社會主義の四派

高畠素之

社會主義には樣々の派別がある。或は硬派と云ひ軟派と云ひ、或は直接派と云ひ議會派と云ひ、或は可能派と云ひ不可能派と云ひ、數へ來れば實に限りが無いが、然し之等は皆要するに一時的の政策の差異に基く派別であつて、決して理想として社會主義組織その者の差異から直接に派生した種別ではない。勿論、理想の差は多くの場合、其理想に相應せる一定の政策を隨伴すべき筈であるから、理想上の派別と政策上の派別とを全然峻別することの出來ぬは云ふまでも無いが、然し社會主義の理論的考察としては、一切の政策的差異を度外視して、先づ一直線に社會主義の理想その者に基く所の根本的差別に立脚せねばならぬ。此意味で、私は一切の社會主義思想を四種に大別したいのである。即ち

△第一、民主的集産主義(若しくは集産的民主主義)

△第二、無政府的集産主義(若しくは集産的無政府主義)

△第三、民主的共産主義(若しくは共産的民主主義)

△第四、無政府的共産主義(若しくは共産的無政府主義)

社會主義は之を經濟的方面から分類すれば集産主義と共産主義との二種に分れ、之を政治的方面から解剖すれば民主主義と無政府主義との二種に大別される。然しながら、苟くも一定の社會組織を豫想する以上は、その社會組織の制度的屬性として、同時に其政治的制度と經濟的制度との兩方面を考慮すべきは云ふまでも無い。故に經濟的方面に於いて集散主義なり共産主義なりを取る人は、政治的方面に於いても亦同時に、民主主義なり無政府主義なりを取るべき筈である。

今日一般に行はれて居る定義からすれば、集産主義は生産機關の共有、消費機關の私有を主張し、共産主義は生産消費兩機關の共有を主張すると云ふのであるが、私は到底かくの如き淺薄不徹底なる定義には同意し得ない。

何故と云ふに、第一に生産機關と消費機關との兩概念を峻別することが困難である。

例へば、私は今、座布團に座して何氣なく庭を眺めて居る。此の場合、座布團は無論一個の消費機關と云へやう。然しながら、私は間もなく其同じ座布團に座し、ペンを取つて賣文の起稿に取りかゝるかも知れぬ。其時には座布團は最早消費機關ではない。立派な生産機關である。隨つて、總ての座布團を共有なり私有なりにせよと云ふなら聞えて居るが、單に生産機關なり消費機關なりを共有とせよ私有とせよと云ふのでは譯が分らない。

次に集産主義にしろ、共産主義にしろ、社會主義は必しも總ての生産機關を共産たらしめよとは主張しない。

ベラミーの『回顧』を見ても、カウツキーの『農業問題』を見ても、クロポトキンの『パンの略取』を見ても、將來の理想社會に於いては、各人皆な自由に自己の家庭生活を樂むことが出來る。既に家庭生活が自由である以上は、その家庭生活の存在の物質的基礎であるべき家庭經濟も亦隨つて自由でなければならぬ。隨つて、この家庭經濟の生産機關、即ち煮焚の爲の鍋、釜、竃、若しくは直接娯樂用に供せられざる筆墨、用紙、書籍等に對しては、當然に私有が許されてあるべき筈である。

又た集産的理想社會に於いても總ての消費機關が私有であるとは限らぬ。公園、音樂堂、畫館等は、今の社會に於いてすら、多くの場合既に自治體の公有に屬して居るではないか。社會主義の社會は斯種の公有を擴張すればとて、決して縮小するやうなことは無い筈である。又た住屋の如き消費機關にあつては、集産制度の下に於いては其所有權は當然に社會の手に移るであらうが、その利用權は無報酬にて各人の自由に委せられるのである。

かくて集産社會に於ける消費機關は、大體次の三種に分れることになる。一、所有權は共有なれども、無報酬にて各自が勝手に利用することの出來る消費機關。二、公有に屬し、一定の支拂の下に利用される消費機關。三、所有權も利用權も共に私有なる消費機關。

かく考へて見ると、集散主義、共産主義の兩概念に對し今日一般に行はれて居る所の解釋が、如何に曖昧にして不徹底であるかゞ分るであらう。私は此の兩概念に對しては、他に今少し明確なる徹底的解釋を與へ得る道があると信ずる。

私は多くの社會主義的制度の中から、二個の主張を搜出した。第一は何等かの方法に依つて、各個人の収入を調節する所の制度である。即ち、各人が自己の消費のために使用する所の價値總量をば社會の力に依つて正確に量定する所の制度である。第二は、各個人の収入は絶對に調節せず、一定の價値量としての収入なる概念すらも全然除外して、只だ直接に消費のみを調節し、若しくは消費すらも全然調節せざる經濟制度である。

この第一の經濟制度に於いては、假令現存の儘の形式では無いにしても、兎にかく何等かの形式を有する貨幣の助を借らずしては生産物の分配を行ふことが出來ぬ。各人は只だ自己の所有に屬する價値限度に於いてのみ消費を全うすることが出來るので、消費を行はうと思へば、各人は必ず之に對して自己の収入の一部を支拂はなければならぬ。隨つて、斯くの如き經濟制度の下に於いては、消費は總て一定の價格を有することを必要とし、價格は又た總て一定の價値單位に於いて量定されることを必要とするのである。

