警官論

高畠素之

あらゆる動物は自由を求めて活動する。自由とはいろいろな欲望が支障なく充たされることである。動物にとつては、食慾性慾を充たすことが唯一の本能的衝動をなし、その結果は自己及び子孫の生命の保存となる。人間にとつても、食慾性慾は第一の基本的欲望である。然し、人間の欲望は單にそれのみでなく、優越慾、名利慾といふが如く、各種各樣の派生的欲望を有し、而もこれらの派生的な欲望が、單なる食慾性慾に代り人間の行動を支配するやうになる。ダーウヰン流の生存競爭がそのまま人間の上に當嵌まらないのはこれがためで、人間は單に生きるためにのみ活動してゐるのでなく、各種の派生的欲望を充足するためにも活動してゐるのである。あらゆる文化現象はそこから生ずる。單に生きることだけが目的だつたら、今日の社會問題も生じなかつたであらう。

人間の欲望は多岐多樣なると共に、程度に於いても限りがない。何處まで行つてもこれで滿足といふ限點には達しないのである。だから、人間は絶えず不自由を感じてゐる。不自由を感じてゐるから、自由にあこがれる。自由といふ言葉ほど、チヤーミングな言葉はあるまい。自由は、過去未來に亘る人類の永遠の理想であらう。

あらゆるユトーピアは、自由の理想郷を描いてゐる。人性及び社會の分析反省により現實の條件を考慮することなく、頭の中で空想し得る最も完全な自由郷を描き出すといふのが、空想的社會主義の特色である。英國に於ける無政府主義思想の鼻祖ゴツトウヰンの如きは、單に生活の自由ばかりでなく、生命の自由をさへ空想した。即ち、人間は將來、不老不死の境涯にまで達するだらうといふのである。だが、斯ういふ樂天主義は、單に社會主義的思想のみの特色ではない。アダム・スミスは個人的自由を主張し、自由なる利己(自愛心)追求によつて、社會の最大幸福が得られると唱へた。然し、利己心と利己心との衝突がいろいろな不都合を釀すことは、實際上の經驗が教ふるところである。そこでスミスは、各人の自由なる利己追求が許された場合には、神樣がうまく調節統合して呉れるだらうと信じた。これは彼れの倫理學上の理想だが、ヨリ實際的な經濟學上の思想に於いては、スミスもそれほど樂天的たるを得ず、個人の利己追求は『他人の生命財産を侵かさぬ』範圍に制限せられねばならず、この制限は國家によつて實行さるべきであるとした。然し、國家の干渉はこの點に止まるべきであり、それ以外の目的から個人の活動に干渉するのは百害あつて一利なしとしたところに、ブルヂオア自由主義の代表者たるスミスの面目がある。そこでラツサレはいふ。ブルヂオアの國家は夜警だけの意味しか持たない、と。

一體、國家に關しては樣々の思想があるけれども、國家を善と觀る説と、國家を惡と見る説との二つに大別し得る。ラツサレなどの思想は國家を善と觀るもので、彼れに依れば、人類の歴史は窮乏、無智、貧困、無力等と戰つて、これを征服する行程である。斯かる行程は自由の發展を意味するものであるが、人間は個別的の力を以つてしてはこの目的を達成することが出來ない。個別的の力で達成し得ない目的を、集合的の力によつて達成せしめるものが、即ち國家である。そこでラツサレに依れば、國家の發展完成は、個人の發展完成を意味することになる。

だが、これは甚だしく倫理的理想主義的な國家觀である。現實の國家は決して自由を本質とするものでない。却つて、その反對に、強制權力を以つて個々人の自由を拘束し統制することが國家の第一義的性質をなしてゐる。この點は、國家を惡と見る無政府主義やマルクス主義の方が、ヨリ現實的であるといへやう。無政府主義は社會の一切の惡は強制即ち自由の拘束より生ずるとなし、強制權力の源は國家であるから、國家は萬惡の根元であると主張し、國家を破壞し去ることが、第一に必要だと主張する。マルクス主義に於いては、國家よりも勞働搾取といふことが先きに立ち、國家は勞働搾取の維持のために生じた強制組織であるとする。それ故、階級搾取が廢止されれば、國家の必要もなくなつて、國家は自然消滅に歸するといふ。で、終局に於いては、マルクス主義も無政府主義と同樣に、國家なき社會、自由に對する拘束のない社會を理想とするのである。

