贅澤と虚榮と優越本能

高畠素之

國民の生活が奢侈贅澤に流れ過ぎ、この傾向のまま進展したなら恐るべき結果を見ること疑ひないといふので、政治家や教育者などが頻りに勤儉貯蓄を奬勵したり、能率増進を研究したり、凡ゆる手段を盡くして、弊害の防止に狂奔しつつある。が、どうも糠に釘ほどの效果も期待されぬらしい。これは當然の話で、社會の組立そのものが奢侈を刺激し、贅澤を助長するやうに出來てゐるのだから、末葉の弊害だけ芟り取らうとしても無駄である。全く無駄でないにしても、骨折りの割合に效果が期待されぬに違ひない。そこで若し、奢侈贅澤を全く廢止しようとすれば、勢ひ根本に遡つて、社會の組立そのものを何とかしなければならぬ理屈にもなつて來る。

そこで問題は、奢侈とは何ぞ、贅澤とは何ぞ、の定義を明瞭にすることから出發しなければならぬ。從來の觀念に從へば、奢侈も贅澤も『見分不相應な生活』といふことに一致するらしい。例へば、百圓の月給取りが七圓の下駄を履くのは、その収入に相應せざる出費の意味で贅澤といはれ、三百圓の月給取りなら、十圓の下駄も贅澤といはれぬやうなものである。更らにまた、この三百圓の月給取りが百圓の家に住むのは贅澤だが、月収千圓の重役が二百圓の家に住むのは贅澤でないといふ如く、贅澤と然らざるものとの區別は、各人の所得の大小に依つて標準が浮動してゐる。隨つて、人に依つては、いはゆる『妾を蓄へるも男の働き』で、何ら贅澤と見てをらないのである。各人の贅澤は各人の収入に比例し、如何に不必要と思はれる濫費をしたところで、それが収入に比べて『不相應』でなければ、決して奢侈だとか贅澤だとかいつて非難する者がない。

しかし、抑々の根本問題は、所得が許すからといつて、必要以上の濫費をして善いといふやうな、さうした考へ方そのものに在るのである。今の世の中は自由主義の世であつて、優勝劣敗が浮世の人間生活を支配する鐵則であり、時に弱肉強食もやむを得ずとされてゐる。富める者は貧しき者を、強き者は弱き者を、それぞれ彼等の生活の手段として利用することさへ、何らの背徳でも違法でもないのである。さればこそ、一切萬事は『男の働き』の名に於いて公許され、短いものは長いものに卷かれるの外はない。

一夕の酒宴に千金を投じ、尚且つ自己の所得に不相應ならぬ故を以つて當然とされ、夕餉の食膳に一尾の秋刀魚を上せたことが、却つて自己の所得に不相應なる故を以つて贅澤といはれる。考へて見れば、ずゐぶん辻褄の合はぬ話しであるが、何事も『男の働き』の如何で決定される時代の知識としては、それも致し方なき解釋であらう。

ところで、斯うした消費方面で各人の自由勝手が許される一方、生産方面に於いても、各人の自由勝手が何らの制限もなく許されてゐる。即ち、生産上の凡ゆる機關を所有するところの企業家は、金儲けといふ只だ一事を目的として、どんな品物をどんな方法で生産しようと自由なのである。要は儲かりさへすれば善いので、ヨリ多く儲かりさへすれば、社會の必要に缺くべからぬものであらうと、一般の必要には少しも關係せぬものであらうとを問はず〔、〕これを生産し販賣して利潤を得ようと努める。若しその場合、社會の極く少數な一部の人々が需要する奢侈品や贅澤品やが、ヨリ多く利潤に貢獻するのであつたなら、他に如何に多數の人々が需要の緊急を訴へる必要品があつたところで、後者を生産せずして前者を生産するのが常である。言ふまでもなく、それらの奢侈品や贅澤品を供給することが、ヨリ多く彼等に金錢上の利益を齎らすからに外ならぬ。勿論、社會の大衆はさうした贅澤品を買ふべき資力もなく最少限の生活必要品を需めることすら困難を感じつつあるが、而も斯うした生活必要品でさへ、それが大した儲けにならぬとすれば誰れも供給してはくれない。そこで勢ひ、必要品の供給を促進せんとすれば、贅澤品と同程度の儲けを彼等に勘定させねばならぬから、價格も自然的に釣り上げることになる。つまり、一部の人々の奢侈品需要が旺盛であればあるだけ、それだけ日用生活品の價格を騰貴せしめる譯である。

