思想惡導論

高畠素之

一 思想國難論の流行

尾崎行雄といふ先生が、去る特別議會で勿體らしい口髭をひねり上げ、例の三箇條にわたる國難決議案の説明をやらかした。政友會には政友會の思惑があり、民政黨には民政黨の打算があつて、それぞれ手前勝手な解釋の下に滿場一致で起立したが、さすがに氣がさしたか『腐つても鯛は鯛』だなぞ、妙に擽ぐつたい襃辭を奉つたものである。

それに刺戟されてかどうか、ちかごろ甚だ著しく大袈裟な國難的標語を耳にする。經濟國難の、外交國難のといふのは、政府みづから大臣待遇の委員を網羅して調査會を設け、曲りなりにも怨敵退散を努めつゝあるから滑稽に響かぬが、斷髪國難の、旱魃國難のといふに到つては、誰だつて意味の捕捉に苦しまざるを得まい。斯くて、悲痛深刻なるべきはづの國難沙汰も劇畫化され、日本人一流のお祭りさわぎに轉じてしまつた。當面の論題に供すべき思想國難もその通り、口を開けば匹夫匹婦の思想惡化を慨嘆し、今にも國體國家が破壞されさうな口吻を洩らすが、さればといつて、如何にこれを防止するかの妙案は一向に有ち合はせがないらしく、ただ徒らに風聲鶴唳的な狼狽をくり返へしてゐるに過ぎない。

經濟國難や外交國難に於いても然る如く、思想國難の事實も亦、日本當今の現状では必らずしも『狼が來た』の譬へに類すべき空念佛ではない。小心的に考へてゆけば、それがため國體國家が累卵の危きに瀕してゐるといふも誇張ではなく、若しこのまゝに放置したなら、瓢箪にあらざる厩屋から駒を出す必然の結果ともなるであらう。だからこそ、識者や役人は思想善導に抜け目なからんとし、田中首相も濱口總裁を訪問して、外交問題と同時に思想問題に於いて朝野兩黨の協調的對策を談議したわけだらうが、そんなことで思想が善導し得られると考へる『思想』こそ、先づ何によりも『善導』されなければならぬ緊急の必要がある。

思想などといふものは、善光寺參詣人を牛が曳きずるやうに、その時その場の都合で、そう得手勝手に善導したり惡導したり出來るものではない。泥棒が來たから繩をなひ、共産黨事件が起きたから日本主義を鼓吹しようといふのでは、平素の善導的用意の杜撰さも想像せられ、あはてればあはてるだけ敵の術中に陷り、せつかくの善導的對策も惡導的結果を招くことになつてしまふ。

殷鑑遠からず、文部省的役人の善導施設が即ちそれだ。彼等は學生の思想惡化を防止かつ矯正する意味で、大いに東洋古典研究を奬勵し、科學教育に對抗して精神教育をはかるといふ。誠に結構な思ひつきだと襃めてやりたいが、實は襃めるべき何ものもないのである。何故に然るか?

二 科學萬能の世の中

科學教育に對抗して、精神教育を作興するといへば、一見いかにも卓見らしいやうにも聞こえる。當世流行の『思想には思想を』のモツトーにも適應するし、研究蹂躙の、思想彈壓のといはれないだけでも、デモクラ的弱氣に慣らされた彼等としては、大いに助かるといふものであらう。だが、精神教育といふ表面の看板は尤もらしいが、内容は舊套依然たる東洋哲學講座の増設であつたり、和漢文學講座の新設であつたりしては、一向に智慧がなさすぎるのである。

西洋哲學に對して、果して東洋哲學が優秀であるか、或は西洋文學に對して日本文學なり支那文學なりが、どれだけ卓越してゐるかは知らぬ。恐らく一長一短を免れざるべく、必らずしも前者に對して後者が勝れてゐるとは考へられぬが、假りにそれが勝れてゐたにしたところで、これを以つて思想善導の武器に利用し得ると考へるのはをかしい。といふのは、今日の思想惡化は西洋流の哲學や文學の輸入によつて齎らされたのではなく、もつと別個な事實――謂はば、科學文明の影響によつて生れたものだからに外ならぬ。

