男性的虚榮の代理行使

高畠素之

昔から女は虚榮の權化だといはれてゐる。宿六たる『旦那樣』の勤め先きが、よし朦朧會社でも『お役所』と呼ばなければ氣がすまず、里方の自慢が『金の茶釜』に限定されてゐる限り、あながちこれは女性冒涜の言葉とばかりも言ひがたい。さればこそ、臺所の御用聞きは平身低頭によつて商賣にありつき、新大島や綿セルは一世の流行を支配し得た譯だが、さて一體、かうした虚榮心は何故、女性において特有的な發達を見たのであらうか。先天的にさうなのか、後天的にさうなつたのか、後天的ならどうした理由に胚胎するのか。毒にも藥にもならぬ穿鑿ながら、多少の面白味はないとも限らないであらう。

男と女とは肉體の生理組織を異にしてゐる。腦味噌の重量にあつても、平均的女子は平均的男子に對して何グラムか輕い。のみならず生物學の教へるところに從へば、禽獸は雄の方が雌よりも綺麗であり、同時にオシヤレの傾きがあるといふから、本來なら人間も、男の方が虚榮心を發達させて然るべきだつたやうにも考へられる。

如何にもその通り、女が特に虚榮的であるべき理由も、また虚榮的であつたといふ證據も、實は明瞭にされてゐないのである。寧ろ反對に、男の方が却つて虚榮心の權化であつて、女はさうした男の虚榮心追求の手段に利用された傾きがある。惡いことと云へば、女子と小人のせいにした男子は、この方面においても、理由なき讖誣中傷を逞しうした事實が認められる。――などゝ、柄になきフエミニストらしい口吻を用ひたが、その實、これから書かうとすることは、案外アンチ・フエミニストの口吻に墮するかも知れない。

男性を睾丸の進化せるものと見たレスター・ウオードは、舊譯の傳説とはまるで反對に、男を女の分身と解した。彼れはこの女性中心説から、原始時代の女性が超男性であつたことを肯定し、女權時代を否定する學界の定説にもかゝはらず、ひとり異説を採つて我ン張つた。眞僞は知らず、或はさうかも知れない。だが、ウオードの説を鬼の首の如く珍重し、それによつて男性に對する女性の優秀を立證しようとする人もあるが、素より私は斯かる議論に贊成しやうとは思はない。それどころかウオードの提説が眞實であればあるだけ反對に男性の優秀を承認しなければなるまいと考へる。と云ふ次第は、睾丸と云ふ最も微賤な境涯から身を起しながら、現在見る如き女性に對しての優勝地位を確保し得たについては、よほど大したものだと改めて男性に感服しなければならぬからである。

それと同じ意味で、男性優秀を立證するため、いはゆる女權時代の存在も承認したいところである。が然し、歴史の説明は、それが全然虚構の事實なることを教へてゐるから致し方もない。歴史第一頁の男女關係は一夫多妻であつた。これは男性の性慾的好新性に由來すると共に、妻妾の多寡が戰利品の多寡を意味し勇猛性の強弱を表象せるが故に奬勵されたのであつた。ところが、これらの妻妾は元來が女奴隷であるから、性慾的名譽的手段の外に經濟的手段としても應用され、彼女等の所有者たる男性が消費すべきものを生産しなければならなかつた。理路の當然で、妻妾の多い者ほど濫費的であり得た結果は、やがて掠奪結婚から購買結婚への風習を齎らし、最初は單純に彼れの勇猛を表象する手段だつたものが、今度は彼れの名譽を誇示する手段に轉用されて來た。同時に妻と妾と婢との身分關係も、次第に分化して、主人の名譽はやがて妻子の名譽を意味するやうにもなつたのである。虚榮心の女性的扶植はこの時代に萌芽する。

數多の妻妾から『正妻』を選定させたのは、名門の婦女によつて血統的純化を圖らんとするにあつたらしい。妾はいはば『准妻』である關係上、この二者は主として血統的生産機關の役目を分擔するやうになつた。そこで、彼女等と彼女等の子女たちも、主人たる男子に續いて生産勞働から免除され、彼れの社會的名譽を誇示する間接の手段として、消費のための消費をなす特權にありつけたのである。『クオ・ヴジス』の映畫に見るローマの貴婦人が、黄金の耳輪と眞珠の首飾りに贅を競ふ状態も、實は彼女等の飼主たる武將の虚榮心を滿足させる手段に過ぎなかつた。また『武士道華やかなりし頃』や『ボウ・ブランメル』に見る十七世紀の上流子女が金襴の美服をまとひ十個二十個の指輪をはめてゐた情景も、同じく男性虚榮の反映に外ならなかつた。夫の奴隷兼動産であつた彼女等は、斯くして夫の聲望を増大する道具に利用されるに至つたが、然しそれ以外の方面では、何等消費上の自由が與へられてゐた譯でなく、床の間の置き物と同樣、夫の財産的身分を誇示する便宜だけで綺羅を飾つたに過ぎない。

