政黨心理の解剖

高畠素之

1 嘘八百の政治學

世に政治學と呼ぶ一科の學がある。その研究對象とするところは政治現象であり、その認識目的とするところは可成的眞であると稱しながら、結局は最大多數の最大幸福に倫理的是認を求める位がオチで、いづれも秋霜烈日なるべき科學的批判を缺如してゐる。その段は、理想主義的プラトン亞流も現實主義的マキァヴエリー亞流も問ふところでなく、科學的社會主義のパテントを獨占するマルクス亞流に於いてさへ、甚しき曖昧模糊を發見せざるを得なかつた。

政治學を斯く僞似科學の領域に跼蹐せしめたについては、おのづからなる二つの原因が算へられる。その第一は、政治現象に對する遠慮會釋なき放言を躊躇しなければならなかつた怯懦に原因し、他のもう一つは、實際政治を直接の研究主題とすることに依り、自己の政治的野心を忖度されまいとする警戒に原因してゐた。換言すれば、迂濶に觸つて後の祟りを招かざらんため、政治とか國家とかは、これを『神』の地位に祭り上げてしまつたのである。

元來、人間の性質には、躍氣となつて蔽ひ隱くさうとする醜惡な部分と、實際以上に持て囃やさうとする善美な部分と、この二つの明暗があると一般に信じられてゐる。ドストイエフスキー流にいふなら、取りも直さず『神と惡魔の混血兒』であるが、斯うした人性觀上の二元論は、昔しながらの性善性惡兩説の公武合體論として、文藝家のいはゆる『人間的』といつた是正の言葉で認容されつつある。何ぞ知らん、後者は前者の派生に外ならぬといふ理屈は後まわしとして、兎に角にも政治現象なるものは、右の祕し隱くしにかくさうとする醜惡部分の、最も醜惡的發作だつたことを理解する必要がある。

そこで勢ひ、ザインの状態に於いて政治現象を理解することは、我れ人ともに肚膽を抜かれる思ひをしなければならないので、淺猿しくもゾルレンの形式を假定し、政治の本質に關する究明を、政治の目的に關する或るアプリオリから出發するに傾かしめたのもやむを得ない。斯くて、政治が一定の倫理的内容を有つかに詐稱され、延いて政治學説も、一定の倫理的考慮の上に建設すべきものとされてしまつた。これは明白に虚構である。虚構ではあるが、それが餘りに重層的に累積された結果、最初の意識的虚構が今度は無意識的虚構となつてしまひ、遂に感覺能力上の中毒を惹き起す騷ぎとなり、今もつて相も變らぬ本末轉倒を敢てしつつある。これ政治學が科學の名を僭稱しながら、形而上學から一歩も進出し得ぬ根本の理由でなければならない。

政治の本質は、明白に人類の利己的鬪爭だと言ひ得る。憲法とか、議會とか、政府とか、凡そ勿體らしい制度や機關やで紛飾されてゐるが、その本質に至つては、熊公八公の喧嘩沙汰と少しも變らぬ利己的本能に出でたものである。その限りに於いて、政治の本質を理解せんとするなら、豺狼の交歡反噬を觀察する動物學者の冷徹な眼光を用意しなければならぬ。大臣や議員の巧言令色を極めた演説に惑はされず、これを熊公や八公のベランメー的惡口雜言に飜譯して理解し、彼等が共通に利己的動物であつたことを認識する必要があらう。さもない限り、政治に對する有害無益な幻想を放棄し得ず、隨つてまた、政治活動が倫理衝動に立脚するといふ荒唐無稽な妄念から解放され得まい。

總べての人間は、程度の差こそあれ、悉くエゴイズムの持主である。尤も中には、身を殺して仁をなす聖賢人や殉教者もなかつた譯でないが、彼等は稀れに見る例外的存在と解すべく、差しづめ生物學上の『變異』と見て差し支へない。百本に一本、毛ばかりの玉蜀黍が出來たとて、そんなものは玉蜀黍の構成や榮養分の考察に影響がないのと同じく、九十九パーセントの俗人が悉くエゴイズムであつたなら、殘る一パーセントの例外は、必らずしも人間の本性考察に齟齬を來たす筈もなからう。既に人間がエゴイズムである以上、誰れしも人間は、他人のことよりも先づ自分のことを關心する。他人はどうでも構はないと言はぬまでも、とにかく自分の都合、自分の利益、自分の快樂、自分の人氣、自分の權勢、自分の富貴を考慮したがる。善くも惡くも、これが人間の天性だから何ともお氣の毒である。

社會的動物と呼ばれる人間でありながら、また現に社會的生活を營みつゝある人間でありながら、またあるが故に、天性の斯かるエゴイズム的本能は絶えず臍をつつき、他人を凌駕して自分本位の欲望を發揮しようとする。そこに鬪爭が開始される。最も卑近な例證を求めれば、熊公の吉原説と八公の洲崎説が圖らずも抵觸し、組んづほぐれつの大道的鬪爭を開始する如きものである。