現代は科學萬能の時代だといはれる。その意味は、善惡いかやうにも取れるが、現代の文明が大小となく科學の影響の下に成立してゐる事實は否定すべくもない。最も卑近な實例に見ても、我々の日常生活は行住坐臥ことごとく科學の恩惠をかふむり、出づるに電車、歸るに自動車、上るにエスカレーター、下るにエレヴエーターといふやうに、單なる乘り物だけに見ても悉く科學の力に依頼してゐる。オーギユスト・コムトの言ひ草ぢやないが、斯くの如く科學は我々の物質生活を豐富ならしめたのであつた。とはいふものゝ、物にはとかく表裏の背反を免れず、一利あれば必らず一害がこれに伴ふ。それほど人類の生活を多幸ならしめた科學ではあるが、他の半面にあつては、負けず劣らずの不幸を人類に運命づけたのであつた。

先づ第一に、科學の申し子たる機械の影響が算へられる。機械は人間の手となり足となり、これに代つて何千百倍の生産力をもたらすことが出來、それだけ我々の物質生活を豐富ならしめたが、同時に人間の勞働をこれに隷屬せしめ、人間をして機械の補助要具たる地位に低下せしめてしまつた。加ふるに、機械的生産の充用は、それに伴ふ工場の設備なり、原料の購入なり、勞働者の雇傭なりに多額の金錢を必要とする關係上、一方に資本だけ提供して濡れ手に利潤の粟を掴みどりする階級と、他方に裸一貫に持つて生れた肉體の勞働力を提供して、その日その日の米代を稼がなければならぬ階級とを限別せしめ、富める者ますます富み、それに比して貧しき者ますます貧しかるべき社會を造り上げた結果、人道的見地と同時に社會正義の見地から、現代の社會組織そのものを更改せんとする一派の思想を發生せしめたのである。

甚だお粗末ながら、危險思想の通稱を以つて呼ばれる社會主義(廣い意味での)とは、早い話しがそんなものだと合點しても大過はあるまい。

三 科學には科學を!

社會主義思想そのものが、既に斯くの如き起點に發足する限り、如何に東洋哲學の幽玄を説いて聞かせ、如何に日本文學の妙味を教へ込んで見ても、所詮は馬の耳に念佛たるをまぬかれないであらう。猫に小判を與へ、豚に眞珠を與へることは、昔しから愚の愚たるゆゑんとされて來た。然るに、わが文部省的役人は、社會主義かぶれの學生づれに小判を與へ眞珠を與へ、それで猫や豚を善導し得るかに考へてゐるのである。

猫を手なづけんとすれば鰹節が第一、豚には大根か人蔘の切れツぱしでも與へて置くがよい。それと同じく、社會主義書生を善導せんとすれば、おのづからなる小乘的方法がなければならぬ。小乘的方法とは他なし、科學の立場に於いて彼等を理論的に説服し、以つて流行インタナシヨナル・コムミユニズムの誣妄を摘發するの一事である。

今もいふとほり、現代はあらゆる意味で科學萬能の時代だ。啻に物質的方面に於いて、然るばかりでなく、精神的方面に於いても、飽くまで理屈のメリハリは明瞭なることを必要とし、苟くも呂律の平仄に破調を許さうとはしない。論より證據、彼等の隨喜渇仰する社會科學なるものは、人間活動の内部に超人間的法則を發見せんとする試みであり、熊公八公の一擧手一投足に對してすら、これを天體運行の法則に照應して理解を『科學的』ならしめんとしてゐるのである。それほど科學の名稱は彼等の心理を緊縛し、たとひウソがコジツケでも、もし科學の衣裳を外面的にまとつてさへをれば、白晝公然の眞理として大道を濶歩し得られることになつてゐる。

擧世蕩々たるマルクス主義への讚仰も、大半はそれが逸早く『科學的社會主義』の名を僭稱したことに歸せられる。即ち、みづからを科學的と呼ぶことに依つて、爾餘凡百のそれを非科學の埒内に押し込めた手腕が、今日の流行をいやが上に助長したと見られる節が多いのである。もちろん、マルクスの提説は、その意味で充分に『科學的』でもあり得た。が、彼れのいはゆる科學的豫言が殆んど悉く外れたところを見ると、彼れの提説の科學的な點は、必らずしもその理論が嚴正科學的に正確であつたのではなく、理論を驅使する技術が科學的であつたと見るのが適當であらう。

