硬軟傾向交錯の一新現象 ―政治青年の今昔―

高畠素之

酒癖の餘りよからぬ年少友人が來たり嘆じて曰く、どうもこの頃は、不良少年の軟派と硬派とが一目瞭然でなくなつて困る、と。審さに理由を聞いて見れば、お定まりの銀座裏あたりでコーヒー一杯の常連に、素面でダンスをやる了見の莫迦らしさを不快がつて見やうものなら、時ならず『辨天吉ちやんを知らねえか』などゝ啖呵を浴びせかけられ、却つて仲直りの酒を呑まれることが間々あるからだといふ。『喇叭ズボンにオール・バックの典型的モダン・ボーイが、上着一枚ぬげば栗迦羅紋々だらうとは、お釋迦樣でも氣がつくめえからナ』と苦笑してみせた。

寄る年波の小生ではあり、銀座街頭に出沒する機會などは、殆んど年に何回といふ記憶しかないのであるから、果たして不良的硬軟性の交錯が、斯くの如き程度にまで深刻であるかどうかは詳知しない。だが、年頭の挨拶に、酒屋の亭主がモーニングを着けて來る當節であつて見れば、唐棧の絆纏に投げ節か何んかで吉原あたりを押し廻つたらうといふ往年の不良少年が流行のモダーン振りよろしく、銀座のカフエーでラララの口笛に合はせて踊ること無きにしもあらざらうと察知される。時世の變化を達觀し得れば、敢てお釋迦樣の明識を煩はすまでもなく、昭和辨天小僧のモダンテイーは喝破し得べき道理、年少に似合はぬ友人の迂遠さを笑つたことであつた。

實際、不良少年に於ける硬軟交錯もさることながら、善良少年に於ける硬軟交錯も驚ろくべき程度である。兩三年前の過去までは、硬派政治青年と軟派文學青年とは氷炭相容れぬ二つの存在であつた。一方は他方を輕蔑し、他方は一方を輕蔑して、天下國家の事業と文學藝術の事業とは相互に對峙して來た。然るに最近では、政治青年と文學青年との境界線が撤去され、政治青年は同時に文學青年であり、文學青年の方も同時に政治青年である場合が甚だ多い。斯くて、イデイオロギーが、目的意識が、現段階が、政治と文學との兩面から擔ぎ上げられ、一世の文運隆盛に貢獻しつゝある事實は、凄じなんど言ふばかりなきものが認められる。哲學修業の作文青年から、時に『唯物辯證法的でない』などゝ言はれて驚ろく小生なども、その意味では、昭和不良の硬軟鑑定を誤つた前記友人を笑へた義理ではないかも知れぬ。恐るべき時勢ではある。

政治青年と文學青年との交錯が、如何にして斯かる程度にまで濃厚にされたかの一端は、他の『場合』で觸れて置いたと記憶する。で、當面の問題考察は割愛するが、結局のところ、文字的知識の普及が一般化された爲め、政治とか文學とかの方面に於いて、玄人と素人との距離が甚だしく短縮したことに原因が求められる。

例へば文學に於いて、從前は生産者たる作家と消費者たる讀者とが、全く對蹠的な關係を持續して來たのであつた。これは、作品發表の機關たる新聞雜誌の數が少なかつたことにも原因し、よほど優秀な技術の所有者でなければ、發表の機會が得られなかつたことにも關係してゐる。一方、經濟的に見ても、滅多に發表の機會が得られないので収入も少なく、隨つてまた、商賣の渡世として成立せしむべく根柢が薄弱であり、かたがた本職的玄人の出現を障碍して來たと見られる事情が多い。ところが、印刷物に對する需要が高揚するにつれ、次第に『中央公論』類似の高級雜誌が供給されることゝなり、いはゆる藝術小説の發表機關も増大する。同時に、婦人雜誌や日刊新聞までこれを模倣し出したから、飛躍的にヂアーナリズム的重要性を増し加へたのである。事態が此處まで進展すると、まるで『福助樣のお啖』よろしくの拜物心理から、彼等の隨筆雜文まで喝仰する傾向を促進せしめ、これを專門とする群小雜誌の簇出に貢獻した結果は、或ひはお差し合ひもあらうかと恐縮するのであるが、隨筆雜文の執筆を專門とする一團の職業群をさへ出現せしめたのである。