飽食するも暖衣するも、漁色するも蓄妾するも、或は金殿玉樓に住んで酒池肉林の贅を盡くすも、單に表面だけを見れば、いはゆる『男の働き』で他に迷惑を及ぼさざるが如くである。だが、實は甚だしき迷惑を直接間接に及ぼすこと、如上の經路で明瞭になつたと思ふ。その限りに於いて、一人の自由主義は多數の不自由主義を豫定し、一人の贅澤は多數人の貧窮を強制する。それ故、奢侈贅澤が身分に相應せぬ場合は言ふも更らなり、身分に相應せる場合でも、その弊害と邪惡は擧げて算ふべからざるものがある。

然るに、現代の知識と道徳とは、自己の所得にして耐え得べくんば、如何なる奢侈も如何なる贅澤も咎めようとはしない。人が如何にして金を儲けようと自由であり、如何にしてその金を使はうと自由である。現在の社會組織、即ち個人の經濟活動に無制限の自由を認め、個人の財産蓄積に無制限の自由を認める社會組織にあつては、同時に個人の奢侈贅澤を制限すべき、何らの權力も社會には與へられてをらぬ。

或る人はいふ、人間の單位的な生活を維持するだけに必要な貨物の生産なら、現在のそれの五分の一か十分の一で充分であらう、と。勿論、單位的な生活といふ意味を、單に肉體的生命の維持といふ意味に解するなら、二千五百乃至三千五百カロリーの熱量を攝取し得れば充分なのであるから、十分の一が百分の一でも差支へないかも知れぬ。しかし、肉體的と共に精神的な生活に於いて、いはゆる『人間らしい生活』を各人一樣に享受させるのにも、最高標準が現在の生産力の五分の一で充分だといふのである。これを裏からいへば、現に發揮されつつある生産力の五分の一以下の力しか充用されてゐないといふことにもなる。然るに、總人口の七八割までは、贅澤なんどは夢想だに許されぬ分子であるから、殘餘二三割の人々だけの贅澤に對して、生産力の大部分が充用されてゐることが明瞭であらう。斯うなれば、單に不公平だと云ふことだけでは許されぬ。

或る人はまたいふ。無用の長物たる奢侈品や贅澤品の生産などは、各人が盟約して中止したらどうか、と。如何に贅を盡くしたくも、これを拵へてくれる者がなければ、自然天然に奢侈も贅澤も地上から姿を消すだらうといふ解釋である。一應は如何にも尤もな話に受け取れる。だが、そんなことは、白晝痴夢を見るに似た愚かしさといはなければならぬ。

今もいふ通り、現在の社會組織は、凡ゆる種類の金儲けを公許するのである。それが他人に、どんな惡影響を及ぼすものであらうが、正當の手段で正當の營業をなす限り、これを不法とし背徳とする者がない。奢侈品であらうが、贅澤品であらうが、それがヨリ多く自己の獲得すべき利潤に貢獻するなら、競つてさうした奢侈的贅澤的需要に應ずるための生産に從事する。通り一遍の規約や申合せを取り交はしたところで、十人が十人ともそれを反古にすることに躊躇しないだらう。事實また、それが道徳的に惡いなどゝいつて見たところで、法律違反の行爲でない限り、これを制約するに何らの公的權力も伴はないから、如何とも手の下しやうがないのである。況して、一錢貳錢の損得に血眼となり、金と引換へなら命も投げ出さうといふ人間の淺猿しさは、最初から奢侈品生産拒絶同盟會といつた團體を成立させよう筈もなし、假りに若し成立させたにしても、奢侈品の生産に主力を注いでゐる状態の下では、即日から口の下を干からさなければならず、どのみち永續きは期待さるべくもない。

そんなら今度は消費者の道義的反省に訴へ、奢侈贅澤品の使用を拒絶したらどうかといふ人もある。需要がなければ供給のあるべき道理なし。これも確かに『一案』には違ひない。だが、どこまで行つても一案たるに止まり、實行の可能が有り得ようとは考へられぬ。元來人間は、ヨリ旨いものをヨリ多く好み、ヨリ美しいものをヨリ多く望む動物である。即ち、先天的に贅澤を欲するように生れついてゐるのである。勿論、如何に贅澤をやりたくも金がなければ手を出せぬが、あり餘る金と有り餘る閑があるなら、誰れしも美食を求め、美人を抱きたくなるに違ひない。是非善惡の批評を下すべく、さうした傾向は餘りに深き本能に根ざしてゐるのである。殊に金を儲けることが自由である代り、金を使ふことも自由である當節としては、一片の道義的反省を要求する程度で、金持ちの奢侈贅澤が廢止されやう筈は絶對にあるまい。

奢侈贅澤は斯くの如く、物質慾そのものゝ反映であると同時に、また人間の精神慾をも反映してゐる。單に身に美衣を纏ひ、美人を漁り、美食を求めるといふだけなら、まだしも素朴的で、弊害の波及も割合に僅少で濟む。けれども、さうした物質的要求に一種の精神的要求が伴ふやうになると、弊害の程度も隨つて甚大ならざるを得ない。奢侈贅澤の眞の弊害は、寧ろ斯かる精神的要素を加味されて倍加するのである。