それは兎にかく、科學萬能の風潮が斯うまで痼疾化してくると、好む好まぬに拘らず、思想善導の對策は飽くまで科學の陣營に於いて考究されねばならぬ。『思想には思想を』もつて對抗すべきものなら、對手の『科學思想には科學思想を』もつて對抗するが當然、古色蒼然たる蟲干し思想を持ち出したところで、機關銃に對する石火矢ほどの威力も期待されまい。

四 善導が變じて惡導

東洋哲學もよし、萬葉文學もよし、私は敢てそれにケチをつけようといふのではない。けれども、如何にせんそれらの哲學や文學は、當世流行の社會科學に對して全くの異國語である。メリケン水夫と横濱仲仕の口論より以上に、對手に對する毒舌的反應は稀薄であり、お互ひに陳紛漢紛で要領を得ない國語的關係に置かれてゐる。これでは、如何に善導を企てたところで效果のあるべき道理はなく、水は水、油は油、しよせん永久に溶解の機會とてもあるまい。

文部省的思想對策は、その意味に於いて全く無益の努力と言はなければならぬ。それどころか、寧ろはなはだしく有害な方面さへ多いのである。彼等は科學教育に對立して精神教育を普及し、前者のもたらせる惡思想を後者の力で善導するといふ。意氣やまことに壯とすべし、さりながら、物質科學に精神主義や東洋思想を善導的に對立させることは、結局に於いて物質科學そのものが惡思想だといふにひとしく、天體の運行や機械の運轉に向つて喧嘩を吹ツかけねばならなくなつてしまふ。それでは、我れとみづから年來の科學教育に裏切り、彼等のいはゆる善思想が、科學の立場に於いてはたうてい惡思想に太刀うち出來ぬことを白状したも同然である。ウソがコジツケでも、科學の衣裳をさへまとつてをれば眞理として通用するといふ世に、さりとは下手な戰術をとつたものではないか。

文部省的役人の善導的對策は、その意味に於いて寧ろ惡導的結果を招くがオチである。即ち彼等は、精神主義や東洋思想を物質科學に對立することに依つて、遺憾なく自己の非科學的なところを暴露せるのみならず、いはゆる科學的理論の武器を危險思想の陣營に投げ與へて、我れと我が身の首を絞める結果に陷つたのである。科學といへば一も二もなく盲信する代り、然らざるものは頭から輕蔑してかゝる當今の風潮としては、それもやむを得ざる當然の徑路だつたと言はなければなるまい。

もちろん、斯くの如き風潮が善いか惡いかの段になれば、人おのづから見解の相違もあるであらう。だが、善いの惡いのといつたところで、それが動かすべからざる現實の事實であるとすれば、善くも惡くも科學に對しては科學を以つて對抗し、理論に對しては理論を以て對抗するの道を講じなければならぬ。そこの道理を知るや知らずや、文部省的役人は精神主義や東洋思想の功徳で對手を調伏することばかり考へてゐるが、これは取りも直さず、文部省に善導的科學や善導的理論の有ち合はせがないことを白状するゆえんであり、對手の輕蔑に比例して惡導の結果を助長するゆえんに外ならぬ。

考へても見よ、みづから信じて科學的なりとする理論に對して、文部當局なり學校當局なりにこれを反駁すべき別個の科學的理論なく、古色蒼然たる東洋哲學や日本文學の有りがたみを押し賣りされては、誰だつて『我れ世に勝てり』の自惚れを持ちたくなるであらう。文部省的善導對策は、さらでだに持ちたき若氣の自惚れに對して絶好の挑發力を有する。その意味に於て、彼等の施設は當初の善導的希望に拘らず、似ても似つかぬ惡導的結果をもたらすに貢獻したわけだが、それもこれも身から出た錆といはねばなるまい。

