資本主義の功罪を論ず

高畠素之

今日の經濟組織社會制度は、資本主義を基礎とし、その要望のまゝに形成されてゐる。そこで、現代は資本主義時代と呼ばれ、その經濟組織社會制度も資本主義の權化のやうに看做されてゐる。資本主義といふ言葉が、今日の經濟組織や社會制度をも包括するものとして通用してゐるのは、全くそのためだと言つてよからう。經濟學者の一部には、その概念が明らかでないとして資本主義なる言葉を斥けやうとする者もある。然し、資本主義の概念が明瞭を缺くのは、資本主義を可能ならしむべき一切の制度や組織が包括されるからで、若し學問的用語として役立たぬといふなら、これらの挾雜物を抽除してしまへばいゝのである。

狹義における資本主義は、資本の私有によつて餘剩價値を収得しようとする經濟的欲求だと解して差支えあるまい。資本主義は、生産機關の私有と生産物及び勞働力の商品化とを前提として成り立つ。資本とは、餘剩價値を収得せしめる價値である。餘剩價値収得を目的に商品生産を行ふべく勞働力を充用する時、生産機關は茲に始めて資本となる。餘剩價値収得に役立たしめられぬ生産機關は、單なる價値であつて資本でない。

餘剩價値は、商品生産のため勞働力を消費することに依つて産出される。價値の源泉は勞働力にあり、これなくしては餘剩價値は生じない。然し餘剩價値は、勞働力の賣手たる勞働者の手には歸せず、生産機關の所有者の手に歸するのである。勞働者は、一定の價格(即ち賃銀)でその勞働力を資本家に賣る。隨つて彼れは、勞働力の消費された結果に關し何等の義務を持たぬと同時に權利をも有し得ない。一切の權利義務は、勞働力を買入れて自己の生産機關に充用した資本家の側に存するのである。この過程を經て餘剩價値を収得しようとする要求が、狹義に於ける資本主義であり、現代經濟組織の根柢をなしてゐるものである。

マルクスによると、人類の生活行程一般は、物質的生活資料の生産方法に依つて決定される。今日では、上述の資本主義的な生産方法が專ら行はれてゐるから、經濟組織も社會制度も勢ひ資本主義化せざるを得ない。それは、資本主義と密接不可分の關係を有してゐるのである。隨つて、一般に資本主義と呼ぶ場合、これ等のものが包含されてゐることも、深くとがむべきでなからうと思ふ。筆者も茲では、資本主義といふ言葉を、一般の用語例に從つて廣義に解して置く。

資本家が直接の目的として追求してゐるのは、貨幣であり經濟的利益である。餘剩價値の収得といふ資本主義の目的も、詮じつめれば經濟的利益の追求に歸する。經濟的利益の追求は、勿論、資本主義に限られたものでなく、人類の歴史と共に古い。然し、資本主義の下では、この經濟的利益の追求が、自由と平等とを根柢として行はれる。餘剩價値として經濟的利益を追求することが、抑も自由平等の現はれなのである。この點に、他の時代との區別さるべき資本主義の本質的特徴が見出される。要するに、資本主義の眞髓は自由と平等とにあり、他の諸特徴は悉くこれから派生するものと言はねばならぬ。

資本主義は、封建制度の外殻を破壞することに依つて成立した。封建制度は、あらゆる部面に於ける權力的統制を特色とする。財貨の生産も分配も、權力的支配の下に行はれ、個々人の自由と平等は全く犠牲に供されてゐた。けれども、十六、七世紀に於ける生産力の發達は、遂に封建制度を崩壞せしめたのである。封建制度の廢墟に立つた資本主義は、反動的に自由平等を強調した。營業の自由、企業の自由、投資の自由、競爭の自由、而してまた勞働の自由!