けれども、個人の自由に對する拘束乃至制限のない社會を理想するといふのは、これは極めて空想的ではなからうか。私も、國家の第一要素は強制秩序、即ち自由に對する拘束乃至制限にあると考へる。けれども私は斯かるが故にこそ、國家は必然に存在すべきものと信ずるのである。

人性に關する樂觀説と悲觀説、換言すれば性善觀と性惡觀とは、いづれを選ぶも本人の性向に從つて自由であるが、人生の現實を直視するとき、私は何うしても樂觀的たるを得ない。人間はどうヒイキ目に見ても手前勝手な代物である。他人の事よりも先づ自分の都合を考へる。他人はどうでも構はないとはいふまいが、とにかく自分の都合、自分の利益、自分の快樂、自分の人氣、自分の權勢が先きに立つ。勿論、他人の便宜を考へぬこともないが、これとて他人の便宜それ自身が目的ではなく、他人の便宜を計ることに伴ふいろいろな自己的關心の滿足が目的なのである。斯ういふと、世の中には身を殺して仁をなす聖賢君子もあるではないかと反對する人があらうが、然しこの樣な聖人とか君子とか殉教者とかいふ者は、尋常の範圍に屬しない『變異者』である。百本に一本毛ばかりの唐蜀黍ができたとて、それを以て唐蜀黍一般を律することはできぬ。

人は斯くの如く自己本位的である。他人の便宜よりも先づ自分の都合を考へる。この自己本位的傾向を惡といふならば、人の性は惡である。だから、社會は惡と惡との寄合ひ、エゴイズムとエゴイズムとの對立である。スミスはこの對立が神樣によつて調和されると考へたが、その神樣といふのは個人の魂に宿る立派な精神と解してよからう。教養は、他人に都合の惡いことがやがて自分にも都合の惡いことを反省させ、自律的に我儘勝手をつつしむやうにさせる。だが、この樣な自律的抑制だけで社會の一般的調和統合がとれるほど、人の性が善であるならば、社會には強制秩序といふものは現はれなかつた筈である。

人の性が惡なればこそ、強制秩序が必要となつて來る。強制秩序の目的は、惡と惡との調節を計るにある。人間の欲望は無限に發展し、利己追求の樣相は欲望の發展と共に變化する。早い話が、中世的の經濟では一家の生計を立てるといふことが主なる目的であつたが、現在では家計は家計、事業は事業と區別され、只だ金儲けのために金儲けすることが資本家の目的となつてゐる。そこで中世には見られなかつた新しい利己衝突が生じ、隨つて新たなる制度によりてこれを調節する必要を生じたのである。制度の完備とか改良とかいふことは、利己衝突の現状を調節するに最も適した制度を作ることを意味する。

制度などといふ窮窟なものが何等存在しなかつた極めて原始的な社會も想像し得る。人間が單なる血族群をなして、猿群と大差ない生活をしてゐた頃には、制度などはなかつたらうと思はれる。然し、社會が發達して來るに從ひ、いろいろな制度が現はれ、タブーの如き原始的なものから今日の法律に至るまで、また種々なる習慣的制裁から成文的の方法に至るまで、いろいろな發達段階を示してゐる。人間の社會的生活が複雜となり、諸種の欲望が發展すると共に、制度の完備が進んで來た。而して各方面の制度の運用を統一的に執行する機關として、社會的自然淘汰の結果茲に國家なるものが現はれて來た。制度は個人の行動に對する繩墨である。然し、人間は自分勝手なものであるから、都合次第では制度を無視する。無視されても口を出せないやうでは何等の効果もないから、強制權力を以つて制度の裏打ちをなし、制度の規定を侵す者がある場合には強權にものをいはせる。國家は各種の制度規律を強制的に執行する組織的機關なのである。