政綱の政策のと、如何にも倫理的動機に出發するらしき金看板を掲げる政治上の鬪爭にしても、結局のところは、熊公八公の喧嘩と五十歩百歩の相違に過ぎない。けだし、素朴的なると修飾的なるとの相違はあつても根本は彼等のエゴイズムに誘發された鬪爭だからに外ならぬ。這般の消息を確認し得ざる限り、政治學は遂に僞似科學の領域を脱し得ないであらう。

2 政治は必然の惡

人間は利己的な動物である。しかし、如何に利己的だといつても、朝から晩まで、晩から朝まで、四六時中いつもエゴイズムの利劍を磨ぎすましてゐる譯ではない。時には、自分ばかりでない他人の都合も考へる。殺身成仁の境地は及びもないが、せめて生身成仁に貢獻したい念願は多分に所有してゐる。それが證據に、何の由縁もない路傍の乞食に五錢白銅を惠んだり、野田の罷業團に力瘤を入れたり、どうやらエゴイズム一元論では解決つき兼ねるやうな醉狂な眞似もする。だが、それは皮相な見解で、例へば斯くすることに依つて、自分の強者的誇負を滿足せしめ得たといふ如き意味で、矢張りエゴイズムの發露だつたことに氣づくであらう。世上比々として皆しかり、他人への考慮は、決して他人の便宜そのものを目的とせず、他人の便宜を圖ることに伴ふ色々な自己的關心の滿足が、根本にして唯一の目的となつてゐるのである。

善因あれば善果あり、情は人のためならず、人取る龜は人に取らる、惡事の酬ゐは天罰てき面等、はなはだ多くの默阿彌的名句は、その意味で浮世小路の眞理を雄辯に喝破したと言ひ得る。實際、人が他人のために盡くすのは、これに依つて自分が利益を享けられればこそで、自分の利益に寸分の貢獻がないなら、變異的人種の聖人賢者ならぬ限り、世間なみの人間は尻に帆あげて逃げるが必定の經路であらう。尤もこの場合、彼れの盡力が他人の利益に寄與することは大いに有り得よう。だが、他人が利益した代りには、自分も同程度か同程度以上の利益を享け得たことを考へれば、意識すると意識せざるとを問はず、直接なると間接なるとを問はず、矢張り自分中心のエゴイズムに要約するの外はない。聖人賢者の場合だつて、彼等が身を殺すことより仁を成すことが、彼等の自己的關心に於いて、ヨリ強大な引力となつてゐたからと解すべきである。進んで磔死を擇んだキリストを以つて、最大の個人主義者となしたオスカー・ワイルドの卓見を、單なる逆説や反語として葬り得ない所以も茲にある。

ところで、斯くの如きエゴイズムの權化たる人間が、何故にこれを、直線的に發揮せずして曲線的に發揮するかの問題である。それも結局、直線的ならしめるより曲線的ならしめた方が、ヨリ效果的だといふ打算に基づいてゐる。つまり、エゴイズムの深刻化であり、同時にまた複雜化であつた。そこが同じ利己的動物でありながら、他の諸動物と比較して、人間が社會的動物と自稱する所以でもある。だが、人間の斯うした屬性は、謂はば後天的に獲得した種屬的所産であつて、先天的には猛獸や毒蛇の如く孤立的だつたに違ひない。唯だ人間に繋がる動物種屬は個體としては生存競爭上有利な武器を與へられてゐなかつたので、獨力では他の諸生物と抗爭することが出來ず、自然の最後の一案として社會的結合を促進したに過ぎない。これに反して、猛獸や毒蛇は、生れながらにして強力な武器や戰鬪力を所有し、隨つて社會的結合の必要を訴へられなかつたが、如何に一匹どつかへでは勇猛果敢でも、多勢に無勢の譬へに洩れ得なかつた結果、今や完全に人間に征服されるのやむなきに立ち到つた。

社會的結合をなし得たばかりで、人間があらゆる生物の王者たる地位を獲得した事實は、彼等をして倍加的に團結の必要を痛感せしめずには措かぬ。斯くして、社會的本能の發達に貢獻すると共に、やがては倫理道徳の樹立を喚起し、それやこれやの手違ひが、人間をして社會的動物と自惚れる程度の進化を遂げしめたのである。けれども、三ツ兒の魂は矢張り抜け切れない。凡ゆる人間に共通する自己中心慾は、その間接的表現たる社會的本能の手前を忘れ、ともすれば利己的本能として直接的表現を試みたがる。猜疑心や優勝慾の如き、一見いかにも反社會的本能と思はれやすき社會的本能は、凡ゆる善美な社會的道徳の裏を掻いくぐり、本來自然のエゴイズムと結托して、人生をいやが上にも複雜ならしめつつある。事態が斯うなり、各人勝手のエゴイズムを奔放自在に發揮させたのでは、肝腎の社會的結合を維持する事が出來なくなる。茲に於いて何らかの細工が必要となり、謂はば第二次的の結合要素として、支配統制といふ政治法律機能を發動せしめたのであつた。ホツブスやルツソーは、斯うした支配機能の發生を人爲的意識的な契約に求めてゐる。が、實は社會的結合を保持する當面の必要上、自然淘汰的に發生したのである。社會學的政治學の集成者ラツツエンホーフアーの言ひ草ぢやあないが、政治はその意味で『自然的エネルギーの現はれ』と解釋すべく、同時に『人類の運命にまつはる必然惡』と觀念するの外はない。政治學はそれ故に、彼れの喝破せる如く『社會の精神病理學』に外ならず、凡ゆる政治現象を精神病理學的に解剖して、始めて正體の核心を把握し得るであらう。