五 思想が危險に非ず

文部省による思想惡導は、單にそれのみに止まらぬ。二百五十萬圓とかの豫算を計上して、來年度から實行に取りかかるといふ善導教育の施設は、學校教育の方面に於いても、社會教育の方面に於いても、悉く甚だしい無知と同時に無策を暴露したのであつた。

先づ學校教育に關する部分を見る。この方面にあつては、前述せる精神教育の充實といふ案のほか、思想調査機關の設置、學生監生徒監の増員等、主として懲罰的意味を含んだ訓育施設が多い。が、如何に泥繩的急造の必要を訴へられてゐたにしても、斯うした外部的な強制力を以つて、思想航路の人爲的轉換をはからうとする方針は、少くも善導を看板とする限り自家撞着の譏りを免れまい。

もちろん私は、ブルヂオア・ジアーナリストの亞流に追隨して、お定まりの『思想には思想を』主義の原則的適用を主張せんとするのではない。思想などといふものは、それ自身を單獨に切りはなして見れば、毒にも藥にもならぬこと屁の如しといふのが私の持論、その手前からしても、思想彈壓がけしからんなどと言へた義理でもなし、またそんなことを言ふつもりもないが、文部省が今度のやうな巧言令色で思想善導をやらうといふのであれば、右のやうなヤリ方は效果的に當を得た措置ぢやあるまいと言ふのである。

思想の危險性は、思想それ自體の本質的特性に發動するのではなく、それが或る現實的な力と結びついて、始めて危險にも穩健にも變通し得るに過ぎない。早い話し、一切是空の虚無主義に出發する佛教哲學は、あらゆる現實的な權威を否定する意味で、單にこれを思想的見地のみから觀察すれば、危險この上もなき親玉といはなければならぬ。ところが、實際に於いては些さかも危險的威力なく、却つて文部省的思想善導のお先棒を擔ぎ得るほど穩健的に通用するのは、結びつく現實に少しも危險的要素がないからであつた。これに反して共産主義の如きは、思想として見れば如何にもチヤチを免れず、佛教哲學や老莊哲學の危險程度に比較すれば、その足許にも寄りつき得ない程の穩健性を暴露してゐる。而かも尚ほ、實際的に甚だしき危險的威力を發揮して上下内外を震憾させ得たのは、主としてこれが結びつく現實の對象が危險的だからである。即ち、佛教哲學や老莊哲學が空漠たること夢幻の如き抽象論に耽溺するに反し、共産主義は生ける現實の社會的缺陷を摘抉してこれが改廢を具體目的とするところに、危險程度の甲乙がおのづから生じたのであつた。

その意味に於いて、一個の思想的危險を別個の思想的穩健によつて緩和しようといふ試み、換言すれば『思想には思想を』もつて對立させることは、全く無意味の努力だとも言ひ得るであらう。隨つて、思想調査機關を完備して黒表的生徒に學生的進級の關門を遮斷するもよし、學生監生徒監の充實に依つて學校警察を遺憾なからしめ、あらゆる思想犯罪の内部的絶滅を期するのも結構である。だが、それでは危險思想を徒らに厄病神として怖ぢ毛をふるふもの、善導といふ觸れ込みとは似ても似つかぬ臆病さではないか。斯くては、不逞青年の不逞了見を増長し、我れとみづから正々堂々の論陣を張つて勝目なきことを告白し、イタチの最後ツ屁に類する彈壓の奧の手を出したと誤解(?)されやすい。

六 中學教育も改惡か

上級學校の善導施設に、斯くの如き時代的無知を暴露した文部省は、中等學校の善導對策にも、飛んだ錯覺の制度改惡を斷行せんとしつゝある。尤もこの方は、中學教育調査會の私案に過ぎず、大姑小姑の機關で審査される間に或は換骨奪胎されぬとも限るまいが、改善案そのものの根本趣意は、近き將來に於いて採用されるものと見て差し支へあるまい。

