四人四色

高畠素之

野間講談、佐藤新潮、山本改造、下中平凡──この四人の中で野間清治君だけは同郷人だが、幸か不幸か未だ本物を見たことがない。佐藤義亮君とは、商賣上の用件で一度だけ合つた。山本實彦、下中彌三郎兩君には再々お目にかかつてゐる。

隨つて野間君のことは、人物印象として何も書けぬ。只だその營業振りなどから見て、人物の一般は推し得る。兎に角、帝大の一書記から出版界の『四天王』の一人とまで漕ぎつけたほどの人物だから、何にしろ非凡には違ひない。その營業振りを見るに、下品ではあるがズバ抜けてゐる。出版界に講談社張り獨特のものを植えつけたことは爭はれぬ。編輯、營業のすべてに亘つて、野間氏の特色が濃厚に現はれてゐる。

彼れ自身師範出の教員上りであるところから、使用人にも同郷の教員上りを驅りあつめ、それに彼れ一流の獨裁的氣息を吹き込んで、同族的結合を固めてゐるとのことだ。小僧一人雇ふにも、いきなり社へは出さず、一年なり半年なり社長自身の身邊に置いて、あらゆる雜役にコキ使ひ、且つ撃劍などを強制的に教へて、嚴格な修行を積ませる。十中八九はこの修業煉獄に堪ゑ切れないで逃げ出すさうだ。無事にパスした者が社員にとり立てられるのだが、その時には既に十分、野間式訓練を仕込まれて、完全にその奴隷と化し、一々指圖しなくても主人の意の通り働らくやうになつてゐるとのこと。

講談社の成績の重要な一要素は、全國小賣店との交渉に於いて非凡な努力を厭はざる點にある。それには、社員が直接手足となつて駈け廻る必要があるが、右の樣にして仕込まれた小僧たちは殊にこの重要な役目を果たすべき地位にある。講談社の小僧が絶えず市内小賣店の間を駈け廻つて、亂雜に置かれてゐる雜誌を整頓するとか賣れ工合を調べるとかしてゐるのは注目に價する。勿論その場合、他社の雜誌なども整頓してやつて小賣店に有難がられるだけの如才なさを發揮するが、實は自家の雜誌を目につき易い場所へ押し出すのが目的である。

これなどはほんの一例だが、社内勤務の連中も、それに比敵するだけの努力をしてゐるに相違ない。その效驗は返品防止上の成績にも現はれてゐる。けふ日、雜誌の返品率は四割五割が普通となつてゐるが、百萬突破を呼號する、キングにして僅に五六萬の返品率とは噂だけにしても大した成績である。それといふのも、小僧はじめ使用人一同の驚くべき人足的活動に依るところが多いのであつて、畢竟各小賣店間の賣行過不足の調査が行届いてゐる結果であらう。

佐藤義亮氏とは、頃ろ出版上の交渉は大分深かつたが、現物を見たのは一度きり。頭の良い、精?味の漲つた、一種齒切れの良い人物だと感じた。私自身の好みにもよるだらうが、これ等の點では、山本君や下中君に比べて一段すぐれてゐると見受けた。彼れ、病身の故もあらうが殆んど門外に出ず、社長室の象牙の塔に立籠つてゐるらしいが、その言行は甚だ現實的で、出版は勿論、思想、文藝その他の方面にも可なり堅實な識見を持つらしいのは感服の至りである。加ふるに、その手足的事務總官として、中根駒十郎といふ福徳圓滿と事務的奔走との外に何等とり柄のなさ相な人物が控えてゐるのは、鬼に金棒といふべきであらう。

新潮社は、財政上の實力では他の三社はもとより、全出版界を通じての有力者の一人と目されてゐる。それも文無しから出發した彼れ佐藤君の頭腫尖鋭と努力健鬪の賜物であらうが、金が出來ると損をしまいと力めるのは人情である。元來、佐藤君は一面では地みちな貯金主義者のやうでコツコツ働いてコツコツ貯めるといふ行き方だが、一面では機を見て大バクチを打たんとする抱負も自信も持ち合はせぬ人ではない。といふのは、どうせ小錢をコツコツ貯めたところで段階的に大きく實力を進めることは困難である。そこで、一方では貯金、一方ではバクチの兩天秤を掛けるその行き方は營業振りにも現はれてゐる。普通の單行本では損を絶對に避けて石橋を叩き、機に乘じて大規摸(1)な豫約物などをやる。世界文學全集、長編小説全集等、可なりな大冒險をやつてそれぞれ相當な成績を擧げてゐる。