自由の一面は平等である。企業の自由も競爭の自由も、勞働の自由も投資の自由も、個人的權利の平等が伴はねば一場の夢に等しい。かの『人權宣言』に記されてゐる如く、人は生れながらにして自由且つ平等だといふのが、資本主義のモツトーである。自然法を重んじ、自然的權利と自然的自由とを認める當然の歸結として、資本主義は經濟的活動を全然個々人の利己心に一任する。營利衝動に基づく個々人の自由な活動を經濟上の原則とするのである。謂はゆる營利主義であり、自由放任主義である。

營利の原則に基づく資本主義は、保險主義と全然相背馳してゐる。然し、經濟上の制度としては、決して後者に劣るものでなく寧ろ多くの長所を有してゐる。自由放任の結果、獨創と冒險とが盛に行はれ、經濟的發展が促進される點は、封建主義に見出し難い特徴であらう。しかも、資本主義は封建主義のやうに權力を要せずして、生産と消費との調節を果たし得るのである。封建主義は、權力に依つて經濟的統制を行はねばならぬ結果、自由を抑壓し獨創と冒險とを阻止することになつた。けれども資本主義は、この弊を避けながら、經濟的混亂と無秩序とを統御することが出來る。一切の經濟行爲が個人の自由に任されてゐても、營利の原則は、需要供給の關係に依る商品價値の騰落を通して、巧みに經濟界の混亂を阻止してしまふ。即ち、商品の供給が需要を超過すれば、忽ち價格が下落し生産者の獲得すべき利潤を減少せしめるから、該商品の生産に投下されてゐた資本が他の生産部門へ去り、需要と一致する點まで供給が低減するのである。この調節作用は、國家的統制に倚頼することなくして經濟生活の混亂を防ぎ得る資本主義の長所だと言はねばならぬ。

營利の原則に依つて運用されてゐる結果、資本主義が種々なる不正行爲を生むといふ見解は、今日でも相當に廣く行はれてゐるやうである。資本主義には不正な營業が附き物であるかの如く説く人も無いではない。或る商品が、牛肉の鑵詰と詐稱して砂利の鑵詰を軍隊に納入し、それによつて富を積んだといふ話がある。廣い世の中だから、それに似た不正行爲を營む者も絶無であるまい。然し嚴密に言ふと、さういふことは資本主義の神樣からも決して許さるべき行爲ではないのである。

資本主義の神樣は、自由と平等に基づいて、價値相等しと看做し得る商品の交換を命ずる。等價的交換に依つて餘剩價値を収得するのが、資本主義の下で利己心を滿たすべき最上の方法なのである。不正行爲で利益を得んとする者は、結局自由競爭の上で落伍者たらねばならぬからである。平等の觀念は交換さるべき價値が相等しいことを要求するし、等價的交換によつて充分の餘剩價値が収得出來る筈なのである。

若し詐欺的商業が資本主義の本質であるならば、今日の如き信用經濟と大量取引との發達も見られなかつたに違ひない。信用と正直とを重んずる實業(1)道徳は、實に資本主義成立の一條件だつたのである。封建時代の末期に於いて商業道徳が發達してゐたのは、殆んど普遍的現象であつた。我國でも徳川時代の大阪商人は、頗る信用を重んじ信義を守つてゐた。彼等は金錢の借用證文に、負債を返還出來ぬ場合には滿座の中で嘲笑されても差支えない旨を認めてゐたといふ。滿座の中で嘲笑されてすら、商業信用の破産となる。況んや詐欺的商業に於いておやである。砂利を牛肉と詐る如き行爲が嚴密に言つて資本主義の精神と相容れぬことは、殆んど疑ふ餘地がなからうと考へる。

商業が詐欺的性質を有してゐたのは、自由平等の精神が生ずる以前のことである。原始商業には、掠奪的詐欺的性質が伴つてゐたに違ひない。ギリシア神話に於けるマーキユリは、商業と幸福との神であると同時に、また盗賊と詐欺との神でもあつた。原始商業が平和と掠奪との二重性を有してゐたことは容易に想像出來る。オツペンハイマーに依れば、都市成立の萌芽は略奪者の營む商業にある。彼れは、海上乃至陸上の略奪者が、直接自己の消費に役立だぬ物品を販賣したために、市場が創設され、やがて都市が生じたのだと説く。商人と略奪者とが同一であつた關係が、交換そのものに反映した場合も尠なくなかつたに違ひない。この商業に伴ふ掠奪的欺瞞的性質は、封建時代に至るまで失はれなかつたらしい。商人を卑しむ風潮は、彼等が貨幣に愛着する點からのみ生じたのではない。徳川幕府が、農村に商人を立ち入らしめまいとしたのも、農民の生活程度が向上することを嫌ふためだけではなかつたやうに感じられる。