エゴイズムの權化たる人間が集合生活を營む以上、自己本位的欲望の衝突は避けられない。この衝突を調節するためには、何等かの強制秩序、即ち自由に對する拘束乃至制限が必要である。そこで、國家といふ形態の社會に限らず、如何なる社會にも統制機能は働らいてゐる。然し國家に於いては、この統制の機能が、他の社會的諸機能から總括的に分化獨立して、それを運用すべき強制權力及び支配器官が特殊の社會群によつて掌握される。この社會群を支配階級といふ。そこで、國家の第一要素は強制秩序であるが、その強制秩序が支配階級に依つて執行される點に、他の社會から區別される特徴があるといへる。

原始的な社會には統制機能が働らいてゐても、その權能の分化獨立がない。恰も下等な腔腸動物の消化機能が他の諸機能から分化獨立せずして、全身を以つて同時に消化機能にもその他の諸機能にも役立たせてゐるが如くである。然るに、高等生物となるに從ひ、それぞれの身體諸機能が分化獨立して、消化營養のためには胃腸といふ特殊の器官が具はるやうになる。社會の統制機能もこれと同樣であつて、社會の發達に伴ひそれが次第に分化され特殊化されて來る。この統制機能分化は、原始的の種族社會に於いても既に可なり進んでゐることを見出す。けれども、統制機能がそれ自身として總括的に分化獨立するといふところにはまだ達してゐない。

この機能分化の傾向は、一の種族社會が他の種族社會を征服して服從的の地位に置き、斯くして支配種族と被支配種族との階級的區分を確立するに至つたとき、明瞭な形を採つて現はれる。即ち、支配種族が專ら社會統制上の機能及び器官を掌握し、單なる社會統制が階級的支配となる。そこに、國家成立の直接の前提が横はるのである。

種族征服と同時に、又はその後に及んで、國家の内部に勞働搾取の關係が成立する。斯くして支配關係は搾取關係と結合し、經濟上の搾取者は同時にまた支配階級となり、國家を以つて搾取維持の機關にも役立たせるやうになる。

マルクス主義の國家觀は、この搾取關係と支配關係との結合を重く見、國家が搾取維持に利用される點を強調する餘り、國家の本質は勞働搾取を維持するための強制秩序たるところにあると主張するに至つた。けれども、この考へ方の誤りなる所以は、既述の説明によつて明かである。

勞働搾取の事實はなくなつても、國家の存在すべき理由は殘る。人間は經濟的慾望にのみ生きるものではない。人間の自己本位的行動を促すべき動機は多岐多端である。隨つて、勞働搾取から生ずる利害衝突は、搾取の廢止によつて無くなるとしても尚ほ幾多の自己本位的衝突は殘存し、社會は依然として強制秩序の必要から免れることが出來ない。殊に經濟上の優越競爭がなくなつた曉には、政治的支配の優越慾はますます熾烈となるに違ひなく、優越者の一群に依る支配機能及び支配器官の掌握は必然的に豫想される。

國家は個々人のエゴイズムを調節統合するために出來た強制秩序である。國家の成立を必要ならしめたものは人間のエゴイズムである。人間のエゴイズムは、人間そのものであるといつて差支ない。人間からエゴイズムを取り去れば、殘るところはほんの人間的形骸だけである。だから、國家ができて統制秩序が確立されてから後も、人間のエゴイズムは依然としてますます發動し、エゴイズムの追求を拘束制限するところの強制權力を邪魔物扱ひにする。事ごとに不自由を訴へて、自分勝手な熱を上げる。

一面ではまた、人間のエゴイズムには支配優越的の慾望が含まれてゐるから、強制權力の擔當者は、強制權力の保持そのことのうちに自己のエゴイズムを充たさんとし、ますます保守的となり威壓的となる。人民の邪魔物扱や不平に對抗して、不必要な威勢を張つて見たり、滑稽に近い頑固を通したり、時には無情冷酷な惡魔的快感をすら享樂するの弊に陷る。