しかし何といつても、金があるから大事をとり過ぎるきらひは免かない。隨つて、同じバクチを打つにしても、一か八かの大冒險は見られぬ。他人をさし措いて、自ら先鞭をつけることが出來ない。新規軸(2)は他人に出させ、いよいよ大丈夫と見届けた上で、二番乘りあたりをためる。優に新機軸を出し得る頭の持主と思ふが、金のあるため他人の尻ばかり追ふのは、ちと見苦しい。世界文學全集などにしても、改造社の日本文學全集が冒險的に道を開いて呉れたから、その後を追つたまでのことである。案そのものだつて何等獨創がない。飜譯文藝專門の新潮社としてなら、どんな馬鹿だつてあの位の計畫は立たう。

營業の點でも、浪費を省くに努めるのは是非もないとして、使用人數など極度に緊縮する結果、全集物にかかるとそれだけに全力を吸収されて、單行本に身を入れる餘力がない。全集流行で單行本がうまく行かないのは事實だらうが、そこを何とかしないのは、あれだけの納簾と格式に對して釣合がとれず、將來の發展の根を枯らす所以でもあらう。新潮社ほどの店なら、一つや二つ目前の利害を超越した永久的大文獻の出版に目をつけるのも、時にとつての罪亡ぼしではないか。

この點、改造社の山本君はなかなか面白いところがある。一つの全集を計畫して營業を擴げ從業員を殖せば、そのまま規摸を擴げ放しにする。全集だけを當座的に考へる他店のやり口と違ふところは面白い。他店では或る臨時の大仕事が一段落を告げると人を減らすが、山本君はさういふ姑息なことをなし得ぬ性質を持つてゐる。隨つて、大規模な仕事を企てる毎に使用人が雲霞の如く蝟集して營業の膨張を來たし、厭でも出し物を多くする必要に迫られる。だから、數種の圓本全集物をやりつつも絶えず單行本は出して行く。見てゐて決して氣持が惡いことでない上に、これが何程か改造社の存在を超營業的に思はせる刺戟ともなる。

山本君には幾度か會つてゐるが、打見たところ、無智愚鈍、その上存外の小心者らしく、それ以外の特色が果して奈邊にあるのか呑込めない。頭が惡くイモ蟲のやうに鈍劣で、一向に要領を得ない。一言でいへ〔ば〕阿呆といふのほかないやうだが、單なる阿呆ではあれだけの仕事は出來ないから、何處かに偉いところがなくては叶はぬ。流石に西郷さんの遺鉢をつぐ芋づるの特色とでもいふのだらうか。それが呑み込めないのは、我々關東人だけで、向ふ樣では、苦もなく呑み込めてゐるのかも知れぬ。

彼れは愚鈍ながらも一沫の機敏さを閃かし、時折の思ひ切つた冒險振りに大向を唸らせる。が、それも頭や腹から來る冒險ではなく、二進も三進も行かなくなつて苦しまぎれにサイコロを抛げる場合が多いやうだ。それもこれも、佐藤君などと違つて、惜しむに足る程の財力もなく、身輕に思ひ切り暴れ廻ることが出來るからであらうが、いづれにしろこの點に彼れの荒武者的な長所がある。圓本元祖の日本文學全集にしても、あれは頭から生れた仕事でなく、營業行き詰りの四苦八苦的窮地から、自棄的冒險と出掛けたもので案そのものは誰れにも考へられさうな至極平凡なのである。強いて獨創味といへば、あの分量に對して一册一圓と出た新規軸であるが、斯ういふヤケ糞冒險的な新規軸が、彼れの唯一の身上であらう。