3 道徳も遂に手段

萬物の靈長と生れた悲しさに、人間は我れと我が身の急所を突かれることを甚だしく厭ふ動物である。穢いとこや醜いとこは、成るべく目を瞑つて知らない顏をする反面、少しでも善いところ美しいとこを發見すると、大聲叱呼して自慢のタネに利用したがる。仁義忠孝、奉公義勇、博愛正義、自由平等、等、等、凡そ神樣の申し子か何かのやうな自己欺瞞に蕩醉し、さうした美事善行が靈長的存在に錦上花を添へる所以なるかに吹聽してゐる。しかもその癖、對人的關係が一旦生ずる場合に當面すると、人を見たら泥棒と思への金言を墨守して降らない。これは言ふまでもなく、明白か暗默かに相互のエゴイズムを警戒する證據だが、阿賭物と蔑視する金錢の貸し借りにも一々抵當を設定し、證書を交換しなければ氣が濟まぬやうに、三人寄れば文殊の智慧を絞つて、やれ規約だそれ覺書だと、お互にお互を束縛して喜こんでゐる。そして尚、その規約なり覺書なりに照明せられた意志は、最高無上の權威が與へられることを常とする。

考へて見れば、ずいぶん莫迦な話しだとも思ふが、さうしなければ他人は兎にかく、自分で自分のエゴイズムの處置をつけ兼ねる人間の弱點は、何にか知らの形で公的強制を必要としてゐるのである。この事實は、遠く有史以前の人類記録に發見せられ、結婚、復讎、裁判、懲罰等の規定が既に存在してゐた。けれども、當時にあつては、斯うした強制權が一群の首長に依つて壟斷されてゐたので、極めて素朴單純な形で存在したに過ぎなかつた。やがて同質結合の社會が異質結合的となり、種族對種族の鬪爭が行はれるやうになつてからも、敗北群は優勝群に文字通り隷屬しなければならなかつた關係上、征服者の意志を意志として追從するの外なかつた。けだし、これらの時代に於いては、武力のみが唯一の強制的手段であり、武力的優勢が社會的勝敗を決定してゐたからである。

然るに、社會の發達が次第に進化するや、勝敗優劣の決定は單なる武力のみでなく、雜多の要素が社會鬪爭上の武器として充用されるやうになつた。知識力、技術力、經濟力等、いづれも有力なそれである。事態が茲まで進展すれば、社會的鬪爭も武力的抑壓の形を以つてせず、少なくとも表面上は、飽くまで平和的協同の形を採るやうになつてくる。封建制度が倒れて立憲制度が現はれた徑路は、直線的素朴的な鬪爭形態から、曲線的修飾的な鬪爭形態への進化だつたといふを得よう。けだし、封建の武力支配が微動だもせざりし時代には支配群たる貴族階級の意志をそのまま遵奉してゐた町人階級が、相互の階級的利害の正反せることを知り、且つ被支配群たる彼等自身の利益を何らかの形式で伸張せんとした結果、勝味のない武力的手段を避けて議會といふ平和的手段を考察し、實質的に貴族支配の牙城を覆へさんとしたのである。モンテスキューは這般の消息を喝破して、町人階級に依る『詐術』と見なしたが、全くその通りだつたといひ得る。

エゴイズムも原始的な個體鬪爭である間は、まだしも容易に因果の關係を觀取し得る。けれども、それが群體鬪爭となり、武力的なそれから平和的なそれに歪められては、動機と目的の先後さへ曖昧ならしめ易い。斯くの如く、平和的手段に訴へて鬪爭を有利に展開せんとする狡智が作用した結果、人はみな自分の醜惡な動機を蔽ひかくさうとし、似ても似つかぬ善美な目的だけを掲げて、恰もさうした目的のために行動云爲するかの如く装ふのである。これは、自分のエゴイズムを他人に警戒されまいとする用心の發露で、逆面的に見れば、以つて他人のエゴイズム的弱點に乘じようとする以心傳心の狡智に外ならない。政治が人性の極醜的部面に出發しながら、しかも極美的部面の發揚であるかに取扱汰されるのは、斯うした欺瞞作用の結果と解して差し支へない。

