「政治運動と經濟運動」關聯

高畠素之

「政治運動と經濟運動」

■從來、我々の仲間で政治運動と云へば、直ちに議會政策を意味するかの如く考へられてゐた。然しながら議會政策は政治運動の一部であるが、決して其全部ではない。其方法の議會政策たると直接行動たると、曲線たると直線たるとを問はず、苟くも勞働者の政權獲得を、勞働者政府の確立を、新社會實現の有効手段と信じ、此目的に向つて行動する運動は悉くみな政治運動である。

■此意味に於いて、政治運動はシヤイデマンからレーニンまでを含む。それは恰も經濟運動が、ゴムパースからヘイウツドまでを含むのと同じである。

■妥協や讓歩は經濟運動にもある。それは毫も、非妥協や非讓歩が政治運動にあるの度合を降らない。勞働運動が墮落するとかしないとか云ふ問題は、政治運動、經濟運動の問題とは沒交渉である。他國のことは知らず、少なくとも英獨社會主義者の政治運動が、從來しばしば其端的行動を妨げられたのは、彼等が事毎に勞働組合の卑屈と妥協と偏見とに制肘された結果とも見られる。

■要するに、經濟運動だから健全の、政治運動だから墮落のと云ふ道理はない。經濟運動でも政治運動でも、苟くも勞働階級の歴史的使命に忠實なる限り、我々は之を健全なる勞働運動として尊重したいのである。シヤイデマンを貶しI・W・Wを謳歌するの態度は、同時に又リープクネヒトを賞し、クラポートキンを卑下するの態度でなくてはならぬ。

※『新社會』第四卷第五號(大正七年)


「立場立場からの政治運動と經濟運動」

二月號、小生の單文『政治運動と經濟運動』に對し、荒畑山川兩君より懇篤なる批評を賜はつたことを感謝する。荒畑君の文章は前號に載つたが、相憎く暗から暗に葬むられた。本號に複載すれば善いのだが、少々憚る筋あり見合せることにした。筆者たる荒畑君に對し又讀者諸君に對して、甚だ相濟まぬ次第であるが、之も時世ゆえと諦めて頂きたい。荒畑君は冒頭から政治運動即ち議會政策、經濟運動即ち直接行動と云ふ立場から論を進められた。山川君は政治運動が何故議會政策でなければならぬか、經濟運動が何故直接行動でなければならぬかを詳細に説かれてゐる。此點に於いて山川君の方が、一層よく問題の急所を掴んでゐるやうに見受けられる。然し結論は兩君とも同じである。尚、我々は此所で各自の運動方法の立場を主張しやうと云ふのではない。只、西洋社會主義運動方法に對する各自の分類解釋上の立場立場を研究的に報告するものに過ぎぬ。各自の主義主張と云ふことは自ら別問題である。讀者諸君もそのつもりで讀んで頂きたい。(高畠生)

□山川均(省略)

□高畠素之

■山川君は歴史的見地から、政治運動と云へば即ち議會政策、經濟運動と云へば即ち直接行動と解して差支ないと論斷された。樸は遺憾ながら、此説に贊成できぬものである。

■議會政策が舊式の職工組合運動、及びそれ以前の政治的革命運動に對する修正案として提出されたと云ふ山川君の説に異存はない。そして又、此議會政策が實際算盤通りに行かなかつたと云ふので、今度はまた其修正案としてサンヂカリスムが提出された。之も單にそれだけならば異存がない。只、此二つの前提から政治運動は即ち議會政策、直接行動は即ち經濟運動と論斷された點が面白くないのである。

■なぜならば、山川君の所謂算盤通りに行かなかつた議會政策の修正案として提出されたものは、單にサンヂカリズムばかりではない。サンヂカリズムも無論其一つであらう。然しサンヂカリズム以外にも、尚それと同程度に有力なる修正案が提出されたことを忘れてはならぬ。即ち獨逸のリープクネヒト、メーリング、ローザ・ルクセンブルク、和蘭のヘルマン・ゴルテル、パンネコツク、墺太利のラデーク、フランツ・アドレル、露國のレーニン、トロツキー等に依つて代表せらるゝ左翼社會民主黨、マツセンアクチヨニスト、或は近頃八釜しいボリシエヰキイと稱する一派がそれである。