改造社は左傾本屋の大王といはれ、共産黨の手先とか後援者とか頻りに或る方面から非難されてゐる。この點でも、山本君の行き方は無軌道の軌道を走るが如き異樣の觀を呈してゐる。改造社の左傾看板は確かに事實だが然らば改造社は左傾本で設けてゐるかといふに、必ずしもさうでない。文藝、思想いづれの方面でも、左傾物は餘り賣れてゐない。マルクス物にしても、自分で言ふのも可笑しいが、私の物以外にしても大して賣れたのはないらしい。ところが、その私は左傾を冷かすことを商賣にしてゐる。賀川豐彦君あたりの物まで左傾部類に入れないかぎり、改造社の左傾物で四五千の發行部數を突破したものすらいくらもない。然るに、山本君は只管左傾物に心醉するらしく、左傾著者の或る者に對しては、著者對出版屋以上の關係をもち、そのためには隨分無駄な金も使つてゐるらしい。

これは、ソロバンづくでは無意味な話である。が、他面から見ると、全然意味がない譯でもない。改造社の左傾看板には、一種獨特の生命がある。刺戟とテンポに動く現代社會に於いて、弘く世人の注目を集めるには、努めて強烈な刺戟を與へる必要がある。改造社の左傾看板は、この點で大きな效果を擧げてゐる。山本君がそれを自覺してやつてゐるかどうかは知らないが、彼れの左傾著者歡待は、この點に於いて必ずしも無意味でない。

山本君は、自分は單なる素町人、單なる學商でないと頻りに言觸らすやうだが、これは必ずしもコケや羊頭狗肉の手管ばかりとは思はれない。何處にか、人間として、單なる營業人以上の素質を具へたところが見える。單なる營業人以上の人間味を加味してゐるらしく見えるのは、佐藤君などに比べて人物的に餘裕がある。佐藤君は營業上出すべきものは出すが出すべからざるものは鐚一文も出さぬといふ行き方で、出すべきものを出さぬために出すべからざるものを出すのに比べればこれは確かに商人道の正道を行つたものだが、山本君になると出すべきものを出した上に、時々は出すべからざるものをも出したがる誘惑に打ち勝てぬところが見える。そこが彼れの純商人になり切れぬところで、この素人張りが、改造社の營業に一種の愛嬌と人氣を添へてゐることは確かである。

雜誌改造は一頃ろ從來の行き方から新局面を開いて、左傾的にゴツゴツなものでなく、一般向に丸味をつけたものにする考であつたらしく、定價を五十錢に引下げると同時にその行き方で五十萬突破を企て、私なども大いにそれを煽動した一人である。この計畫が美事に當つて、一時は二十萬近くの讀者をあつめたらしかつたが、いつの間にか内容も元の状態に逆戻りし、讀者の數もそれと比例的に減少した。今では發行部數十萬、返品四割と見て、六萬位の實數しか捌けてゐないのではないかと思ふ。あの分量に五十錢の定價で、六萬の賣上實數では、缺損が當然で月々一萬數千圓の持ち出しであらう。一度あつめて追ひ散らした讀者は釣り損ねた魚と同樣、二度と容易に寄りつかぬものであるから、雜誌改造の將來の發展は當分絶望であらう。發展するには、あの無味乾燥なギコチない内容を根本的に改造して、編輯の獨創的新味を圖らねばならぬが〔、〕そんなことには山本君の鈍根は極めて不向である。

出版方面でも、思想物は餘まり左傾的に深入りしすぎて世間の反感を買ひ、マルクス・エンゲルス全集の如きも、岩波一派をヘタバラセたとはいふものゝ、僅々二萬前後の成績ではどうにもならぬ。今度の經濟學全集にしても、約三倍の宣傳費を使つて辛うじて五分の成績を擧げるといふ始末では、改造社として何の面目ぞといひたくなる。改造社の將來は恐らく、左傾から擔ぎ込んだ荷厄介をどう捌くかに懸るであらう。