小説家が高級で、雜文家が低級だといふのぢや勿體ない。が、テーマだ、プロツトだ、と頭をひねるを俟たず、身邊雜事の感想を吐露して尚ほ且つ容易に貨幣價値を生み出し得るとすれば、人生これより呑氣な商賣は八木節源太ぐらゐであらう。多少とも文字驅使に自信ある男女なら、昔しながらに『高嶺の花』と眺むる『宋襄の仁』を放棄するは素より、大いに玄人的關心の涵養に努力することも無理ではあるまい。況して、圓本だ印税だと皮算用し得るなら、相場師を擇ばんか文藝家を擇ばんかと煩悶する人士も必無としないであらう。斯くて、文藝上の玄人と素人とは愈々混亂し、趣味と實益の兩面から、今後とも混亂程度を助長するだらうと確信させられる。

片や政治青年にしても同斷である。當今の政治青年は、その上の素朴性と純眞性を失ふや弊衣破帽の代りに長髪垢顏となり、憲政常道の代りに社會革命となつたが、この方面に於いても、玄人と素人との著しい接近が見出だされる。とはいふものゝ、實はこの方面に於いては、元來が玄人と素人との距離が大してあつた譯でなく、醉狂半分の物數寄が僅かに玄人の領域を維持し得たのみで、素人は同時に玄人だつたのである。といふよりも、寧ろ全體が玄人だつたといふを適當とすべく、一般素人は主義者の名に怖ぢ毛を振るつて近寄らなかつた。それも道理、普通選擧の名前が既に危險思想のシノニムとして通用してゐた時代だから、精々が七子の五ツ紋か何んかで『憲政布かれて三十年……』など、大向ふを覗つた粗雜な演説學生が、政治青年の新知識として珍重されたに不思議はない。

ところが、歐洲大戰に遭會するや、我が國の資本主義は急速な發展を示し、工場勞働者の數も夥しく増大することゝなつた。戰後の整理緊縮に當面して、彼等の幾割かゞ工場外に放逐されねばならぬ状勢に立ち至り、嘗て陽性の賃銀値上や待遇改善に氣焔を擧げてゐた勞働者達も、今や彼等自身の失業危險を防止する意味で結束の必要を訴へられ、次第に陰性を加へることになつたのである。社會運動としての勞働運動の礎地は、次第に斯くして加へられたと見るも失當でない。一方、ヨーロツパ諸國にありては、ロシヤに續くドイツやオーストリアの革命を始め、何れも社會黨乃至勞働黨の勢力を急速に増大し、各國とも無産黨が筆頭的勢力を爭ふ時代であつた。取らぬ狸の皮算用なりに普選運動は猛烈となり、これに對する既成有産黨のやむなき迎合の結果、つひに加藤内閣時代の普選案通過まで漕ぎつけたこと、普く人の知るところであらう。

政治上の現實的武器が與へられて見れば、それが利刀であるか鈍刀であるかを顧みる暇はない。珍らしさの餘り、我れも我れもと眞ツ向冗談に振り冠つて、テーゼがどうの、政務調査がどうのと、利いた風なことを言ひたがるのも人情の弱點、流行とあつて見れば、狸も杓子も脛囓ぢりも、手前の學費だけが先祖の搾取的恩惠に依らなかつたやうな顏をして、天晴れ無産階級の鬪士らしい聲色を使ふやうになつて來た。斯くて從來、無縁の衆生たりし『大衆』が『無産階級の陣營』に投じ來たり、新語辭典から借用した知識を頼りに、垢顏長髪ぶりを發揮したのも時勢なればこそ。