封建時代までは、ひとり商業方面ばかりでなく一體に掠奪的行爲が盛んであつた。生存慾を滿足するためには、他人の勞働を無償で徴發するか、自己の勞働に依るか、或は他人の勞働と自己の勞働とを等價的に交換するか、そのいづれかの道を選ばねばならぬ。然し封建時代までは、自由平等の觀念が確立してゐなかつたから、無償徴發即ち掠奪の行はれる機會が多かつたのである。今日では、理由なき財物徴發は許されない。無償徴發を罪惡視する風潮は商業にも及んで、其處に掠奪的分子の介在することが許されなくなつた。我々は、すべての商品を安心して購入し得る。價格だけの實質は與へられるものと信じていゝからである。價格を値切るべく、餘分な手數や時間を費やす必要がなくなつたことは、沁み沁み資本主義の賜物だと感じられる。

資本主義は營利原則の上に立つから、利潤の獲得が出來る物なら何でも生産する。一本千圓の帶も生産すれば、一枚數百圓の羽織も生産する。そこで、資本主義が奢侈を助長し、多くの資本が奢侈品の生産に投ぜられ、生活必需品の生産量が減少するといふ點から、資本主義の攻撃を試みる論者も現はれた。奢侈品と必需品との限界を定めることは困難であるが、大體に於いて、專ら上層階級の消費に歸する高價品が奢侈品だとして置いて差支えあるまい。成る程、資本主義が奢侈を助長することは疑はれない。然し、奢侈が、盛んになるから生活必需品の生産が減退するといふ虞れは先づなからう。奢侈品は價格が高いから、一個一個について見れば、或は利潤が多いかも知れぬけれども、その代り需要が尠いから多くの利潤もなからうと思ふ。需要の尠ない商品を生産するために、多くの資本が投ぜられる筈はない。數は力である。薄利でも多賣した方が利益は上るのである。隨つてこの點から、生活必需品の生産が減退するやうなことは先づ絶對にあるまい。

一方、奢侈はそれが普及するにつれて、資本主義と關聯して社會進化の促進上大きな効果を持つものである。上層階級の生活樣式は絶えず下層階級から憧憬模倣されてゐる。上層階級の生活に、型ばかりでも追隨したいといふ欲望は、多くの無産者に依つて抱かれてゐる。この欲望は目立つて來ると、次第に模造品が現はれ、安價に模倣を果させてくれる。お召に對する文化お召、銘仙に對する新銘仙、メリンスに對する新モス、絹絲製品に對する人造絹絲等がそれである。これ等の模造品出現は、下層階級の生活を豐富にするものとして歡迎せねばならぬ。

模造品出現は、實業道徳の頽廢でも何でもない。勿論、銘仙よりも新銘仙の、メリンスより新モスの品質が劣等であらうことは疑はれない。その代り、價格も亦低廉な筈である。同一の價格で模造品の賣れる筈がない。價格が低廉なら、それだけ品質が劣等でも止むを得ない。模造品だつて、進歩すればそれ獨自の存在を保ち得るやうになる。更らに進めば、模型品と差異がつかなくなるかも知れぬ。その時には、模型品の價格が低下し、模造品の價格が上騰して差異がなくなるであらう。

昔は、絹物づくめでゐることが最上級の服装的奢侈を現はしてゐたやうであつた。然し今日では、誰れも彼れも絹製品を身につけてゐる。それが模造品であるにせよ、棉製品よりは美感なり觸感なりを滿足させて呉れるであらう。また、毛織物類にも、棉入りでゝもあるのか低廉なものが殖えて來た。そのために、自由勞働者でもモヂリ外套やズボンで寒さを防ぐことが出來る。欲望充足に役立つものの種類が殖えるといふことは、これは寔に結構なことに違ひない。

