏は恐らく、それは今の世の中に於いては不可能だからと答へるかも知れぬ。自由戀愛の實行は何故、今の世の中に於いて不可能でないのか。

◎蓋し社會主義者の自由戀愛は(其自由戀愛の意義及び是非の問題は本文に關係がない)、唯だ社會主義者の理想する世の中、即ち各人の(特に婦人及び子供の)生活を保證する社會の實現を假定してのみ是認される。所が今の世の中には、さう云ふ保證がない。さう云ふ保證のない世の中に於いて、さう云ふ保證を條件とする自由戀愛を實行し得る筈がない。それを強いて實行しやうとすれば、生活上必らず見じめな犠牲者を出すに定まつてゐる。そして斯樣な犠牲者の運命が、今の世の中に於いて生活上の弱者たる婦人側に多きことは云ふまでもない。大杉氏は自分の性慾の滿足さへ得れば、さう云ふ弱者の運命を犠牲に供しても構はぬと云ふ持論か。それでは無政主義者(1)が、大變な暴壓者になる。

◎私は大杉氏を斯樣な暴壓者にしたくないから、今回の事はホンの一時の出來心からだと正直に白状して貰ひたいのだ。同じ暴壓をやるにしても、それが一時の出來心からだと云ふ事に定まれば、幾分か罪が淺い。


底本:『新社會』第三卷第五號(大正五年十二月)

注記:

(1)無政主義者:ママ。

改訂履歴:

公開:2006/06/04
最終更新日:2010/09/12

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