この案に從ふと、上級學年(四年、五年)を二部制とし、第一部には卒業後ただちに實務に就くもの、第二部には卒業後さらに上級學校へ進むものを包容し、前者には主として實際的教養を授け、後者には主として一般的教養を授けるのだといふ。必らずも惡からぬ案で、現在の如くどつちつかずの中途半端な境地に彷徨させて置くよりは増しであらう。隨つて、その點に關しては一切不服をいはぬが、それに伴つて學習科目の時間的増減を斷行し、外國語の時間を半減する代り國語漢文の時間を倍加するといふやうな方針に對しては、何とかの一つ覺えの譬へをそのまま、思想善導もかうなつては附ける藥のなきを悲しむ。尤も、中學校用の思想善導施設には、この外に尚ほ、國體觀念を涵養し國民精神を作興する意味で修身教育を奬勵し、東洋文化と日本文化の精華を明瞭ならしめる意味で東洋史乃至日本史の知識を普及するといふ案もあるが、それはそれとして、秀逸は何といつても、外國語の縮少を國語漢文で埋め合はせんとする妙案でなければならぬ。恐らくこれは、國語漢文の時間延長を可能ならしめんために外國語の時間短縮をはかり、原因と結果がアベコベ的に作用したものと思はれるが、白晝の天日に恐れげもなく、これが思想善導の一案だといはれては恐れ入らざるを得ない。

現在の中學生が、餘りに過重な外國語の負擔に閉口しつゝあるのは事實だ。それほど粉骨碎身しなければならぬほど、一般中學生に取つて外國語の習得が必要であるかどうか、その點に關しては、素より幾多の議論すべき餘地も殘されてゐるであらう。だが、同じ程度の粉骨碎身を、國語や漢文の修得に拂はなければならぬほど、しかく國語や漢文の一般的重要性が訴へられてゐるかどうかは疑はしい。といふよりも、そんな必要は毫末もないのである。死語や廢語で充滿する古典は、如何にそれ自體に文學的價値があらうと、當世實用の役には立たず、源氏物語や詩經を諳んじ得たところで、今日の時代に活用の機會を發見することが出來まい。

若し文部省の方針が、いはゆる腐儒をつくることに重點を置き、一切の生活的氣力を剥奪せんとするにあるならば、愚策は愚策なりに意味なしともしまい。が、一方に於いて中學教育を二分し、實際社會の實際知識を注入せんとするほど實用的なところを見せ、他方に死語や廢語の暗誦を強制するといふのでは、眞意の所在が奈邊にあるか解するに苦しむ。その位なら、寧ろ外國語の學習に力を入れた方が、學問的にも實用的にも雙つながら有效なのである。それほど外國語は、學問的には素より實用的にも、不可缺の必要を訴へられつつある。

七 本末因果を顛倒す

日本のやうに文化の發達した國民が、外國語に頼らなければ學問の研究が出來ぬといふのは、餘り感心した話しでないのみならず、それ自體が一種の國辱でもあり得る。そこで外國語を驅逐し、專ら本國語で學生生徒の學習を奬勵するといふ文部省の方針は、理想として大いに結構なこと疑ひを入れない。けれども、實際問題として現代の學問が、果して外國語の助けを借りずに獨行し得るか否かは、何人も疑問なきを得ぬところであらう。假りに現在、あらゆる外國語の助力を俟たずして獨行し得たところで、先方の日進月歩的な學術發展に遲れを取るまいとすれば、勢ひ外國語の痛切なる必要に迫られなければなるまい。國辱であらうが、何であらうが、その點に關する限り日本は彼等の後進國であり、當分はこれに追隨して國力の充實をはかることが肝要である。

中學教課に外國語時間の大削減を加へんとする文部省的役人は、思ふに外國語の知識あるが故に外來思想を輸入し、ために國民の赤化事實を助長するかの如く考へてゐるらしいが、これは猫いらずの存在が自殺者を増大すると見る解釋と同樣、本末因果の關係を倒錯した觀察といはなければならぬ。さきにも言へる如く、一の思想は一の與へられた事實から生れるもので、單なる思想が遊離的に移植されるのではない。