無縁的大衆より有縁的大衆への變化過程にありては、未だしも舊來の主義者連が理論的指導者たる光榮を有し得た。けれども、鬼面嚇人的プロレタ論法なるものも、元を洗へば『馬鹿の一つ覺え』と五十歩百歩の關係を出でない。隨つて、天下の猫君や杓子君にすれば、單純な理屈のメリハリを覺え込んでしまへば此方のもの、今度は矛を逆にして、主義者連の不得意な唯物辯證法か何んかで煙にまくといふ時代を出現せしめた。

事態が此處まで進轉すると、哲學青年より政治青年の『克服』となるが、又それだけ、文學青年への『揚棄』を意味しないでもない。地位を轉倒すれば『逆の眞』も成立すべく、要するに哲學青年を中間にして、從來の政治青年と文學青年とは『否定の否定』をなし、やがて新しい『肯定』へ再生せんとしつゝある。しただけでは、何んのことか筆者自身にも分りかねるが、兎にかくも、玉石混淆の時代が到來したといふ程の意味に過ぎない。

今や謂ゆる左翼の陣營にありては、舊來の玄人主義者が非幹部派たることを餘儀なくせられ、新來の素人主義者が光榮ある幹部派の名譽を獨占しつゝある。デモクラシーのチヤムピオンたりし元早大教授大山郁夫氏を執行委員長に、京大教授高等官一等共産博士河上肇氏を上置きに、元某高商教授福本某を理論的指導者に、而して某大助教授、某校講師といつた現業休業を取り交ぜた甚だ多くの學校教師團が、磁針の極北を示してモガ的ウルトラ派と稱せられつゝある。下世話で謂ふ『七ツ下がりの雨』の譬へに洩れず、四十歳を過ぎて習ひ覺えた彼等の共産黨的戀情は、めくら蛇の盲勇を發揮して、北へ北へと滅法界もなき航路を進まんとしてゐる。やがて朔風一塵、みぞれ交じりの氷雨に打ちたゝかれるや、一トたまりもなく枯れて凋む秋草の運命となるは必定だが、浮世の苦勞を知らぬ御仁態だけ、言ふことだけは恐ろしく極左的である。

稱して理論鬪爭といふ。鬪爭も理論だけで止まつて呉れゝば有りがたいが、やがて現實鬪爭の幕が切つておとされ、そんな心算ぢやなかつたと言ふか言はぬかは知らない。が、恐らくは、水禽の羽音に驚ろいた平家の公達に追隨する結果を暴露するがオチであらう。斯くて教師も教師なら學生も學生、肝腎の學業を放擲し合つて、それで街頭にアウフヘーベンしたものと心得てゐるらしい。莫迦らしなんど言ふも愚かである。

社會主義思想界に於ける斯くの如き觀念論の流行は、舊來の政治青年的分野を超越して、多くの文學青年的分子を糾合することに貢獻し得た。けだし、彼等の關する論題の範圍が、空疎な觀念論的理論の遊戲鬪爭に局限されてゐたので、現實的政治的對象をも容易に觀念論で片づけ得たが故である。試みに福本的ダダイズムの見地に於いて取り扱はれし彼等の政論を見よ。ブルヂオア黨に對峙するといふ彼等の自負の滑稽さは敢て問はず、現段階の崩壞過程のと勝手な氣焔を擧げるに止まり、對象とする我が政情の現實が『如何にあるか』の認識に至つては、不足といひたいが實は絶無なのである。政治は凡ゆる現實的なものゝ中で、最も現實的な問題を對象としなければならぬ。而も彼等は、共産主義入門で教へられた『政治』の重要を觀念的に追隨するに過ぎない。隨って、政治主義の眞の重要を認識することが出來ず、抽象的觀念の世界で描き出した映像を捕へ、以つてこれにABC的氣焔を擧げる程度から一歩も脱出し得なかつた。