強制權力の擔當者たる官憲も、一般民衆も、虚心坦懷に國民的社會生活上に於ける強制秩序の役目を理解し、互讓すれば事は簡單圓滿に進む筈だが、さう行かぬところが飽くまでエゴイズムの權化同志である。人間は自律的には己れを律することが出來ない。欲望が強ければ強いほど、多ければ多いほど、それはますます困難である。宗教は欲望の單純化を教へ、修道僧はいろいろな欲望を殺す工風に精進する。けれども、その道で一番嚴格な修行をする禅寺の坊主でも、本山の座主爭ひか何かで忽ち馬脚を露出する。欲望を殺すといふのが抑々人性に逆行する話なので、動物でも人間でも、欲望を充たすところに生活の意義がある。然し個々人が勝手な振舞をすれば、収まりがつかないから、そこで已むを得ず、制度の繩張りをして此處から外へ出るなと制札を掲げる。さういふ制度が善いとか惡いとかいつても仕方がないのである。

目先きの見え透く單純な事柄でも、自律的な抑制、即ち公徳心といふが如きものは、容易に行はれない。電車に乘るのに、乘る方より降りる方がさき、先を爭はないで順番にといふ規律を守れば、すらすらと早く行くことは分り切つてゐるのだが、そんな事ですら動もすると亂れ勝ちである。尤も、都會に住み慣れた者は、毎日毎日の經驗でその必要を痛感してゐるから、幾分電車道徳なども發達してゐるが、慣れない地方人などと來ては隨分厚釜しく規律破りをする。

我國の一般社會的な發達は加速度的の速さを以つて進んでゐる。殊に都會の發達は著るしい。人口の密集、家屋の櫛比、交通機關の發達、職業の多岐、これらの樣々な條件は、泥棒、火事、誘惑、疾病、衝突、墮落、轢殺、刃傷、賣淫等、公共の安寧秩序を傷けるべき無數の原因を釀成する。更らにヨリ廣汎な一般的な問題としては、勞働問題、婦人問題、思想問題等、新しい諸問題が外延的にも内包的にも發展して、底止するところを知らない。これらの新事情に應じて社會的秩序を保つ方法としては、各個人の自律や公共道徳に訴へても無効なことは分り切つてゐる。そこで、強制的秩序はますます必要となり、規則の網の目はますます細かくなる。直接民衆と接觸して、これらの強制規律を勵行する任に當る警察官の仕事はますます多くなり重要になる。

個人的自由を拘束する諸種の警察法規は、斯かる必要から生じたのだが、個人的利害を專ら視野に置く民衆にはその意味がよく徹底しない。何かの場合、例へば自分の家に泥棒でも這入つたとか、自分の子供が餅菓子に中毒したとかいふ樣な、直接自分の利害に關係した事が起つた場合には、大いに警察的取締りの必要を感ずるが、眞夜中フラフラ歩いて巡査に調べられたといつては警官が人民を泥棒扱ひにすると憤慨し、自分の店で賣るラムネに警官がケチをつけたといつては不平をいふ。何でも自分に直接都合の好い時だけ警官を有難がつて、のど元すぎれば直ぐにそれを邪魔物扱ひする。大震災當時に於ける軍隊や警官に對する信頼感謝は、今わづかに記憶の底に殘つてゐるに過ぎなからう。

警察官の有難味を忘れるはまだしも、これを邪魔物扱ひし、白眼視するといふのは、甚だ我儘勝手な了見であるが、然し一方から見れば、警官側にも一半の責任がある。警官も人間だから矢張りエゴイズムで動く。權力を示すといふことは、警官のエゴイスチツクな優越感を滿足させる。殊に下級の警察官諸公に至つては、經濟上その他の部面では甚だ惠まれない状態にあるから、職務上權力の方で優越慾を滿足させ、鬱憤の埋合せをつけようとする。斯かる埋合せの必要を感じないとしても、權力行使に伴ふ優越的快感はますます權力に執着せしめ、權力の失墜に對して極度の警戒を感ずるに至る。そこで、棍棒を持つよりは劍を下げることの方に贊成し、諸願諸届もなるべく簡單平易でないことを要求し、物の言ひ樣、身のこなしにも、わざと角をつけて威嚴を保たうとする。斯ういふ警官心理は人民の輕侮的言動に對して極度に神經質な巡査諸君の態度に於いても窺はれる。