奢侈を罪惡視する思想は、封建時代に於いて特に盛んであつた。ヨーロツパ諸國では、マーカンチリズムの風靡する頃まで、衣服や食物等に關して盛んに奢侈禁止令が出たやうである。我が徳川時代の奢侈禁止が甚だしかつたことは、改めて言ふまでもあるまい。封建時代には、獨創と冒險とが阻止されてゐたため、すべての進化が遲々として緩慢だつた。社會は化石したやうに靜止的状態を保つてゐる。隨つて新らしい欲望が發生し、新らしい經濟的活動が行はれると、著しく目立つ。それは社會的秩序の紊亂として、支配階級に脅威をさへ感じさせたのである。

資本主義の下でも、奢侈の普及は兎角罪惡視される。質素勤儉が唱導されるのである。それは封建的傳統にも依るであらうし、勞働階級の浪費を防ぐ意識的目的に出づる場合もあるであらう。然し、權力的に奢侈を禁ずるやうなことはない。封建時代に比較して見ると、奢侈を排除する風潮は驚くばかり微弱になつた。自由主義の段階に入つたお蔭である。

資本主義は機械の利用に依る大量生産と密接不離な關係にある。家内工業や手工業は、機械に依る工場工業のために征服された。商業及び交通の發達は市場の擴大となり、個々人の消費物は奢侈の普及に依つて増大した。商品の需要は、次第に大量化して來たのである。大量需要を滿たすためには、勢ひ機械の發達が必要とされる。機械の改良と發明が進めば、個々の商品の價値が減少し價格が低下する。價格の低下は、多くの場合新たなる需要を喚び起す。資本主義と機械とは、斯くして原因結果的に相伴つて發達して來たのである。

この機械の發達と生産の大量化に依る商品價格の低落とは、農村の自足經濟を破ることになつた。『商人入るべからず』でなく、今やいづれの村落も商人を無視しては生活をなし得なくなつた。酒も醤油も、自家生産することなく、商人の手から購入しなければならぬ。多くの生活必需品が、自家生産をするよりも低廉に買へて來たのである。昔は、手織木綿の着物が質朴な農民の通り相場であつた。然し今日では、手織木綿などは殆んど見られなくなつた。自家生産をやつてゐては引合はぬからである。

自足經濟が破れた結果、農民が都市の商工業者に依つて搾取されるやうになつたといふ點から、資本主義の攻撃をする者もある。如何にも農民は、商工業者に依つて搾取されてゐるであらう。然しそれは、彼等が工業製品を消費するやうになつたからではない。農民が商工業者その他に依つて搾取されるのは、農産物價格の上からである。農産物價格が、絶えず價格隨つて生産價格に達し得ないといふ點で、農村は都會に搾取されてゐると言へる。けれども、工業製品を消費する點では、恩惠こそ受けて居れ、決して不利益な筈がない。醤油の價格、木綿の價格は、都市の住民たると農村の住民たるとに依つて區別がない。區別があるとすれば、地理的關係による運送料位ゐなものであらう。

ひとり農民ばかりでなく、一般國民も亦、機械の發達による大量生産、生活資料の低廉な供給等に依つて便益を與へられてゐる。あらゆる生産物が商品化した結果、從前はみづから加工しなければならなかつたものも、精製品として容易にそれを獲得し得る。生産力の發達は、嘗て存在しなかつた新商品を生み出して、我々の生活の簡易化と合理化とを授(2)けて呉れる。自家生産の破壞は、弊害どころか寧ろ資本主義の功績に數へなければなるまい。

資本主義は、我々の生活を簡便ならしめたのみでなく、また勞働時間の短縮に依つて生活の享樂化を助長する傾向がある。資本主義の下では、機械が發達し分業が進む結果、各人の受持つ勞働行程が著しく單純になつた。資本主義の成立以前には、勞働の多くが手工的熟練を必要とした。然るに今日では、反對に大部分の勞働が、特殊の熟練を要しなくなつた。幼少年工や婦人勞働者が増加したのも、勞働が單純化したからである。