殊に立憲制度は、お互ひがお互ひのエゴイズムを、インポテントのまま抑壓しようとする巧妙な組織であるから、尚さら大義名分的な看板を掲げる必要が濃厚である。正義のため、自由のため、人道のため、國家のため、等、等、凡ゆる倫理的技巧は彼等の政治的手段を效果的ならしめんとして、個人の凡ゆる利己的傾向の基礎上に行使せられる。政治に若し倫理的動機がありとすれば、その命令權は自由意志から派生したものでなく、倫理的動機がなければやつて行けぬといふ必要、即ち一個の社會的必要に胚胎したと解すべきであらう。鷄が先か卵が先かは不明でも、政治目的が先で倫理動機が後だつたことは明白に理解し得られる。寧ろ謂はば、倫理的動機そのものが、政治的オルガニゼーシヨンの一部として發達して來たのである。そこの道理を忘れ、本末を顛倒するやうでは話しにならない。

4 立憲政治の母胎

政治學教科書の記すところに依れば、政黨は責任政治の執行をなす上に於いて、絶對に必要にして不可缺のものだといふ。或はさうかも知れない。巧言令色なりの政綱政策であつても、人氣吸収の手段として登録商標的に掲げた限り、結局彼等の自繩自縛を促がすことになり、延いては責任政治の確立に貢獻するのも事實である。けれども、それは偶然の結果に過ぎず、政黨的結合をなす抑もの物理的乃至心理的の動機は、何もさうした高級目的の實現にあるのではなく、これに依つて彼等の利己的滿足を追求せんとするからに外ならない。

人類の發達が未だ幼稚であり、その欲望も主として色食に限られてゐる間は、社會生活に何ら複雜な機能を必要としなかつた。物理力的強者に依る物理力的弱者の支配といふことだけで、支配統制の政治機能は十分に維持されたのであつた。然るに、次第なる人類の進化が欲望の分裂を促がし、前述の如き優勝慾とか猜疑心とか、如何にも反社會的傾向と見られ易き變形的社會本能を發達せしめると同時に、個性の複雜化を來たした結果、政治機能そのものも、單なる物理力強制だけでは維持を困難としたのである。けだし、優勝慾は自己エゴイズムを奔放に發揮せんとする傾向であり、猜疑心は他人のエゴイズムを極端に警戒する傾向であつて、兩者が錯雜混合して作用する限り、善くも惡くも結局、相互のエゴイズムをインポテントのまま抑壓するの外なかつたからである。立憲制度はその意味で、各人をして各人のエゴイズムを發揮せしめざる人爲的組織だつたとも解されよう。

とはいふものの、人間の利己的本能は、そんなことで拂拭されるほど微弱ではない。堰かれれば堰かれるほど、戀の早瀬を決するが如き勢ひを以て、如何なる方面の如何なる形式に於いてか再生の立場を發見せんとする。協談的なら協談的なりに、合法的なら合法的なりに、如何にも協談的乃至合法的なことを装つて、巧みにその裏で利己的本能の充足を追求せんとする。

立憲制度は利己心牽制の、驚くばかり精密にして緻密な組織である。その大黒柱たる憲法は、政府と國民との自由活動を極度に規制した成文である。行政、立法、司法の三權が特立し、相互に侵し侵されざることを原則たらしめ、苟くも惡事惡行の發揮の餘地はこれを殘さない。また國政運用に當る政府に對しては、議會といふ小姑を設けて嚴重に監視させ、非違あらば直ちに糺彈し得る權能を與へ、これには選擧に依る國民の代表を以つて充當せしめてゐる。隨つて、立憲政治の名目上の中心は議會であり、立憲政治即議會政治と見て差し支へない。ところが、議會政治の基礎は夜店の蜜柑なみに多數主義である。猫が杓子でも、頭顱的多數を集め得れば文句はなく、茲に少數支配に對する反動としての多數主義が、新しい政治道徳として出現したのであつた。別言すれば、多數の猜疑心が少數の優勝慾を壓倒して、立憲時代の政治原則たらしめた譯である。

今や多數の猜疑心は、デモクラシーの名の下に、あらゆる政治活動の自由を規制しつつある。若し或る者が政治上の優勝慾を充足せんとすれば、彼れの利害が如何にも大衆の意志を代表するかに誇稱し、大衆の意志を意志として彼れが發現するかに少なくとも表面上は取りつくろはなければならぬ。さもない限り、大衆は彼れの野心を猜疑して、決して彼れを周圍に近づかしめないであらう。嘘も方便、斯くして政治上の野心家は、國利民福の羊皮を冠つて凡俗的羊群を瞞化すると共に、恰も彼れの政治目的が倫理動機に出發せるかの如き口吻を弄し、祕かにエゴイズムの爪牙を磨くに至らしめた。茲に於いて、倫理的技巧は政治的技巧と完全に一致する。

政黨なるものは、斯うした野心家共が、彼等の大なり小なりの野心を追求する手段として、有象無象を問はぬ一山十錢連を掻き集めたものに過ぎない。唯しかし、有象にしても無象にしても、生きとし生ける人間は必らず各自の利害を有する。歴史的に地理的に、人種的に宗教的に、經濟階級的に職業的に、その他、はなはだ複雜多岐なる利害を交錯的に所有してゐる。その限りに於いて、有象無象なりにも彼等を掻き集めるためには、彼等の直接に關心する利害問題を掲げて、恰かも彼れが、彼等の利害に殉ずる使徒であるかに装ふ必要も生じてくる。政治家といふ政治家が、一人の例外もなく、政治的支配に優勝慾の充足を求めようといふ最も露骨なエゴイズムの所有者でありながら、國利の民福のと、どこを押せばそんな音が出るかと思はれるやうな善美的な理想を竝べ立てる心理は、彼等が意識すると意識せざるとを問はず、他人の猜疑心を挑發せざらんとする極度の用心が然らしめた結果である。政黨の掲揚する政綱政策も、甘きにつく蟻を集めるための砂糖的意味を出でない。