一體、警官に限らず役人心理といふものは、常人の心理とは格別なところがある。家庭に歸れば近所づき合ひの好い、至極物柔かな人でも、役所へ出て制服を着ると恐ろしく横柄になる。これは權力の威嚴を保つための必要に出づるものだらうが、役所では言葉の使ひ方などにも或る標準を指定してあるのではないかと思はれる。裁判官が被告を呼ぶには、たとひ被告が知人であつても『その方は』と呼ぶきまりらしいが、警官なども特別な用語法を指定されてゐるのではないか。而も言葉の適用使ひ分けは極めて外形的劃一的に決定されるやうである。浴衣の着流しで交番に物を尋ねた場合と、洋服でも着てキチンとした身なりで物を尋ねた場合とでは、警官の言葉使ひが違ふなどは、その一例である。尤も、人口千か二千の田舎なら兎も角、無數の人間のウヨウヨしてゐる大都會などでは、身なりででも差別をつけるのほかはなからうが。

然し、この種の役人氣質、官僚式は、民衆の無用な反感を挑發する場合が少くない。警官は取締るのが役目、民衆は取締まられるのが當然なのだが、何の氣もなくやる一寸した落度でも頭ごなしに犯人扱ひにされたり、本署へ願事に行つて馬鹿に七面倒な手續を踏まされたりすると、大抵從順な者でも反感や憤滿を抱きたくなる。それでなくてさへ、いろいろな規則の不自由に對する鬱憤は、規則の勵行者たる警官へ向けられたがるのに、斯かる無用の反感まで附け加へられるとなれば、民衆の警官敵視傾向はますます強まらざるを得ない。

民衆の對警官反感に迎合するのは、大方の新聞紙の通弊である。巡査が人權蹂躙をやつたといふやうな問題があると、鬼の首でも取つたやうに騷ぎたて、尾ひれをつけて警官一般を揶揄輕蔑したやうな記事を掲げる。讀者はこれを讀んで溜飲を下げ、從つて新聞の賣高が増加する譯だらうが、社會の木鐸を以つて任ずる新聞紙が斯かる賣らんかな主義にばかり目がくれて、警官の職務の本質に對する誤つた觀念を誘導する如きは、不心得千萬ではないか。警官の中から、たまたま惡者が出たからとて、教育家の中からも時々不徳漢が飛び出すのと同樣、お互ひに人間の淺間しさで是非もない。どこの社會部面へ行つても、不了見を起す者はゐる。また、警官の官僚的な糞威張りなども、惡いことには違ひないけれども、さういふ欠點が警官の本領なのではない。警官は社會的強制秩序の執行機關として存在するのである。勝手氣儘な人間の利己心が警官の存在を邪魔物に感ずるからとて、警官を廢したら早速その晩から泥棒が横行するだらう。不都合な利己的行爲を取締るためには、警官でなければならぬといふ理窟はない。震災當時のやうに、自警團でも間に合はぬことはない。然して、晝間職業に從事して夜間自警團に出勤するやうなことでは、當人も厄介だし警戒の機能も充分果たす譯には行かないから、そこで警察制度が設けられ、この社會的機能を專門獨立的に擔當する警官が採用されたのである。

警官の官僚的弊風も、近來はよほど改められて來たやうだ。殊に都會の警官は大分よくなつたことが目につく。これは、警官の職務がますます民衆の日常生活と密接な關係を保つやうになり、その結果警官の民衆化といふやうな要求が起つたために影響されたところが多いと思ふ。今日の警官は、昔の岡つ引き番太郎の如く犯罪人を捕へるのみが職能ではない。司法警察は警察の一部をなすに過ぎぬ。風紀、衞生、交通、消防等の各方面に亘つて、警察官の職務はますます多くなり、それだけ民衆との日常交渉が頻繁密接となつて來た。活動へ行けば警官席がある。街を歩くと交通巡査が立つてゐる。演説會でも野球でも、人の大勢集まる場所には必ず巡査が來てゐる。斯ういふ風に頻繁密接に接觸することになると、民衆と警官の兩方に親和の心持が湧くのは當然だし、またさうして互讓妥協が行はれなければ事は圓滑にはかどらない。田舎へ行くとまだ隨分舊式な横柄振りを守つてゐる警官もあるやうだが、それは右のやうな都會的原因がないからである。社會的生活の發達が遲れてゐる田舎では、人々が公共的の規律に服することに慣れないから、警官も自然威壓的に出ることになるのであらう。勿論、このほか、役人の少ない、偉さうな人の少ない田舎では、警官が鳥なき里の蝙蝠を極め込むといふやうな傾向も數へられるであらう。