元來、人間には優越本能といふものがある。これは周圍に對して自己の優越を誇らうとする本能で、原始時代には武勇がその對象であつた。軍人が金モールを着けたり、綺羅びやかな長劍を佩したり、業々しい羽毛の帽子を冠つたりして威儀を装ふのは、即ち斯かる武勇表象の名殘りである。ところで、現在では寧ろ、武勇よりも財産がその優越慾の直接の對象となり、財産的身分そのものが社會の優越的資格を表明するやうになつた。その經緯については詳述を避けるが、兎に角『地獄の沙汰も金次第』で、一切萬事に金が物いふ世の中である事實を知れば、思ひ半ばに過ぐるものがあらうと思ふ。

財産が優越慾の對象とされる時代にあつては、何よりも先づ、自己が勞働せずして衣食し得ることを外部に誇らうとする。多數の僕婢を置き、宏壯な邸宅に住まひ、妻子に美装させるといつたことが、主人の有する財力の直接間接なる誇示手段として慣用されるのである。御座いますか、遊ばせ、などいふ優美な言葉もそのために使用される。これは決して、實際生活上の必要から來たのではなく、出來るだけ所有財産の多額なることを外部に見せびらかさんがために外ならぬ。斯くて、浪費が多ければ多いだけ、それだけ自己が財産的に偉大であり、同時に、社會的に優越であることの證明とされるやうにもなつた。國民の奢侈贅澤が、斯かる徑路で甚だしき弊害と共に助長されたことは疑ひを容れない。

既に財産的資格のみが、優越慾乃至名譽慾の對象となつたとすれば、有れば有るだけ、無ければ無いだけ、金持はヨリ以上に金持らしく、貧乏人は決して貧乏人で無いらしく、凡ゆる努力を傾注して外部に誇示しようとするもやむを得ない。そこで問題となるのは、有り餘る金と有り餘る閑を有たぬ人間は、如何にしてこれを誇張すべきかである。大抵の男といふ男は、朝から晩まで營々として働かねばならず、隨つてまた、綺羅を飾つて遊び歩くといふやうなことは、金錢と共に時間がこれを許さない。やむなく彼等は、自分は棚に上げて妻女を着飾らし、彼女等を通して自己の財産的身分を誇張する手段に利用しつゝある。殊に都會地などに於いては、向ふ三軒は素より、兩隣さへ内所の工面などには不案内であるから、日髪日化粧で装ひ立て、外出には一張羅のペラペラを纏はせ、以つて彼れが『働きある男』らしく見せかけようとする。

窮餘の一策ではある。が、財産の多寡と同時に収入の多寡が、男子の社會的名譽を立證するとあつて見れば、如何な無理算段をしても妻女の『代理的贅澤』に忠實ならざるを得ない。冷靜に考へれば、誰れだつて愚にもつかぬ見榮を嘲笑したくならう。けれども、それを嘲笑してゐたのでは、反對に『腑甲斐ない男』として嘲笑されねばならぬから、これを腑甲斐あるべく見せかけんには、嫌が應でも見榮を張る必要に訴へられる。淺猿しくもまた悲慘ではないか。

これに依つてこれを見る。現代人の奢侈贅澤的傾向については、彼等の輕跳浮薄も淫逸文弱も素より與つて力あらう。が、罪科は單にそればかりに歸すべきではない。マンモンのみを、跪拜すべき唯一の王者に祭り上げ、地獄の沙汰も金次第で通用させてゐる状態では、誰れしも金を得るためばかりに狂奔するだらうし、また金の有ることを不自然に誇張したくもあるだらう。

奢侈も贅澤も、實はかうした拜金思想の申し子である。母體たる拜金思想が絶滅されなければ、奢侈も贅澤も無限に表出されるに違ひない。然らば、百惡の根元たる拜金思想は如何に處分すべきであるか?問題は簡單である。自由競爭と私有とを基礎とする現在の經濟組織を變革し、一切の生産分配を公的機關に管理させることに依り、以つて金錢的欲望を名譽の對照(1)たらしめぬやうにするのである。金錢獲得が何ら優越本能の滿足に貢獻しないなら、その直接間接の誇示手段たる奢侈贅澤も自然に地上から影をひそめるに違ひない。

――五、二五――


底本:『春秋』第二卷第七號(昭和三年七月)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)に再録。

注記:

※明白な誤植の中、単行本で補正されている場合は、注記せずに改訂した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)對照:ママ。『英雄崇拝と看板心理』も同じ。

改訂履歴:

公開:2008/02/04
最終更新日:2010/09/12

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