目前の問題に於いてこれを見る。社會主義思想は資本主義社會に附隨する樣々な現象、例へば資本蓄積とか、自由競爭とか、或はブルヂオアの必然的暴富とか、プロレタリアの必然的赤貧とか、すべてさうした一定の社會的事實が與へられ、これに對する當然の抗議的立場から發生したのであつた。して見れば、社會主義思想そのものは、現實の對象たる資本主義社會――資本制生産が廢滅せぬ限り、永久にその抗議的立場を棄てぬのが當然、對象たる資本制生産が増進すればするほど、それにつれて、社會主義思想の抗議的口吻も猛烈さを加へるであらう。

尤も我が國に於ける社會主義思想は、發生的にも沿革的にも、西洋のそれに負ふこと多大であつた。その限りに於いて、いはゆる外來思想の命名は必らずしも不當でないが、同時にまた、日本の現實の社會に斯かる思想を移植し發達せしめる何らの對象がなかつたなら、現に見るが如き勢力となり得なかつたとも言ひ得よう。逆面的に見れば、社會主義思想をして斯くの如き猛威を逞しうさせるほど、日本に於ける資本主義的現實は急速な發達を遂げてゐたのである。

明治年代の我が國民的目標は、文明開化であり、國利民福であり、海外發展であつた。その國民的目標に則り、明治の教育方針は專ら西洋の科學文明を採取することに集中せられ、知識も文物も制度も、悉く西洋的なそれを追隨するに寧日なかつた。斯くて僅かに半世紀、わが國富は驚くばかり増進し、嘗ての先進國を凌駕するほどわが文明開化を促進し得たのであつた。これが原因に關しては、大小幾多のものを算へ得るが、その直接にして最大なるは西洋の物質科學であり、同時にこれを基礎とする機械工業であり、換言すれば、資本制生産そのものの充用に外ならない。斯く西洋的資本主義は、日本人の物質生活を著しく豐富ならしめ、五十年前の如何なる空想家の如何なる空想を以つても描き得なかつたほど、日本國民の生活は物質的内容を増進したのである。

八 彼等の鈍感盲目振り

資本主義の斯くの如き發達に對し、直接間接これに最も貢獻したのは、言ふまでもなく明治以來の科學教育であつた。元來、資本主義經濟なるものは、機械の發見發明を前提として始めて成立が可能であり、その限りに於いて、科學と不可分の關係を保持する。即ち、科學の進歩がますます資本主義の隆興を助け、資本主義の發達がいよいよ科學の發達を促がし、相互關聯的に一は他の原因となり、他は一の結果となつて來たのである。

資本主義的富強國を理想とした明治政府が、努めて科學教育の普及を期し、その研究を奬勵して來たのも、けだし當然だつたと言はなければなるまい。歐米先進國の科學文明は斯くして遺憾なく輸入せられ、これと平行して、我が資本主義は急速の發達を遂げ、同時に國民の物質的富力も充實したが、一利あれば半面の一害は常に免れぬ。國民の物質的富がそれほど豐饒となつたに拘らず、富の分配に關しては著しき不公平が行はれ、一方には金殿玉樓の人として酒池肉林の贅に耽り得るものがあるかと思へば、他方には雨漏る四疊半で芋粥さへ唆り得ない者がある。而かもそれは、生れついての個人的素質に甲乙があつたからではなく、偶然の出生に依る祖先的な富裕と貧窮とがもたらす差別であると知つては、苟くも不合理を許さぬ『科學』が看過する筈はない。そこで、嘗て資本主義の發達に貢獻し、現に尚ほ貢獻しつつある『科學』、その同じ科學が、今度は牟を逆にして資本主義の不合理的部分に突撃することとなつた。廣い意味で總稱される社會主義、またの名を危險思想と呼ばれるものこそ、實は資本主義の次に生れた科學の申し子だつたのである。

歐米諸國の資本主義は、その受胎期も早く、惹いて社會主義の分娩期も日本に先行した。だが、日本と雖も唯だ彼等に後進したといふだけで、一定の胎内期間を經過すれば、資本主義の受胎がある限り社會主義の分娩は免れぬ。殊に現在では、英米二國に次ぐ大資本主義國といはれてゐるだけ、勢ひ胎兒も大きからざるを得ない道理であつた。