■之等の人々は、議會政策にも勞働組合運動にも反對しない。然し議會政策も、組合運動も、總て革命的に自覺したる勞働者の直接行動の現はれであり、又それと一致したものでなければならぬと説く。彼等は此直接行動に依つて政權の全部を掌握し、それに依つて社會主義の理想を實行しやうとするのである。

■故に之等の一派は直接行動論者であつて、必らずしも議會運動に反對せず、政治運動論者であつて同時に又組合運動に反對しない。組合運動も議會運動も、革命的に自覺したる勞働者の政權獲得運動を基礎とする限りは之を是認するが、然らざる場合は之に反對する。

■彼等はサンヂカリストと同じく革命主義者であるが、必らずしも議會政策に反對せず、政治運動を重要視する。彼等はサンヂカリストでもなく又無政府主義者でもない。ヘルマン・ゴルテルの言つたやうに『我々(左翼社會黨)とサンヂカリスト及び無政府主義者との違ひは我々が議會運動を一個の有力なる革命的武器と信じ、又政治運動を勞働階級の總括的運動と見る點にある。但しそれは議會運動が革命的であり、そしてそれが總勞働者(マツセン)の行動(アクチーオン)と一致聯絡したる場合にのみ限るのである』。我々は社會主義運動史上、此一派の特殊の地位を無視することは出來ぬ。

■最近露國に於けるボリシエヰキイの活動は、其最も適例である。ボリシエヰキイはサンヂカリストではない。レーニンもトロツキイも、自らサンヂカリストとは云はない。社會民主主義者と稱してゐる。稱してゐるのみならず、彼等の實際の行動が、何事よりも先づ政權の確立を目的としてゐる。彼等の一派は革命前には議會にも這入つてゐた。

■彼等が如何に政權確立を重要視するかは、最近レーニンが『資本主義から社會主義に至る過渡期には、先づ勞働階級の獨裁政府が必要である』と云つた一語に依つても知られる。それは『政府』の意味に依りけりだと、云ふ人があるかも知れぬ。然しながら、露國過激派政府と歐米各國の紳士閥政府との間に、政府としての本質上左程に著しい差異があるやうにも思はれぬ。何づれも強權に立脚してゐる。何づれも階級政府である。只、其強權が紳士閥の手になくて、勞働階級の手にあると云ふ一點が根本の差異である。

■樸は斯くの如き歴史上の事實に基いて、政治運動必らずしも所謂議會政策にあらず、直接行動必らずしも經濟運動にあらずと説く。此樸の分類と比較とが『今日我々の對立させて考へてゐる勞働運動對經濟運動の問題とは沒交渉である』と云ふなら、それは其う對立させて考へてゐる『我々』が事實と沒交渉なのである。

■山川君は樸の『無差別』に對して『差別觀』を對立させた。それは結構なことである。が、何となく自分の都合の善い方面だけに、其差別を應用された傾きが見えるのは遺憾である。『勞働組合主義の經濟運動が、舊式組合の經濟運動と性質の異なるものである證據は、常に舊式組合主義と戰つて來た事實を見ても自明である』と云ふ。山川君は何故、此筆法を以て『左翼社會黨の政治運動が、舊式議會政策派の政治運動と性質の異なるものである證據は、常に舊式議會政策派と戰つて來た事實を見ても自明である』と云はぬのであるか。舊式政治運動が『唯だ唯だ投票を掻集め』て『墮落』したと云へるなら、舊式勞働組合は唯だ唯だ醵金を掻き集めて墮落したとも云へやう。勞働組合だからとて、必ずしも醵金を集めるばかりが能でないと云へるなら、それと同じ意味を以て、社會黨だからとて必ずしも投票を集めるばかりが能でないとも云へさうなものである。單に佛蘭西その他一二の國に現はれた事實のみを以て、總ての國を推さうとするのは、それこそ『泥棒の番に仙人掌を植え』る『無差別』觀である。

※『新社會』第四卷第八號


「問題の捏ね返し」

山川均(省略)

▲高畠曰。此問題も今度の山川君の説明で大抵カタが付いたと思ふ。何しろ陽氣は暑し、からだはダルしでお互の頭も段々コウ云ふ問題とは沒交渉になること故、これでサツパリ打止めとする。

『新社會』第四卷第九號


改訂履歴:

公開:2006/4/16
最終更新日:2010/09/12

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