5 政黨の羊頭狗肉

立憲政治は今もいふ通り、猜疑心を母胎として成立したものである。その縮圖たる議會の組織も、それぞれに異なる關心を抱く國民を甲乙なく代表するかに見せかけ、ヨリ大なる關心にヨリ小なる關心を追隨せしめる仕掛けとなつてゐる。實際問題として、いづれをヨリ大なる關心とし、いづれをより小なる關心となすべきかの判定は困難であるが、そこにソコありフタあり、選擧制度といふ特別のカラクリに依て瞞化してゐるのである。

選擧は投票の自由行使である。自分の意中にある者を選出することに依り、自分の意志を彼れに依つて間接に代表せしめ得る方法である。然しこれは、單なる名目上の形式に過ぎず、選擧者と被選擧者は互ひに生ま身の人間である限り、兩者の完全な一致などは有り得べき道理がない。一旦選擧されれば、似ても似つかぬ鬼ツ子の面目を發揮することは、世上その實例の餘りに多きを憾みとする。唯それなりに、政治家商賣は人氣稼業であるから、次回の投票を掻き集めるための信用を繋がなければならぬ必要上、餘り阿古木な處置を取ることが出來ないといふ現實的な理由があるので、露骨に選擧者の意志を蹂躙しないだけである。

これは個人の場合も集團の場合も同じだ。集團といふ意味は、取りも直さず政黨を意味するが、譬へていへば政黨も一種の店舗である。隨つて、出來るだけ永く顧客の信用を繋ぐ必要があり、政綱政策として發行した約束手形の處置は、彼等が内心で好む好まぬに拘らず、外部的に決濟を強要されることにもなつて來る。そこで『招かざる客』の責任政治の樹立にも結果し、ウソから出たマコトの善政が期待される所以でもある。憲政會は十年の野黨時代に沈湎した結果、政友會に對して反對のための反對を強持しなければならなかつた。何のために斯く反對したかといふに、政友會に依つて代表される利害と、全く正反した利害を感ずる分子を糾合せんがためであつた。斯くして、政友會の保守的政策に對しては進歩的政策を、積極的政策に對しては消極的政策を、それぞれの必要に依つて高調して來たに過ぎぬ。幸か不幸か、自棄半分の手形濫發ではあつたが、一たび政權を獲得するや、普選法案を提出し財政整理を斷行するの餘儀なき事態が生じ、謂はば自繩自縛に陷つた感が認められる。田中内閣の地租委讓にしても然り、民政黨の集權的財政策に對して分權的財政策の提唱が必要だつたばかりに、飛んだウソからマコトを放出するに至つたものである。

政黨の斯くの如きオツポルチユニズムは、その成立が既に臨機應變的だつたことを想像せしめて餘りある。即ち政黨は、その指導者たる幹部の側からいへば、これに依つて彼等の政治的支配慾を充足するための手段であり、追隨者たる黨員の側からいへば、彼等の生活的利益慾その他を達成するための手段であつて必らずしも主義の異同や、或は政策の相違に依つて分別されたものでなく、兩者の利害の微妙なる相扶關係に支持されてゐるのである。故に若し、相互間の利害關係が背反した場合は素より、彼等を吸引するヨリ大きな利害關係が新しく生じた場合は、弊履の如くこれを棄て去るに何らの躊躇を感ずるものでない。政黨の頻繁なる妥協苟合、或は離合集散といつた現象は、圖らずも性來のエゴイズム的馬脚を露出したものと解せられる。

政黨的結合が既に斯くの如く、便宜的にして暫定的なものであるとすれば、永遠の結束を約束する如き主義とか政策とかは、全く無用の長物の如くにも考へられるであらう。或る意味では、それに相違ない。けれども、他の意味に於いては、便宜的にして暫定的なればこそ、特に勿體らしき主義や政策を擔ぎ出す必要があるとも言ひ得る。けだし主義や政策は、それを掲揚することに於いて、恰かも彼等自身が、さうした倫理的動機を中心として結合したかの如く錯覺せしめるに役立ち、延いて相互の結束を規制する手段に貢獻し得るが故である。殊に人間と生れた淺猿しさは、カサケとウヌボレを免れないのが通弊であるから、自分の行動云爲が利害觀念に動機せずして、反對に道徳意識に發現したかの如く思ひ込みたがる弱點を有する。主義政策の掲揚は、その意味で斯かる人情の弱點を巧みに利用し得るが故に、内にしては舊黨員の結束を制約し、外にしては新黨員の投入を刺撃するに有効であつた。

