暴力團

高畠素之


私は暴力團といふものが割合に好きだ。第一、その語呂が善い。聞いただけでも、奮ひ立ちたいやうな響きがする。第二に、その字格も惡くない。暴の字が氣に入つた。何故かよくはわからないが、何でも私の次男坊が暴風雨の晩に生れて××(1)と命名したことなどが幾分因縁になつてるやうだ。第三に勝てば官軍、力は正義といふ私の欽定憲法が、暴力團の響きに特殊の親しみを持たせる。

力といつても暴力ばかりではないが〔、〕例へば智力といふやうなものにしても〔、〕鬪爭の武器としては暴力を動かし得ない限り空の空なるものだ。智力が暴力を動かすのだから、智力の方が上だともいひ得るが、暴力を動かし得ない智力なんてものは屁の足しにもならないといふ意味からすれば、暴力が智力活用の條件となつてゐるのだ。

近年、暴力團が雨後の筍のやうに簇生したが、現内閣のために散々へこまされた。憲政會内閣は何故こんなに暴力團を目の仇にしたか。それには大體三つの原因があるやうだ。

一、憲政會の特色が傳統的に理窟言ひで御上品に出來てゐること、二、日本の暴力團は歴代政友系内閣の下に培養されたため、自然政友系の色彩を濃厚にしてゐること、三、近年暴力團の流行につれて、高利貸や惡家主の手先を勤めたり、細民をいぢめて無錢飲食したりする不良分子が甚だしく殖え、政府としても捨て置けなくなつたこと、この最後の原因は、政爭關係とは因縁がない。誰れにしても、かういふ風潮は苦々しく思つてゐた矢先であるから〔、〕現政府の暴力團征伐は大方の共鳴を博した。私なども公然これに共鳴した一人である。

暴力團は大いに宜しいが、暴力を賤劣な目的のために行使する如きは、暴力が神聖であるだけ、それだけますます憎むべきものとなる。苟くも暴力團で御座いといふ程の人間は、無智でも無學でも構はないから、人一倍に純朴清廉であつてくれないと凄味がなくなる。

近來、暴力團の墮落がひどくなつたので、私も當分暴力團贔屓の足を洗はうと思つたが、時々文壇方面などの人間で厭に女の腐つたやうな、ニヤコニヤコした代物に出くわすと、まだまだ日本の一隅には墮落した暴力團でもいいから存在せしめて置く理由が相當あるやうな氣がした。文壇といつても一概にはいへないが、どうもヘンな野郎が多い。私は文壇が好きで、新しい小説や戲曲なども割合に謙遜な態度で愛讀する方だが、これがああいふ手合の手になつたものかと思ふと、興味と尊敬の大半を殺がれることを何うすることも出來ない。


底本:『經濟往來』第一卷第九號(大正十五年十一月)

注記:

※句読点を補った場合は〔 〕内に入れた。
(1)もと人名が入っているが、ネット上での公開を考慮して削除した。

改訂履歴:

公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12

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