斯く機械化單純化が進むに從つて、勞働が無味乾燥になるのは當然の勢ひである。そこで、勞働の機械化單純化を呪咀する思想も現はれて來た。ウヰリアム・モリス等の唱導する藝術的社會主義などがそれである。彼等に依れば、人間の眞の悅びは、勞働に於ける想像の自由にのみあり、人間的喜悅は勞働の藝術を措いて得られない。勞働の機械化と單純化は、想像の自由を窒息せしめるものだと言ふのである。

然し勞働は、所詮絶對の自由などと兩立するものでない。消費者の悅びのためには、生産者としての悅びを犠牲とするところに、勞働の勞働たる所以がある。消費者の使用價値を第一位に置いて、想像の自由と人間的喜悅も沒却することが眞の勞働でなければならぬ。消費者の使用價値を無視する程に想像の自由が發揮される勞働は、寧ろ道樂と呼ばるべきである。農民には想像の悅びがあると言はれるが、その農業勞働にさへ多少の不自由や苦痛が伴ふに違ひない。よしまた農業勞働に悅びが多いにしても、現在の如く長時間の活動を必要とするのでは、あまり幸福でもなからうと思はれる。

我々の生活は、勞働だけから成り立つてゐるわけでない。勞働の生活以外の享樂の生活がある。勞働の悅びを追ふまでもなく、その時間を短縮し得たら享樂的部分が増大するのである。勞働の單純化と機械化とは避け難い事實として忍從して置くべきである。機械の發達と勞働の合理化とは、勞働の密度を高めるものの、一方に勞働時間を次第に短縮して來る。資本主義初期の勞働力濫耕時代を除けば、一體に勞働時間が短縮されてゐる。時間さへ短かければ、少し位ゐ苦痛が増加しても驚くに當らぬ。享樂の時間が延長されさへすれば、生活の享樂化は進むのである。

若し勞働を享樂化することが出來るとしても、一日の全部が享樂と化しては人生がさぞ寂漠とするであらう。歡樂極まつて哀愁生ずといふ諺はこの場合當てはまらぬだらうが、享樂の効用が無に等しく低下することは確かである。雨の日もあるから青天の有難味も存するので、太陽の惠みと雖も明け暮れ續いては助からない。勞働の享樂化などと言つて、降りみ降らずみの日を喜んでゐるよりは、降るなら降るらしく豪雨でもある方が望ましい。その代り、降雨の時間を短かく、青天の時間を長くして貰ひたいものである。資本主義が勞働の時間を短縮し、多くの享樂對象を生み出して呉れたのは、この點から言つて一大功績に屬すると思ふ。

資本主義は、科學的合理的精神を重んずる。隨つて、單に工場内の勞働が合理化され能率化されただけではない。嘗ては『大福帳』を利用するに過ぎなかつた小賣商人も、今ではキヤツシユ・レギスターを用ひ、簿記式帳簿に記入する。この傾向は我々の日常生活の上にも及び、封建的繁禮縟節を大半驅逐してしまつた。家庭生活も社交的儀禮も、著しく合理化されて來た。理由のない傳統的虚飾は、次第に排除されてゐる。

例へば、飲酒に關する傳統的虚飾なども消滅の傾向を辿つてゐると思ふ。近年、酒の國内消費量が著しく減少してゐるさうである。酒そのものを享樂するのでなく、單なる見榮のために豪酒を競ふ風習などは、排除されて然るべきものだと思ふ。族長制社會では、一般にアルコール飲料の消費が、門閥に生れ高い教養を積んだ男子の特權とされてゐた。この傾向は、飲酒の習慣と豪酒とを優越の表章たらしめたのである。日本でも講談本に現はれる英雄豪傑が平然として大盃を傾けるところを見ると、豪酒に一種の尊敬が拂はれてゐたものと考へることが出來る。地方の舊家で子弟に對し、如何なる豪酒にも酩酊せぬやうな修練を積ましめたところがあつたと聞いたことがあるが、下らぬ努力を拂つたものだと思ふ。この種の理由から生ずる豪酒が、合理的能率的な資本主義の精神と一致し得る筈がない。今日、酒の消費量が果して激減してゐるならば、それには生活の合理化能率化の要求が與つて力あることであらう。かうして、無意味な傳統的虚飾を葬つて來たところにも、資本主義の功績が認められる。