容貌風姿における審美的條件も、この時代に入るや、不生産的であればあるだけ上位とされた。支那婦人の纏足は最も極端な實例であるが、日本婦人が丸髷に結つたり廣帶を締めたり、柳腰に瓜實顏を美人としたり、凡そ生産勞働に耐へ得なさうな條件を持ち出したところは、支那人の纏足珍重的眞理と少しも異ならない。腰部を首のまはりよりも細からしめ、コルセツトを嵌めて、出來るだけ立居振舞に不自由ならしめた西洋夫人も素より同じ理由と必要とに出てゐる。また、この時代の女のたしなみとされた百般の遊藝においても、一として彼女等の深窓性を誇張する手段に利用せられざるはない。茶ノ湯、いけ花、舞踏、長唄、琴など我々ごとき門外漢には數へ切れぬ多數のたしなみは、悉く斯かる目的の下に發達したといふも過言でない。

名譽誇示の手段であればあるだけ、子女に對する濫費的粉飾は、財産條件において惠まれた上流人士でなければ負擔し得ない事業である。けれども幸か不幸か、上流の斯うした風習は全般の社會に自己を模倣せしめる力がある。その力の原因を探求してゐると、當世流行のイデオロギーまで持ち出さなければならぬから遠慮するが、兎に角、ヨリ高い階級で流行する生産樣式を受け容れ、これを形式だけでも模倣することは、自己をヨリ高い階級に擬すると共に、それだけ自己の虚榮心を滿足せしめ得るが故に、下流に依る上流模倣の作用は、有力且つ迅速に行はれ得る。例へば、前述の婦人美に對する時代的標準の推移においても上下おしなべて靜止的、非活動的、不生産的なそれを珍重したといふのは家長の名譽誇示の手段として、上流人士の間に行はれてゐた慣習が、次第に下流人士の眞理を支配した結果に外ならない。裏長屋の金棒曳きが、明日の米代に差支へる身分でありながら、家庭小説の伯爵令孃に同情の涙を惜しまない事實や、松方公爵の財産放棄を、こと更らの美事善行と感嘆する事實も同じ心理に出てゐる。

然し同情や美感は、無一文であつて差支へないが、有形財の消費を前提とする奢侈贅澤は、猫も杓子もやられる譯ではない。そこで、中流以下の男性的虚榮心は、彼れみづからが、生産的部面の生活を擔當することにより、消費的部面の生活はその子女をして代理的に擔當せしめるやうになる。例へば、今日の中流階級的男性である。彼等は毎日、銀行なり會社なり工場なりで營々として働くに拘らず、彼等の子女は『今日は帝劇、明日は三越』と浮かれまはり、見やう見まねの贅をきそう風習がはなはだ盛んである。一見したところでは、如何にも哀れな夫の存在を慨嘆したくなるが、尚ほ仔細に吟味すれば、彼れは斯く妻を遊ばせることにおいて、自分自身の手腕を間接に誇示してゐるのである。

形態的にはどうあらうと、實質的には、妻が夫の虚榮心を代行してゐるに過ぎない。虚榮心の權化は男性であり、女性はその操る絲のまにまに踊る傀儡であつた。

男性的虚榮心の女性的代理行使は、斯くして中流以下の階級を席卷した。夫の月給に數倍する衣服や装具も公然と着用され、その貨幣價値が大であればあるほど、夫の社會的名譽の大を證明することにもなつた。その結果は、やがて他人の眼光を瞞化する詐術の考案に貢獻し、模造ダイヤ、人造絹絲、大島銘仙、鍍金時計、等、等、枚擧に遑なき『上流模倣』を奬勵しつゝある。

その傾向は特に都會において甚だしい。何故に然るかと云へば、向ふ三軒と兩隣すら、どこの馬の骨とも牛の骨とも知らぬ間柄であるだけ、虚榮心の發揮を極めて便利ならしめたからに外ならない。先祖代々お互ひに顏を突き合はせて住む田舎では、財産状態も信用状態もお互ひに知悉する關係上、改めて鬼面嚇人の詐術を必要としない。が、都會は『山師の玄關』と共に妻女の美装を最も效果的ならしめるのである。同じ都會においても、劇場とか百貨店とか、凡そあらゆる馬骨と牛骨との鑑別を不可能ならしめる箇所にあつて、特に美装的誇示が作用するのも故なしとしない。

事態も茲まで發展すると、最初の代理的行使はいつの間にか自主的(1)行使らしくなつてしまふ。が、それとて、元を洗へば身から出た錆といふ外はなく、今更ら女性を虚榮の權化と罵倒しても始まらぬ。上の好むところ下これに倣ふ。兩行的に倣ひ得なかつたら跛行的に倣ひ、それも出來なかつたら義足的に倣ふ。斯くして世を擧げて『虚榮の市』に先を競ふ。これが現代の世相なのである。

――完――


底本:『春秋』第二卷第六號(昭和三年六月)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和5年)再録。

注記:

※明白な誤植の中、単行本で補正されている場合は、注記せずに改訂した。
(1)自主的:『英雄崇拝と看板心理』は「自主的」に作る。

改訂履歴:

公開:2008/02/04
最終更新日:2010/09/12

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