警官の不良行爲が、近來しきりに摘發されてゐる。警官も慾の塊りなる人間の片われだから、よくない了見を起すまいものでもない。巡査が刑事部屋で女に戲れたとか、留置場で怪しからぬ振舞に及んだとか、密會男女を捕へて脅迫したとか、最近目立つてこの種の事件が傳へられるが、實際それほど非道い状態なのだらうか。新聞紙から受ける感じでは、警官の多數が油斷のならない惡漢のやうに思はれるが、實際そんなにまで警官は腐敗してゐるのであらうか。どうもさうは考へられない。新聞紙といふものは一體民衆の野卑な感情に迎合する傾があり、その結果なんでもかでも警官をやッつけるといふ心理から、事を大げさにするのではないかと思ふ。例へば、留置場で濫りに開くべからざる扉を開いて女にからかつたといふやうな事件を、何かそれ以上の醜態でも演じたかのやうに書き立てることもあらう。

然し、新聞紙の報道がまるで根も葉もない譯ではなからう。多少の事實は存在するに相違ない。而も斯ういふ事實が、頻々として生ずるといふのは、自殺者の流行心理などと同じ作用が働くからではあるまいか。この一二年來、夫婦自殺や親子自殺が流行した。我子を殺して死出の途づれにするといふ樣な殘酷な自殺方法は、從來餘り聞かなかつたところである。然るに、偶々さういふ事件があつて、これを新聞雜誌が盛んに書き立てて、世間に深く印象せしめたために、その暗示が後々の自殺者に影響を及ぼす。さもなければ、社會的條件が特にこの一二年來變化した譯でもないのに、親子自殺夫婦自殺が特に頻出した理由は分らない。不良警官の輩出もこれと同じく、新聞紙などが大げさに書き立てるために、暗示的な流行を來たすのではないか。

近頃は新聞にも共産主義カブレの學生上りが這入り込んで、非國家的の片鱗をすきさへあれば覗かせてゐるが、特に目立つのは軍隊及び警官に對する蔑視的傾向である。大演習でもあると思ひ出したやうに軍隊の記事を掲げるが、通常は大抵の軍隊記事を無視或は輕視し、偶々大きな見出しでもつけて書き立てることがあれば、それは軍人が車掌と喧嘩したといふ如き軍人を嘲笑するに都合の好い事件が多い。警官に對してもさうである。警官のアラ探しを特種と心得てゐる。ふだん偉さうな格構をしてゐる者、嚴肅な職務に從事してゐる者が、偉いこと、嚴肅なこととは正反對の不徳行爲を曝露するのは、見物人の心にいかにも痛快な興味を起させるが、近來の新聞の調子は單純にそれだけの動機ばかりで軍隊や警官を目の敵にするやうには見えぬ。共産主義カブレの權力否定、軍隊否定の思想が大ぶん新聞の中樞に喰込んでゐることは否定できない。

然し、一面に於いては、警官が惡徳の誘惑に陷り易い事實もある。警官は權力を背景とする故、弱い者いぢめをやらうとすればやり易い。婦人容疑者などに對した場合、ふとした衝動に驅られてとかく手が出し好いのではなからうか。その點は、醫師が婦人患者の信頼をうけ祕密を握ることによつて、とかく不良なる了見を起し易いのと似てゐる。婦人の問題ばかりでなく、警官は世間の後暗い連中の間に出入し、水商賣などにも密接な關係を持つので、斯ういふ連中から誘惑もされるし、また進んで弱味につけ込む可能性もある。ニセ刑事でさへ種々惡事を働きうるのだから、本物がやつたら隨分アクドい事もできるに違ひない。