これに依つてこれを見る。日本の社會主義思想は、生るべき當然の社會的理由があつて生れ、生長すべき當然の社會的理由があつて生長しつゝある。嬰兒を無理に撲殺したところで、社會主義を生むべき當の資本主義母胎が健全である以上、後から後から無限の分娩を繼續するであらう。隨つて、さうした非常手段を採つても所詮は無駄骨といふの外なく、餘り虐待して無用有害の繼子根生を培養するよりも、寧ろ健全な成長を援助してやるのが方法としては賢い。

思ふに、持つて生れた社會主義一派のヒガミもさることながら、日本の識者的役人的眼光は彼等に對して必要以上に冷めたく、同時に彼等の心情を察すること甚だ鈍感である。鈍感なればこそ、パンを欲して泣く子の機嫌を取るため童話を聽かせたり、それで泣きやまぬといつては、横ツラを張るやうな馬鹿なまねを繰りかへしてゐるのである。

思想善導もよい。時節柄はなはだ必要な意義もある。しかし、善導される側の青年が、何を一體欲してゐるのか、欲してゐる物そのものを知らなければ駄目だ。文部省の役人や學校の先生は、一向それを御存じない。

九 善導も自ら法あり

繰りかへしていふ。現代は科學萬能の時代である。ウソがコヂツケでも、それが科學の衣裳をつけて現はれると、そのまま眞理として通用するのである。甚だ慨嘆すべき傾向であるかも知れぬが、眞理も非科學的な表現では通用せず、非眞理も科學的な形態をそなへれば、あつぱれ天下の大道を大手ふつて濶歩し得る。つまり如何なる天成の麗質も、衣裳をつけた馬子に及ばず、善くも惡くも科學でなければ夜も日も明けぬが今日の時勢だ。考へれば、年來の文部省的教育方針だつたとはいへ、よくも斯くの如く科學精神が普及したものだと、感心させられる。

天下の大勢が既に科學萬能となつた以上、大勢を動かさんとすれば、好む好まぬに拘らず、科學的に出なければ駄目である。殊に思想善導といふやうな仕事は、對手の有ち合はせる科學的用意より以上の高き科學的準備が必要で、苟くも論理の篩にかけてボロを出さぬだけの整然たる理論がなければならぬ。即ち、對手を理論的に屈服し得て、始めて善導的効果が期待されるのである。ところが、役人的もしくは教師的なる善導對策は、好んで非科學的な陣營に閉ぢこもり、理論を無視した有りがたさだけを押し賣りしようとしてゐる。これでは善導さるべき筈の側が、却つて善導すべき側を輕蔑して、科學と理論の武器を取らせれば自分の方が上位だと自惚れ、惹いて自分自身の抱懷する思想に對し、結局的に眞理だとの烙印を押して貰つたやうにも心得るであらう。さうした確信を彼等に與へるだけでも、文部省的善導策は惡導的結果を招來する意味が多い。

實際、今日の善導的必要を急迫されてゐる思想は、日本書紀や論語で善導すべく、餘りに生々しき現實の社會事情を對象として發生したのであつた。その限りに於いて、これらの書物が如何に遠大の理想を教へ、如何に高級の眞理を説いたところで、お伽噺ほどの感銘も與へないであらう。這般の道理を知るや知らずや、役人や教師は唯だ頭ごなしに『神聖』だけを押し賣りしようとする。それでは、折角の古典も猫の前の小判と同じく、何らの價値を發揮せざるのみか、却つて輕蔑と憎惡を挑發するに止まるであらう。

古典などの場合は、幸ひにして大した實害もないであらう。然しながら、同じ手を國體や國家に對しても、試みる結果は、實害の及ぶ範圍が甚だしく廣大であり、その程度も亦おのづから深刻ならざるを得ない。

科學の萬能に陶醉する當代の青年は、先づ與へられた事實なり思想なりが、果して科學的に正しいか正しくないかの批判を開始する。而してのち、その正を認識し得たら始めて得心し、これを眞理として奉ずるのである。そこへ持つて來て、頭ごなしに尊重しろ、禮拜しろ、奉仕しろ、といつても素直ほに承認する筈はなく、却つて捲毛をあらぬ方に曲げてしまひ、たとひそれが眞理であつても容易に承知する氣色を見せない。國體國家に對する現代青年の態度には、少なからずさうした傾向が見られる。これ彼等が、無批判に國體的尊嚴の認識を強制され、國家の至上を無理無態に注ぎ込まれたことに對して、謂はば反動的に不信任の意志表示を慣らされた結果である。