次に、資本主義の弊害としては、勞働者の窮乏化、家族的結合の弛緩、金錢至上主義の瀰漫等、大小樣々なものが數へられる。然しこれ等の弊害は、いづれも絶えず世上非難の的とされてゐるものだから茲では簡單に觸れておくに止める。

資本主義に伴ふ弊害の中で、最も根本的なものは勞働力の商品化であらう。勞働者の窮乏化も、失業者の増加も、基づくところは勞働力商品化の事實にある。資本家の餘剩價値取得もこれに依つて可能となるし、階級對立の助長、階級鬪爭の激成も亦、勞働力の商品化に原因すると言はねばならぬ。

資本主義の社會は有産者と無産者との二大階級に分かれてゐる。無産者は自己の勞働力を賣る以外に生活の方法がない。彼等は、他に何等の生産要素も有たないからである。勞働力が商品化するのは、即ちそのためである。餘剩價値を取得し、これを更らに資本化するのが資本主義であるから、少數資本家の手にはますます多くの資本が蓄積され、ますます多くの餘剩價値が歸屬してゆく。かうして富が一方の階級だけに集中する結果は、富貴の懸隔が甚しくなり、相對的意味に於ける勞働者の窮乏が増大するのである。

プロレタリアの數は次第に増加してゐる。けれども、勞働力の需要はその割りに増大しない。機械が發達しその利用範圍が擴大されるため、同一量の商品を産出するに必要な勞働力が、ヨリ尠なくなつてゆくからである。生産が盛んになる結果、勞働力の需要は絶對的には減少しないと言へやう。然し、相對的には漸次に減少してゆくのである。勞働力の供給が需要を超える時、そこに失業が生じ、勞働力價格の低落が釀される。隨つて、勞働者の失業や生活苦の根本原因は、勞働力の商品化にあると言はねばならぬ。

勞働力が商品化し、勞働力の價格が需要供給の關係で變動する結果は、機械や分業の發達に依る勞働の單純化と相俟って、勞働者の妻子まで工場内に流入せしめる結果となつた。即ち賃銀が低下して、夫たり父たる勞働者の所得だけで一家の生計が支え難くなるから、妻も娘も勞働者と化して來るのである。勞働の單純化は、婦人勞働の範圍を著しく擴大したから、今日では婦人勞働者を採用する勞働部門が多い。托兒所の如きものが現はれたのは、家庭外に出て勞働する婦人が増加したからである。

プロレタリアの窮乏化は、單に婦人の工場勞働者を多からしめたばかりでない。店員、事務員、看護婦等の如き職業婦人の群を非常に増加させたのである。職業婦人出現の根本原因が、生活上の必要にあつたことは言ふまでもない。然し、勞働を神聖視する精神の影響は、必ずしも絶對的生活の必要に迫られなくとも職業を求める婦人をさへ生んだ。

封建時代には、生産的業務に從事することなく、無爲徒食してゐるのが誇りとされた。それは身分の高い者にのみ許される特權だつたのである。生産的勞働は、身分の卑しい者が從事すべきものであつた。けれども、身分格式の低い商工業者によつて確立された資本主義は、勞働を蔑視するものでない。無爲にして徒食することは、資本主義の精神と相反する。『勞働は神聖なり』といふことは、決して勞働者を欺瞞するためにのみ生れた思想ではない。

婦人は概して傳統的精神に捉はれることの多いものである。けれども、資本主義精神は婦人の間にも浸潤せずにゐない。その結果、謂はゆる婦人の覺醒なるものが行はれ、男女の平等と經濟的獨立とが叫ばれて來た。男女間に於ける教育の機會均等も要求されて來た。婦人界に於けるこのブルヂオア的革命運動は、次第に封建的傳統を驅逐し去つたのである。