一切の現實を無視した政治批評が、如何に春の淡雪にも比すべきであるかは贅言の必要もあるまい。だが、さうした政治批評が公許される範圍にあつては、觀念的であればあるだけ却つて純粹なものとして通用するらしいから面白い。さてこそ、左翼右翼を問はず、揃ひも揃つて愚にもつかぬ宣傳綱領の上下を反覆してゐるのであらう。だが、現實の政治は、そんなこと位ぢや寸尺の進退をも示さない。それを知つてか知らいでか普選第一次の總選擧が目前に施行されるといふ今日、舊套依然たる無産各黨は、相も變らず觀念論的氣焔の報酬に餘念がない。彼等にして見れば、そんなことが『政治』とでも思つてゐるのであらう。全く『戲談ぢやない』のである。

政治を斯く、陣取りの遊戲化に於いて成功せしめ得た無産黨的論客は、愈よ多數の觀念的政治青年の養成に貢獻すると共に、これら新入分子の逆影響を蒙むり、愈よ出でゝ、愈よ觀念的傾向を濃厚ならしめる結果を誘ふに至つた。政治青年と文學青年との交錯は、斯くして愈よ甚だしさを加へつゝある。

政治青年の文學青年化は斯くの如し。而も尚、文學青年に依る政治青年化も同じ程度に行はれつゝある。元來、上述の政治青年に於ける觀念的特質は、それ自體が舊來の文學青年的特質と一致するものであつた。その限りに於いて、世が世なら、文學に傾向すべかりし人種の多量も發見せられようが、さうした要素的穿鑿(1)は別問題として、近來の文學青年の結束が著しく政治的となり、誰某を中心とする黨派的集團を形成しつゝある事實は注目に値ひする。

昔しの文學青年は、澤庵と梅干で露命を繋いでも、敢て藝術に精進するといふ悲愴な決心の所有者が多數であつた。命は短く藝は永し、藝術を彼れの生命よりも尊重したのである。さうした決心が、果たして敬服すべきであるか否かは別として、それなりの悲愴美は自づから見出だされる。然るに今日のそれは、恐ろしく現實的かつ打算的、徒黨を組んで仲間の頭數的多寡を以つて文壇的勢力を得んとする傾向が多い。つまり惡い意味で政治的なのである。それ故に、彼等相互間の論爭といつたものでも、堂々の藝術論を上下することをなさず、個人的短所や道徳的缺點を把羅剔抉し、彼れを社會的に葬らんことに腐心する如くである。政爭が陰性的になると、よく斯うした泥合戰を繰り返へすが、文壇人の論爭は正しく泥合戰的特質を暴露してゐる。

最もその段は、さすがに本職だけあつて、政治青年の方が一枚も二枚も上席である。彼等は稱して暴露戰術といふ。名目も事と品にこそよれ、相互の惡罵交換を是認する口實としては一理ありさうだが、結局は、反對者に對する個人的憎惡を表白したものに過ぎない。無産黨陣營は攪亂こそされようが、これに依つて統制が期待される筈はない。個人的憎惡の表白なら、露骨にその動機を明示するのが男性的である。妙に持ちまわつた辯證法的詭辯を弄し巧妙に動機を掩蔽せんとしてゐるだけ、傍の見る目さへ不愉快ならざるを得ない。この方面に於いても、その昔しの主義者連は男性的であつた。同時に、素朴的ながら主義に對する純情に燃え、離合集散の動機の如きも、今日のそれに見るやうな有耶無耶さは許さなかつた。決して相容れずと聲名し合つた日勞黨と日農黨とは、合同を正善とする何等の理由も發表せずに合同してゐる。どこに主義があり、どこに節義があるのであるか。こんなことは、彼等が無節操、無理想の故を以つて輕蔑する既成黨人だつて、敢てよくなし得る藝當ではない。

一事が萬事、政治的たると文學的たるとを問はず、當今の青年は概ね斯くの如くである。その由つて來たる原因の探求を、實は本篇の主題とする心算だつたのであるが、途中の道草に低徊して餘白を失つてしまつた。いづれ又の機會に讓ることゝしよう。


底本:『春秋』第二卷第三號(昭和三年三月)
『英雄崇拜と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)に再録。

注記:

(1)穿鑿:底本は「鑿穿」に作る。

改訂履歴:

公開:不明
改訂:2006/04/16
改訂:2007/11/11 最終更新日:2010/09/12

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