役人や教師は、素より斯くの如き結果を豫想して、國體の尊嚴を説き國家の至上を教へた譯ぢやなかつたであらう。が、如何にせん、結果は當初の希望とはまるで反對、似ても似つかぬ鬼ツ子を生まねばならなかつた。

十 理論と戰術の逆用

當面の論題たる思想善導も正に然り、文部省的役人としては、科學教育に精神教育を對抗させ、物質科學に精神主義や東洋思想を對抗させて、それで思想の善導が出來うるものと本氣で考へてゐるのかも知れない。同時に斯くすることが、國體の精華を發揚し、國家の尊嚴を増進しうる所以だと考へてゐるのかも知れない。しかし、折角の御親切な思し召しではあるが、徒らに惡導的結果を増長するやうな餘計な手數は、斷じてこの際ねがひ下げにして欲しいのである。

とはいふものの、私は當面の思想善導が全く不要だといふのではない。不要どころか、多大の必要を痛感すること人後に落ちぬつもりであるが、それには矢張りおのづからなる方法を擇びたいといふに過ぎぬ。思想には思想をもつて抗すべし、科學には科學をもつて抗すべし、對手が科學の武器でやつて來たら、當方もヨリ精鋭な科學の武器をもつて交戰しなければウソだ。彼等が理論をもつて國家を否認するなら、我等も理論をもつて國家是認の積極的意見を開陳するがよい。然るに、政府のやり口と來ては、理論と科學主義の立場から、十分立派に國家を是正し得るに拘らず、何のつもりかわざわざ精神主義や理想主義の立場に逃げ込んでしまふ。そこで、得たり賢こしと青年は理論即國家否認の結論を導き出し、鬼の首でも取つたかのやうに思ひ上がることにもなる。寧ろこれは、政府が彼等を思ひ上がらせるといふのが適當なるべく、罪は素より政府にあり、惡導の惡導たるゆゑんも茲に求められる。

政府は何故に、理論をもつて國家國體を是正せんとしないか。――などと、些さか意地の惡さを恐縮するが、實のところ、科學主義の立場から太刀うち出來るほどの理論を有ち合はせぬため、やむを得ず精神主義や理想主義でお茶を濁し、掛け聲ばかりは勿體らしい思想善導の宣傳に餘念がないのである。これでは、政府自身がみづから思想問題に容喙の資格なきを暴露し、彼等自身が思想的に善導されねばならぬことを白状したやうなものではないか。

憚りながら我々は、科學主義の立場から、十分立派に國家國體を是正し得る理論的根據を有つてゐる。その立場から、社會科學に對し社會思想に對し、更らには社會問題に對して、これも十分立派に國家主義的是正を與へ得るつもりだ。如何に是正するかに關しては、遺憾ながら餘白のなきことを嘆ずる外ないが、要するに思想善導の現實的意義としては、これらの全部を悉く善導者の陣營に取り入れ、唯だ謬つた不純部分だけを不逞部類に驅逐し、以つて堂々の科學的論陣から敵軍を壓倒することが肝要である。ムツソリーニの成功は、彼れが敵の理論と戰術を知り盡くし、採長補短よくこれを逆用し得たところにある。その點、日本の愛國主義者たちは淺猿しき限りだ。彼等は敵の理論は素より、戰術さへ知らぬ。隨つて、獨善的な志士國士的大言壯語を痛快がる平素に似もやらず、理論と民衆にはとても叶はぬとの前提から、つひ權勢に縋つたり、その後援で暴力を發揮したりするやうな醜態を見せることにもなる。

上にこの善導屋あり、下にこの愛國屋あり、國家國體が輕視されるのも、亦おのづから故ありといふべきであらう。


底本:『中央公論』第四十三年第九號(昭和三年九月)

改訂履歴:

公開:202006/02/05
改訂:2008/08/04
最終更新日:2010/09/12

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