最後に下中君だが、この人は他の三人に比べるとホンの馳け出しで、最近入幕したばかりといふところだが、それにも拘らず一躍四天王の一人に入選したのは驚くべき出世といはねばなるまい。營業上の實力からいへば、春秋社の神田豐穗君、日本評論社の鈴木利貞君などの方が上かもしれぬ。しかし、ジヤーナリズムの呼物としては、必ずしも閲歴や實力のみでなく、何處かに活動振りの華々しさと人物的個性の突起を必要とする。この點から、下中君の入選はそんなに不公平でないといへやう。

下中君もポツト出の新米出版屋といふではなく、大分以前からポツポツ目立たぬ出版を續けて來た。それが本當に手足を伸して活躍し出したのは大衆文學全集以來のことである。大衆文學全集の開始當時は、ハタの目にも氣の毒な状態であつた。仕事の初めに一番大事な内容見本すら一時に所要の全部を刷ることが出來ず、二萬刷つては一息つき、三萬刷つては金算段に奔走するといふ有樣だつたらしい。世間の反響が大きく思ひのほか讀者が出來るらしいといふ芽出度い豫想すら、小賣店のうちには、平凡社にそんな大きな仕事が果して行き通せるかとの懸念を抱くものがあつたといふ。

ところが、大衆文學全集もあの通りの成功を収め、追つかけ發表した世界美術全集も至極みごとな成功を見た。で、餘力の及ぶところ、雜誌平凡の活動となつた譯だが、下中君の考ではなかなか十萬二十萬の發行部數では足れりとせず、キングを目標に百萬突破を目掛けてゐるらしい。

兎に角、彼れはズバ抜けたことを行り得る素質をもち、この點、野間山本兩君と一脈相通ずるものがある。どのみち、佐藤君のタイプではない。下中君は今こそ出版屋であるが、元來社會運動にも可なり深入りしたことがあり、出版を始めてからも兩天秤かけて來た男で、社會上の思想理論に十分の理解を持ち獨自の見識も具へてゐる。それだけに、會つて見ても人間としての尊敬を拂はしめる。この人に、あれだけ思ひ切つた大營業をなし得るといふのだから、世の中も面白くなつて來た。

下中君はあの圖體で、一見鈍重そのもののやうにみえるが、氣立はやさしく、腹も座つて居り、何處かに新味、獨創味がある。逸早く大衆物に目をつけたところなど、偉いとせねばならぬ。改造社が俑を開いて以來幾多の圓本全集が出たが、その中で内容的に獨創を發揮したのは下中君である。大衆文學全集も美術全集も圓本の形そのものは模倣だが、案の内容は極めて新規軸を出してゐる。今日でこそ、總クロース一千頁近くの大册が圓本の標準となつたが、下中君は卒先この冒險をやつた。當時あの立派な製本、分量で、一圓はベラ棒に安いとの感があつた。この意味で、山本君が圓本の元祖といひ得る如く、下中君は總クロース一千頁圓本の元祖といひ得る。この點、佐藤君などの行き方はシミツたれでどうせの二番乘りなら世界文學全集も初めから總クロース一圓で大きく出ればよかつたのだが、金があるためにケチな打算に陷り、途中から競爭に脅かされて總クロースに改めたなどはヘマの骨頂、世界文學全集の落伍率新記録も故なきに非ずである。

今のところ、下中君の將來は雜誌平凡の實績如何に懸つてゐる。若しこれに失敗すれば、元も子もなくなる。若しこれに成功すれば、一躍講談社の一敵國を成し天下の視聽をあつめるであらう。未成品ながら大きな將來をもつ花形役者の一人として下中君の前途に囑望するのは、必ずしも私ばかりであるまい。


底本:『中央公論』第四十三年第十二號(昭和三年十二月。「人物評論」の一つ)
副題:「出版界四天王論 佐藤義亮(新潮社) 山本實彦(改造社) 野間清治(講談社) 下中彌三郎(平凡社)」

注記:

※文字を増補した場合は〔 〕中に入れた。
※句読点は適宜改正した。
(1)大規摸:ママ。下の「規摸」も同じ。
(2)新規軸:ママ。以下、同じ。

改訂履歴:

公開:2006/07/30
最終更新日:2010/09/12

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