之に反し、第二の經濟制度は、前にも云ふ如く、収入に關係なく直接消費を調節し、若しくは消費ですらも調節しないのであるから、分配機關としての貨幣の仲介を要せぬは云ふまでもない。即ち前者は貨幣經濟であつて、後者は自然經濟である。

私は此の根本的區別をば直ちに集産主義と共産主義との區別に適用したいのである。即ち一定の價値量としての個人的収入を認める所の經濟制度は集産主義に屬し、之を認めない所の經濟制度は共産主義に屬するので、前に私が淺薄不徹底として排斥した分類法も、實は朧げながら此の根本的區別の上に立脚して居る。何故と云ふに、個人的収入なる概念は、論理上當然に此収入に對する自由處分の權を豫想して居るので、此の權は又當然に収入を通じて贏得せらるべき消費物品に對する自由處分の權を豫想して居るからである。

之と反對に、個人的収入なる概念の缺如せる制度に於いては、消費物品に對する個人的處分權なる概念も亦當然に缺如すべき筈である。隨つて、斯種の制度に於いては、經濟的物品に對する一切の私有が廢除されることになる。

故に同じく平等と云つても共産制度の平等は消費に關し、集産制の平等は収入に係はる。けれども同じ共産制の平等の中にも、消費その者の平等を期するものと、消費の平等なる自由を期するものとの二つがある。前者は分配の客觀的平等となつて現はれ、後者は分配の主觀的平等となつて現はれる。カベー、バブーフは前者に屬し、フーリエー、クロポトキンは後者に屬する。又た共産主義は各人の収入を問はないのであるから、各人が社會に提供する技能力量と、其の報酬として社會が各人に提供する消費物品との釣合如何の問題は共産制に於いては絶對に度外視されることになる。

共産主義が斯く二派に分れる如く、集産主義も亦自ら二派を成す。第一は、各人の収入を客觀的に絶對に平等たらしめるのが平等の臣の目的であると解する一派で、ペカー、ベラミー、プルードン及び大多數のマルクス派社會主義者は皆之に屬する。

此派は客觀的の平等を主張する點に於いて、カベーなどの客觀派共産主義と相通ずる所があるやうであるが、實は雲泥の差である。何故ならば、消費の客觀的平等と云ふ時には、年齡、男女、健康等の差異は別として、兎もかく各人が同一の品物を同一の數量に於いて分配されることになるのであるが、収入の客觀的平等を云ふ時には、貨幣單位に於いて量定された収入は各人平等であつても、其収入を如何に使用し、又た其収入を以て如何なる物品を購買すべきかは各自の勝手である。

集散主義の今一つの派は、各人の技能力量に應じて収入の高を量定すべきことを主張する。然し、各人の技能力量は如何なる場合にも絶對に平等であることを期し得ないのであるから、此派の集産社會に於いては、各人の収入は事實上平等でないことに歸する。ルイ・ブラン、サン・シモン、ロドベルツス等は此派の最も有名なる代表者である。

社會主義の經濟的方面は、之で概略説き盡した積りである。尚ほ社會主義の政治的方面として民主ゝ義と無政府主義とを叙述する筈であつたが、夫を詳しく書いて居ると際限が無いから、遺憾ながら茲で一先づ筆を擱くことにする。

只、ついでに一言して置き度いのは、從來無政府主義と云へば、總て共産的無政府主義及び個人的無政府主義の何れかに屬するものと思はれて居たやうであるが、無政府主義者の中には、プルードンの如く立派に集産主義(私の云ふ意味で)を主張してゐる者もある。

又た個人的無政府主義の如きは、無政府主義の一派として之を無政府主義の專門書に掲げるのは差支ないが、社會主義の分類的考察に於いては全然度外視して差支ない。何となれば個人的無政府主義は政治的方面に於いては無政府主義を主張するけれども、經濟的方面に於いては全然社會主義とは沒交渉であるからである。社會主義の存在には、政治的方面に於いて民主制若しくは無政府制を是認することが必要であると同時に、經濟的方面に於いて集産制若しくは共産制を是認することが必要である。社會主義の立場から見れば、個人的無政府主義は資本的民主ゝ義と全然同相場のものである。

又た無政府的ならざる社會主義を、總て民主的社會主義の下に一括せんとする私流の解釋にも、多少の無理はあらう。

現に、サン・シモンの如きは、著しく貴族主義、獨裁主義の傾向を加味してゐた。然しサン・シモンと雖も決して極端に人民の意思を無視し、人民の聲に耳を掩ふて、貴族主義を打立てやうとした譯ではない。彼は寧ろ人民に依つて自發的に又た合意的に選ばれた指導者を以て、其の所謂指導政治の中堅たらしめやうとしたのである。此意味に於いて、彼れも矢張り一種の民主ゝ義であつたと云ふて差支ない。縱し又た差支あるにした所で、例外は決して規則を無効ならしむるものではない。


底本:『新社會』第二卷第一號(大正四年九月)

注記:

底本の一部文字はドットを落として印字してあるが、内容に鑑み、このたびはすべて同一の大きさで表示することにした。

改訂履歴:

公開:2006/4/16
最終更新日:2010/09/12

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