6 政策に異同なし

政黨は個々人と同じく、その内情が醜惡であればあるだけ、外容の善美を殊更らに誇張するやうになる。市井の泥棒が惡事の數を重ねるにつれ、待合の女將が非行の數を重ねるにつれ、却つて神信心に凝り固まるといふ事實は、世上往々にしてこれを認めるところである。これは彼等が、平素の背徳に苛責される餘り、一時の信心に依つて埋め合はせをつけようといふ心理の現はれに外ならない。政治に於ける倫理的動機の誇張、然り政治學者が敢てなす誇張は、政治それ自體の惡を瞑默せんとする狡智に出づる部分が甚だ多い。殊に黨人に至つては、彼等自身が當の犯罪者である關係上、他人と共に自分をも瞞化せんとして、不自然と思はれるまで彼等の目的理想を誇張したがる。國家のため、人道のため、取つてつけたやうな氣焔を吐いて、他人と共に自分をも煙に卷くことを忘れない。主義主張も政綱政策も、所詮は泥棒の神信心と同樣である。

信心對象としての主義政策であつて見れば、言ふまでもなく、鰯の頭より鯛の頭だつた方が有りがた味が多い。そこで政黨の看板も、成るべく御利益がありさうな御神體を擔ぎ上げる必要があり、火難、水難、劍難、盗難……有りと凡ゆる災難避けを算へ立てたところ、觀音樣の御札も遙かに及ばざるを遺憾とする。實際、政黨に依つて掲げられる主義や政策は、村田屋の店頭を飾る煙管のサンプルに類し、見たところは如何にも、偉大にして善美を極めたものであるが、必らずしも實用的價値を考慮して製造したものではない。看板として觀客を吸引するための必要のみに出でてゐる。既に看板的必要であるから、甲黨も乙黨も似たり寄つたりの巧言令色を試みるのが當然、まして執り行ふ實際政治に至つては、殆んど相違を見ないのが常である。

政友會と民政黨の政綱政策を比較する限り、彼等が何故に對峙する二大政黨として分別しなければならなかつたか不明である。勿論、地租委讓の義務教育國庫負擔のと、鳴り物入りの看板を先頭に押し立ててはゐるが、これとて突きつめて行けば、地方行政の疲弊困憊を救濟するといふ眼目にしてゐるので、眺めんとする高嶺の月の姿に變りは發見されない。唯だ分け登る麓の道に多少の相違があるのみ。こんな相違は、彼等をして犬と猿との關係に於いて啀み合はせる原因たるべしとは考へられぬ。それにも拘らず、現に見る如き状態で抗爭角逐を能事としてゐるのは、彼等の政權目的を中心とした利害が根本的に背反するからである。つまり啀み合ひの原因は、主義政策の發生以前すでに用意されてをり、唯だこれを大義名分化する必要があつたから、無くもがなの主義政策に強ひて異同辨別を求めたに過ぎない。所詮は反對のための反對である。それもこれも、彼等の露骨なエゴイズム的動機を紛飾する手段であり、ヨリ社會的な看板を掲げることに依つてヨリ一般的な關心を吸収し、まるで彼等が主義主張に殉ずるかの如き出鱈目を誇張することに依つて、目前の政治鬪爭をヨリ有利に展開し得るからに外ならない。何ぞ知らん、坊主を憎むが故の袈裟の憎みである。怪寫眞を擔ぎ上げ、怪文書を拾ひ出し、政爭が陰險性と辛辣性を加ふるにつれ、それが『國家のため』であることを極度に宣傳する心理は、その最も具體的にして代表的な實例であらう。

斯うした巧言令色は、何も政友會と民政黨にのみ通有する弊風ではない。時間の古今を問はず、空間の東西を問はず、階級の上下を問はず、凡そ政黨といふ政黨は悉くさうした僞善的集團である。有産黨が必らずしも有産者の利害のみを掲げざる如く、無産黨また必らずしも、無産者の利害のみを主張するのではない。彼等も亦『國民大衆の利益』を伸長し、且つ『社會協和の理想』を促進することを高調力説してゐる。共産黨の如き明白な無産者獨裁の支持者でさへ、それが將來の『無階級』を招來する過程であるかに辯明しつゝある。この事實は、如何に政黨が、全體の意志を自己の意志として體現せるかに誇張しなければならぬか、如何に一部の利害のみを代表せざるかに紛飾しなければならぬかを語るものである。けれども、實際に於いて、公共的福利なるものは存在し得よう道理がない。同じ性慾充足の手段にあつても、熊公の吉原説と八公の洲崎説が常に抵觸する如く、各人が各人の利害を執つて降らない限り、萬人が萬人に都合のよい福利を想像するなどは痴人の迷夢である。而も迷夢なりに、有産黨も無産黨も、假定的な公共福利を實在的なるかに説き立て、以つて黒燒の本家爭ひに餘念なく沒頭しつつある。だからこそ、主義も政策も多くは似たり寄つたりに結果すべく、せつかく亂立して呉れた我が無産諸黨にしても、如何なる理由と必要に出でたものであつたか、第三者は素より當事者とて知る由もあるまい。