これ等の種々なる事情によつて、婦人も經濟的にますます獨立化して來る。戀愛の自由、結婚の自由、離婚の自由といふ如き婦人界の自由思想も、經濟的獨立化が進むと共に現實性を強めて來た。全家族が工場に赴いて賃銀を獲得せねばならぬ勞働者の家庭が、家長の權威を失はせ一の合宿所と化したばかりでない。家族的結合が一般に弛緩してきたのである。現代の享樂主義や自由主義は、男女關係を著しく混亂せしめる。男女關係の永續性が著しく失はれ、家族的生活が動搖しつゝあることは、資本主義の生んだ弊害の一つでなければならぬ。

最後に、あらゆるものを貨幣化し、黄金至上主義を盛んならしめたことも、資本主義の弊害であらう。今日では、貞操も貨幣化されてゐれば、人命も亦貨幣化されてゐる。貨幣には萬能の力があり、その力には一切のものが屈服せしめられる。貨幣で計量されるのは、單に選擧の投票ばかりでない。金力さへあれば、謂はゆる輿論なるものを動かすことも出來れば、政權に近づくことも出來るといふ傾向は、決して喜ぶべき現象でない。

資本主義には、如上の功罪が認められるけれども、その中には資本主義と共に滅亡すべきものが尠なくない。資本主義が一の歴史的過程に過ぎぬことは今更ら言ふまでもなからう。資本主義は今や自己否定に陷つてゐる。自由と平等とを本質とした資本主義は、みづからこれを放棄せねばならなくなつた。資本主義の生命は次第に最後の土壇場へ近づいてゐるのである。

資本主義は自由競爭を自己確立の手段としてゐた。即ち、自由競爭に依つて資本の増殖を遂げようとしてゐたのである。然るに自由競爭の結果、大資本企業による小資本企業の征服が進められ、會社企業即ち個々人の資本を集めて行ふ企業が生れた。この會社企業の間にも更らに自由競爭が行はれ、中小の會社企業が征服されることとなり、遂には會社企業の結合であるところのトラストやカルテルが現はれた。カルテルやトラストは、市場に於ける自由競爭を目的とするものでなく、供給の獨占を目的とする。供給の獨占によつて、商品の價格を獨占的に決定し、獨占利潤を擧げようとするのである。

トラストやカルテルは、等價的交換を望むものでない。産業を獨占して掠奪的な商業を行はうとするのである。資本主義は、この自己否定の段階に達すると、國家權力との結合を必要とする。例へば、國内の獨占價格を維持するためには、同種商品の低廉な輸入を阻止せねばならぬ。それには、政治權力に依つて獨占的關税を課さねばならぬ。また、著しく増殖された資本を海外の後進國に輸出してヨリ高率な増殖を遂げしめるためにも、國家權力を背景とする必要がある。

今日では、世界各國の資本主義がこの段階に入つてゐる。各國ともに自由黨の勢力が衰へ、保守黨が再び頭も擡げてゐるのは、自由平等主義否定の時代に入つたからである。國家主義と權力主義とが要望されるのは、資本主義國共通の事實である。世界に漲る『反動的』風潮として左翼理論家の眼に映ずるものも、この現象に外ならぬ。自由主義に立脚してゐる限り、それは好ましくない傾向に違ひない。然し、社會進化の上から見れば、それは反動ではなく必然の推移なのである。この必然の推移を必然の進化として直視し得ないやうな回顧的自由主義こそ、寧ろ驚くべき『反動』思想であり時代錯誤であると言はねばならぬ。

資本主義は今や、功罪ともに終らんとしてゐる。産業の統一と社會化も、地ならしを行はれてゐる。社會の經濟的發達は、資本主義を必要とする段階を超え進んで來た。資本主義は今や、その根本精神と共に存在の理由を失ひつつある。


底本:『中央公論』第四十四年第一號(昭和四年一月。「資本主義日本は何處へ往く」の一つ)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和5年)再録。

注記:

※明白な誤植は単行本と照合のうえ改訂した。
(1)實業:単行本は「商業」に作る。
(2)授:単行本は「扶」に作る。

改訂履歴:

公開:2008/02/10
最終更新日:2010/09/12

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