斯う考へると、警官は常人よりも餘程惡事をし易い地位にゐるといへる。而も現在に於いて、時々問題が起るだけで、それ程ひどい非難を招いてゐないところから見れば、警官の規律は可なり嚴重に守られてゐるとせねばならぬ。

日本の警察制度は、世界に於いて最も完備したものと聞く。これは我々の大いに喜ぶべきことである。日本のやうに人口稠密で、而も資源が少なく、經濟的に餘裕のない國では、犯罪や事故の及ぼす影響は極めて大きい。アメリカあたりのやうに、仕事があり餘り報酬の高いところでは、一晩強盗に襲はれて洗ひざらひ財産を持つて行かれて仕舞つたところで、明日から働きさへすればそれで好い。ところが、日本ではさうは行かぬ。一度全燒けにでも遭つたら一生うだつのあがらないことになる場合が多い。

斯ういふ餘裕のない、精一杯にやつてゐる國では、社會の秩序的活動に何か故障が起れば非常に大きな影響を來す。だから、出來るだけ完全に統制秩序を整備し、その勵行に特別の注意を拂はねばならぬ。現在に於いて、日本の警察制度は外國のそれに比し遜色がないとしても、まだまだ幾多の改良すべき點を持つてゐる筈だ。組織の上でも、人物の上でも。

交番の改良法なども考へられてゐるやうだが、これなどは直ぐにも實行できる手近な問題である。司法警察獨立の問題などは、關係範圍が廣いから簡單に片づける譯に行くまいが、とにかく色々と最善の方法を考へるべきである。

人の問題については、警官の素質向上といふことが可なり矢釜しくいはれてゐる。然し、待遇の考慮を抜きにした犠牲獻身の要望は蟲が好すぎるのみでなく効果もあるまい。百人に一人や、千人に一人は、道樂半分に巡査を拜命する物好きもあらうが、普通はみな生活のための職業と心得て奉職するのである。これは巡査に限つたことでなく、人はみな報酬が得たいから働く。自分の力量才幹に應じて、なるべく厚く報いられるところへ行かうとする。

現在の警官の勤勞に對する報酬は決して厚いとはいはれない。高等小學卒業程度の學力を有し身心健全な者だつたら、どこへ行つても稼げる程の俸給しか貰つてゐない。而もこの頃のピストル事件の頻發によつても知られるやうに、警官の職務は絶えず危險に曝され、その上世人には毛嫌ひされる。決して樂な商賣でない。それに出世の望も至つて乏しく、學校出の天降りが好い椅子を殘らず塞いでしまふ。これでは、本氣になつて腰を入れる巡査も少ないのがあたり前で、有能の材はみな一時の腰掛けのつもりだから、折を見ては他所へ行つてしまひ、後には氣のきかない連中ばかりが殘ることになる。絶えず入れ換りが行はれて、新米と殘留鈍才組とが大部分を占めるといふ有樣では、練達優良の警官を見出すことが困難なのは無理もない。

警官の素質を向上させるためには、物質的待遇をよくすることが第一に必要な根本條件だが他面ではまた、警官に對する世間の偏見的蔑視反感を一掃することも大きな影響があらう。即ち、國民的社會生活上、強制秩序の必要缺くべからざる所以を理解し、警察はこの社會的統制機能の一機關たることを認識し、正當の尊敬と同情とを以つて警官に對したならば、警官自身の自重心も高まり、民衆に對する對抗的敵視もなくなり、從來世間的印象から警官となるのを厭がつてゐたやうな人たちも、進んで警官となるやうになるに違ひない。これも餘り大きくは考へたくないが、天下國家のため少なくも或る程度の効果があることは確かだらう。


底本:『中央公論』第四十三年第十一號(昭和三年十一月)

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公開:2006/02/05
改訂:2008/08/04
最終更新日:2010/09/12

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