7 泥仕合ひの效果

政黨の本質は斯くの如く僞善的である。その原因は、餘りに彼等の實體が醜惡だつたからである。何故に醜惡かといへば、その結合が最も露骨なエゴイズムに動機してゐるからである。自分が他人を支配するといふことは、單に彼れの優勝慾を滿足させるのみでなく、これに附隨する幾多の物質的慾望も、同時的に達成し得るからに外ならない。そこで政黨對政黨の鬪爭は、勢ひ最も多く原始鬪爭の面影を殘存することともなつた。有るものは單なる敵意であり、いやしくも手段を擇ばず、政權獲得を最後の目的として對手の死命を制すべく努力する。若し議會に於ける數學的事實が、明白に勝利を確定してゐるなら正攻法も採らうが、不幸にして少數だつた場合は、政府乃至與黨の落度を有ること無いこと囃し立て、時にはその刑事犯罪を摘發してまで、嫌でも應でも失脚を餘儀なからしめるやうに仕向ける。舊くは山本内閣に對するシーメンス事件の摘發の如き、近くは田中内閣に對する機密費事件の摘發の如き、いづれも斯かる目的のために仕組まれた芝居に外ならない。それ程でない場合でも、政府乃至與黨の處置を道徳的見地から辯難攻撃する戰法は、これも東西古今を問はず慣用された手段である。若槻内閣に對する朴烈事件、マクドナルド内閣に對するキヤンベル事件等、これは國本の基礎を危殆ならしめるといふ大袈裟な筋書からなされた悲喜劇である。而も結果は、直接間接に政府倒壞に貢獻した意味で、決して無駄な努力だつたといふことは出來ない。

政爭が深刻になればなるほど、斯うした泥仕合は常に繰り返へされる。素より醜惡には違ひない。だが、政黨の實體はそれ以上に醜惡なのである。平清盛の醜惡が、衣の下から鎧を露出した時に始まらなかつたと同じく、政黨の醜惡も泥仕合をやることに依つて始めて生じたのではない。圖らずも泥仕合に依つて、醜惡の馬脚を一端だけ暴露したに止まる。然し河岸を代へて考へれば、斯くの如き泥仕合があればこそ、政黨は相互のエゴイズムを牽制し得たのである。假りにデモクラ屋の口吻の如く、フエーア・プレーでないといふ意味で泥仕合を遠慮してゐたなら、彼等の惡事非行は天下御免、國民大衆の利害などは名實とも床の間の置き物とされてゐたであらう。それが曲りなりにも保障されたのは、偏へに泥仕合のお陰げであつた。勞農黨一派は暴露戰術といふ。他黨幹部の非違を摘發することに依り『大衆』の信用を剥奪するといふ意味である。柄に似合はず巧言令色的であるが、それなりに戰術として大きな效果を發揮すべきは疑ひを容れない。

大體、政爭をフエーアならしめようといふのは、鵜の眞似をする烏の身の程を知らぬ愚かさに似てゐる。尤もこの場合、もし對手方の泥仕合的追撃を免れんため、豫め高飛車にこれを抑へつけようといふなら面白味もある。だが、さういふ御本人まで自己陶醉に耽り、對手の條件も考へず、自分ばかりフエーアがつてゐるなどは、愚かといふも尚ほ及ばざる感が深い。殷鑑遠からず、目前の總選擧に大元締を勤める鈴木内務大臣の如き、勿體なくも『腕の喜三郎』と呼ばれながら一向に腕の冴えがなく、デモクラ的弱氣を一人で脊負つてゐるのである。それ故にこそ、古宇田知事の起訴も承認しなければならず、無産黨代表の掛け合ひに對してすら『親の心子知らず』などと、大眞面目さうに恐縮を表白する醜態を演じなければならなかつた。弱將の下の弱卒たる山岡警保局にしても、獨善的な氣焔に我れとみづからが陶醉し、まんまと鼻毛を抜かれた府縣會選擧の失敗も忘れて、他愛のない『選擧第一主義』などと來るから嗤ふにも嗤へぬ。星亨を經て原敬に至るまでの政友會は、勝てば官軍敗ければ賊軍の主義を、實に心憎きまで體現した政黨であつた。目的のためには手段を擇ばず、有象が無象でも掻き集めて議會の數學的勝利を確保しようといふ意氣は、飽くまで強氣の一點張りだつたのである。然るに、今日のデモクラ化は如何か。あれでは、斯道の先輩たる民政黨を覗つて遠く及ばず、遲かれ早かれ、この儘で進む限り衰頽は免れないであらう。

院内の政爭は素より院外の政爭も、それが力と力との抗爭である以上、強氣の火力が白熱してゐないと見物は面白くない。面白くないといふ意味は、單に興味本位の遊戲氣分からばかりでなく、緊張の缺乏が當然政界の墮落を豫定するからでもある。緊張に緊張して、時と所とを嫌はず泥仕合でもやつてくれると、さすが横着な黨人も不渡手形を濫發することが出來ず、惹いて惡事の發揮も困難とするので、茲に政界の謂はゆる進歩と廓清なるものを期待し得るのである。

