社会時評(昭和二年九月)

高畠素之

適用に二法なし

兩度の早大事件やら、京大事件、九大事件等、先達ての二高事件まで入れると近來は學校騷動が日本の新名物となつたかの觀がある。いづれも背後に赤色系統の出頭沒頭があつた意味で、單なる師弟の情誼といふ道徳問題を離れて重要性が發見される。

三尺去つて師の影を履まずといふ東洋の師弟道徳は、それ自身に於いて尊ぶべき意義を所有してゐる。教師が文字どほりの師表であり、智的にも徳的にも生徒を指導誘掖し得る限り、誰が註文しなくとも、さうした情的關係が展開されるに違ひない。しかし何事も分業化し、學問そのものも授者と受者に分別し、有學者と無學者とに於ける知識の取引關係に轉化した今日、無理に影だけを履ませまいとするのも妙なものである。

事實また、學校そのものが今日の如く專門化せず、同時に一般的に未だ普及されなかつた時代には、お寺の坊主が八宗兼學して授教することも不可能でなかつた。だが、一個の專門は更らに數個の專門に分別し、それが尚ほ更らなる專門に細別する時代にあつては、品性の問題は二の次にして、さうした專門の學に秀でた人間を教師たらしめ、以つて無限に増大する需要に當面させなければならない。そこで勢ほひ、徳的指導には手がまわり兼ねる結果となり、教師は一定の俸給を代償として彼れの所有する知識を切り賣りする職業、生徒學生はその反對の職業(!)といふことになつてしまつた。それだけ學校經營の事業も營利化し、育英の理想に燃えるよりは利潤の獲得に目を光らせ、化粧品屋や賣藥屋と同列に伍して客寄せの手段にひたすら餘念がない。その點、官立と私立とでは些さか相違がありさうに思へるが、政府經營の鐵道事業や煙草事業と同じく、必ずしも私立と官立はその弊を擇ばないのである。

賣手よりも買手の鼻息が荒いのは、古今東西の通則である。學問賣買の事業のみ、單り買手が賣手より鼻息が柔しかるべき道理はない。そこで前者は後者を『俺達が喰はしてゐるんだ』といふ氣持ちも手傳つて、事毎に反抗する痛快味を感じることに走らせやすい。朴念仁の教師が、昔しながらの、『師弟の情誼』を擔ぎ出し、ともすれば壓制的に出やうものならさァ大變、お定まりの學校騷動を惹き起すのが必定の運命である。

教師對生徒の感情は斯くの通りだが、教師間の上役對下役の關係もこれと異なるところがない。學閥や勳等で上下の差別がつけられたところで、元を洗へば同じ學問の切賣人である。誰れが張店の順位ほどにも考へはしまい。今度のお茶の水事件は、教師相互間のかうした露骨な心理が白晝に曝らけ出した適例であつた。

教師も教師なら學生も學生、この關係の融和を依然たる封建道徳で片つけようとする文部省は、更らに輪をかけたる錯誤的存在である。こんな間の抜けた了見だから共産黨一派の校友會奪取運動などにも風馬牛でゐられるといふもの、小細工を弄するだけ却つて學生側を沸騰させるがオチであつた。客氣の捌け口に困つてゐる青年學生に對し、社會革命の詩的興奮を注入することは猫に鰹節を與へるに等しい。親の脛は噛つても世間を知らず、戀愛三昧に暮らすべく精力の過剩な彼等は街上はとにかく机上でなりと革命を談議したがるのはその生理的必要に基づく。恰もよし、社會科學の錦旗さへ揚げれば『研究の自由』が保證される。共産主義ばかりが社會學でないに拘らず、その名稱で全國的な學校共産主義が流行したのは、偏へにかくの如き理由に依據してゐる。スパイ根性を養成された職業的共産主義者が、何んでこの絶好機會を見のがす筈があらう。さてこそ『趣味と實益』を兼ねたる彼等の學校赤化運動が、組織的な規模をもつて開始されたのである。早大事件や京大事件は、斯かる一例の代表的なものであるが先達ての二高事件にしたところで、舎内自治といふのは羊頭で學校赤化が内實の狗肉であつた。相も變らぬ文部省が赤化分子掃倒の一本槍で進まなかつたことを繰り返へし遺憾とする。

しかし、乞食の子も三年の譬へに洩れず、さすがに何遍か手を燒いた文部省は過去の實驗に顧りみ、愈よ省議によつて學校内のいはゆる『社會科學の研究』を取締ることに決定したさうである。早からずと雖も遲からず、至極く同慶の至りにたえない。取締對象は、教授と學生とに於いて二分するらしく、前者に於いては、苟しくも實行乃至宣傳に學生を誘致したらしき形跡ある者は斷乎たる處分をなすとのこと、抜きさうで抜かぬ傳家の寶刀ならずんば大贊成である。學校事業の營利的性質に見ても、教授と學生との關係は單なる知識の取引關係にすぎない。不用の共産主義などを押し賣りされては、正直一途な顧客が第一にその迷惑を蒙むる。かうした被害を防止する意味でも、癈兵の行商と同樣、嚴重にその押し賣りを取締つて貰ひたい。