8 有産無産共に醜

説き來たつて政界の現状を瞥見する。鐘や太鼓の宣傳も賑やかに、今や選擧戰の最中である。政友會も民政黨も、生れ落ちて以來の無産者の味方だつたやうな顏で、善美を盡くした社會政策を約束しつつ、以つて普選に依る新有權者の人氣に投合せんと腐心してゐる。實同會も革新黨も、どうせ政權希望に見棄てられてゐるといふ安心があるものか、實行の可能や不可能は言外に置いた政綱政策を掲げ、ザコのトトまじりを氣取るも優に柔しき情景である。考へて見れば、これがつひ先年まで、普選が危險思想だの時期尚早だのと、臆面もなく太平樂を竝べてゐた政黨だとは思ひもつかないであらう。進歩の實跡や驚嘆すべし、と言ひたいところだが、實はそれほど眞面目に考へる必要がないほど、彼等の臨機に應變するオツポチユルニズムは徹底したものである。換言すれば、彼等は人氣稼業の人氣稼業たる所以を知り盡くし、流行とあれば、劍劇に憂き身をやつす役者の器用さも所有してゐるのである。而も彼れが、本心から劍劇俳優たることを好むか好まぬかは問題でなく、要は斯く扮装することに依つて、見棄てられんとする自己の人氣を繋ぎ得れば足りるのである。

唯しかし、彼等は人氣を顧慮する商賣主義に徹底してゐるだけ、突拍子もない豹變をなすことに依り、舊來の人氣まで放棄するやうな莫迦な眞似はしない。あちらを立てこちらを立て、そこで我が身の立つ瀬を求めんがため、少なくとも表面だけでも、主義主張の一貫を取りつくろはんとする用意だけは忘れない。ところが、これが無産政黨方面になると、素人の悲しさも勿論あるにはあるだらうが、主義主張を輕視すること塵芥の如くである。その癖、平素の口吻は主義主張に對して狂信的熱誠を披瀝し、有産諸政黨の無定見無節操を目の敵と心得てゐる人種だから呆れる。隨つて、彼等の離合集散は一から十まで御都合主義であり、その日とその場の風の吹き加減で、最も露骨なエゴイズム的動機から右往左往して定住するところがない。兩三年以來の、餘りに多き實例は默殺するにしても、最近發表された日勞黨と日農黨の合同聲明の如き、あれくらゐ徹底した豹變ぶりは、無産黨は兎にかく有産黨では嘗て發見されなかつた。

天地神冥も照覽ある如く、現在の日農黨に對し『ブルヂヨアの走狗』の『政友會の下廻り』のと、不倶戴天の仇敵として極度の惡罵を放つた者は、誰れあらう、現在の日勞黨一派がその急先鋒であつた。彼等が從來の態度を更めない限り、生きて此の世で提携せぬと聲明した舌の根も乾かぬ間に、明白に『從來の態度に誤まりがなかつた』と聲明しつつある彼等を迎へるといふのだから、これほど人を莫迦にした話しはあるまい。從來の態度を更めないといふ以上は、依然として日農黨一派は『ブルヂヨアの走狗』であり、同時に『政友會の下廻り』であるべき道理ではないか。春秋の筆法を用ふれば、日勞農もブルヂヨアと政友會に降伏したことになる。勞農黨一部の日勞黨提携派も然り、提携論を以つて黨内の立場を築き、延いてロシヤ本店の御意に添はうとする了見の程は殊勝だが、それにしても餘りにエゴイズムが露骨すぎるではないか。勿論、エゴイズムそのものが惡いといふのではない。エゴイズムは善くも惡くもないが、これを發揮する以上は、もう少し體裁だけでも理屈の辻褄を合はせなければ滑稽だといふに過ぎない。

以上、言はずもがなの長談議に墮した憾みもなしとせぬが、結局政治なるものは、直線的鬪爭を曲線的鬪爭で反映したものに過ぎず、政黨はさうした鬪爭機關としての現實的組織だつたことを理解すれば足りる。寧ろ見ように依つては、社會のあらゆる分野に、鬪爭本能を發揮されては困るので、官許御免の政黨内部に鬪爭本能を集約し、被害の波及を成るべく局部的ならしめんとしたものとも言ひ得る。その意味では、政黨は腫物のやうなものである。人體の生理組織は、毒物の全身的瀰滿を防備せんがため各部にそれを集約し、局部的腐蝕によつて全身的被害を免れしめる。人類の社會組織に於ても亦、毒物は政黨といふやうな一局部に押し込め、その内部で惡事惡行を公認することに依り、他の部分への被害波及を防備する作用があつたのだかも知れない。その點は公娼制度をも髣髴せしめる。差し詰め、議會は妓樓で議員は嫖客、欲望對象の娼妓は政治的支配に該當するかも知れない。


底本:『中央公論』第四十三年第三號(昭和三年三月)

改訂履歴:

公開:2006/01/30
改訂:2007/11/11
最終更新日:2010/09/12

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