學生側に對する取締方法は、前者に比し『峻嚴なるもその緩急は宜しきを得しむ』るとのこと、これはまた無用の遠慮をしたものではないか。學生だらうが教授だらうが、日本國民として日本國内で赤化の實行乃至宣傳をしてよいといふ理窟がない以上、法の適用を二にして『十分に訓戒を與へ』たり、或ひは『學理監の監督指導に據らせ』たりの必要は認めない。そんな彌縫策で『危險思想の惑染』を防止し得ると考へるから、三尺進んで師の影を履ましめる結果も招くのである。未だ手の燒き方が足らないと見える。

これが運命悲劇

老革命家片山潛氏が、死ぬならば故郷の土でといふ切なる願ひを抱き、モスクワから東京官憲へ、歸國諒解の運動をやつてゐるといふ記事が報知新聞に現はれた。七十を越した以上、老人といふ名稱に異存はないが、肝腎の『革命家』といふ肩書に異存を感じつつ讀んで行けば、日本人として、人の子の親として、異郷に寂びしく暮らす老境の彼れを恐ろしくセンチメンタルな筆で形容してあつた。『雪の日やあれも人の子樽ひろひ』といつた氣持ちは、さすがに一脈の餘情を唆らないでもない。しかも、餘り『虫が好すぎる』ことに對する反感ですぐ抹殺された。

片山潛の米國竄走が、果たして『革命家』のせいであつたかどうか、これは追つての穿鑿に讓つて置かう。いはゆる、『國賓待遇』でロシヤへ潛入して以來、彼れが揚言するところに從へば、如何にもさうのやうでもある。少なくとも以後彼れは、革命の先輩を以て任ずると共に鳥なき里の蝙蝠を役目とし、日本赤化の采配を振つてゐたのは事實らしい。それが老境に向つたから、待遇が動搖したからといつて、急に故國の土を戀しがるなどは増長漫である。それも了見でも直すことか、眞ツ赤なまゝの共産主義を揚げ、凱旋將軍の意氣を以つて入國しようといふに至つては、餘りといへば人もなげなる振舞である。などと、御機嫌が斜めなる折柄、東京記者聯盟の名を以つて『セン・カタヤマは歸國せしむべきか』を問ひ合はせて來た。

東京記者聯盟といふのは、數多き共産黨のチエーン・ストアの一環と聞くが、第一その片假名からして虫唾がはしる。『異端者と罵られ、背教者と疎んぜられる者にしてもが、如何に人間の血と泪のあり餘るほど溢れてゐるかを知つてやるべき』だの、或は『夢寢に忘れ得ざるわが子の腕に抱かれたし』だの、共産主義を看板にする男としては些さか舌が短かい。血と泪の所有は御隨意だが、その故に爆裂彈の所有を大目に見てやれといふ理屈は成立しない。血と泪を本位とするなら爆裂彈を放棄すべく、爆裂彈を固執するなら血と泪は拂拭すべきである。了見を入れ代へて忠義を誓約するなら、何にも好きこのんで死に損ひの老人を虐めたがる奴もないが、泥棒するから戸を明けろと高飛車に出られては、明けてやりたくも意地になつて締りを嚴重にしたいが人情である。

第一また人間として、人の子の親としてといふが、共産主義者は人間としての資本家と、資本家としての資本家を分別して考へたことがあるかどうか。善玉と惡玉の二元論で片つける彼等は、勞働者といへば善、資本家といへば惡、それ以上乃至以外の解釋は憚りながら御存知あるまい。御存知あつたにしても、斯く使ひ分けることが革命精神の發揮と心得、もし『人間としての資本家』に善良性を發見せんとすれば、あらゆる腐敗墮落の形容を浴びせて輕蔑するであらう。手前の梁に氣がつかず、他人の塵を問題にするのはオセツカイといふもの、よく氣恥づかしくもなく、こんなことが言へた義理である。

共産主義者が『人間』を認めないなら、爾餘の善良なる市民も彼等の『人間』を認める義務はない。隨つて、いはゆるセン・カタヤマが、如何に故國や愛娘を戀ひ焦れようと知つた話しじやない。武器を逆用して、さうした人間性を輕蔑してやらうではないか。新聞記事によれば、踊り子を商賣とする彼れの娘は、彼れの如何なる懇望や送金にも拘らず、決して彼れの膝下に走らうとしなかつたさうである。世に惡女の深情といふ諺はあるが、これはまた、驚ろくべき惡父の深情といはねばなるまい。かうまで嫌はれながら『……抱かれたし』は笑はせる。

故國に嫌はれ、愛娘に嫌はれ、古稀の老境を異國に彷浪する『老革命家』は、正しく絶好の運命悲劇である。共産主義者ならぬ私は、『人間』として片山潛に哀愁を感ずるに躊躇しない。だから、それ故に、無條件歸國を認めると言はれるのでは困る。這般の消息は以心傳心、曰く言ひ難きものがあることを推察して頂きたい。

公明正大なる帝國官憲は、當人の切實なる希望と有象無象の躍氣運動にも拘らず、例の共産黨事件に連發せる理由を以つて、歸國と同時に投獄すべしと威嚇したさうである。これで事實上の入國拒絶を意志表示した譯だが、それこそ『血と泪のあり餘る』處置と評すべきであらう。


底本:『太陽』第三十三卷第十一號(昭和二年九月)

改訂履歴:

公開:2008/11/16
最終更新日:2010/09/12

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