『随筆』断片語

高畠素之

隨筆漫語

△新潮の合評會で中村夫羅夫君が「人間に支配慾があり能力の差がある以上〔、〕貧富の懸隔は當然だらう」といふやうなことを言はれたのを、プロレ文士其他が恐れ入つた御迷論だといはぬばかりに冷嘲的態度で默殺してゐるのは、一寸冷嘲の種だ。僕は中村君の議論には反對であり、また中村君がどれ程の考察と確信を以つてあゝ言はれたかは知らぬことだが、あの理屈には相當根據があると思つてゐる。少なくとも、プロレ文士などが後生大事と念佛して廻る唯物史觀のあどけないお題目などよりは、どれだけか人間性へのヨリ深い洞察に立脚した議論だと思つてゐる位ゐだ。

△それは兎にかく、あの議論が假りに淺薄無知な理屈であるとした所で、それを冷笑するプロレ側にどれだけ無知でない理屈があるといふのだ。

△僕は本月の新潮に出てゐる發賣禁止に對する各家の意見なるものを見て、プロレといはず今の世の筆とる人間の頭が如何に白痴、俗惡、無考察であるかを痛感させられた。よくもまあ揃ひも揃つて馬鹿が出て來たものだと驚かされてゐる。どいつも此奴も、十中八九迄は、根柢に於いて言論文章の「絶對自由」を、而も國權に向つて要求してゐる。彼等には國權其者が自由の否定だといふことが分らないと見える。分つても尚そんなものを要求したいといふなら、いさぎよく國權其者を否定するやうな、せめてはその片鱗だけでも仄めかすだけの勇氣と良心があつてよさゝうなものだ。

△これは單に發賣禁止問題だけについて言ふのぢやない。個人主義藝術への對抗を天職とするらしい藤森成吉君が〔、〕言論文章の絶對自由といふ個人主義の幻影に手淫する樣な傾向は、すべてがこの調子なのだ。勞農共産の立場から帝國主義を攻撃した奴がある。勞農共産それ自身が、極めて露骨率直惡性な帝國主義だといふ。その此上なき單純な事實をなぜ意識しようとしないのだ。帝國主義に共産主義も資本主義もあつたものではない。どんな動機と制度からにしろ、苟くも自國の領土と勢力範圍の擴張に努める國家はみな帝國主義に立つものだ。要するに、無恥、低能、無省察、卑劣、俗惡――これがいまのプロレや急進文筆商賣屋に共通した最大の特徴である。どれほど贔屓目に見ても彼等の論辯に蒲鋒の坂以上の價値を認めるわけには行かない。こんなざまでは、なかなか以つて中村君の愚論を冷嘲するどころの資格であるまい、といふのが本文の基調だ。(高畠素之)

△こんど、兵卒の境遇なども斟酌して徴兵令を改正するさうだが、大へん結構なことゝ思ふ。それについて、一年志願制には手をつけないさうだが、これは面白くない。一定の學校教育を受け、一定の出費を負擔し得る境遇の國民(ブルヂオア!)だけに、徴兵猶豫や一年志願の特典を與へるといふことは徴兵制の一視同仁を毀けるもので、特權擁護のそしりを免れない。與へるのなら貧乏人にも與へるし〔、〕與へないならブルヂオアにも與へないといふことにしないと水平でない。

△が、私のいひたいことは、そこにあるのではない。何ぞといふと、急進張つた運動に出しやばりたがる學生どもが、この白晝公然の階級的擁護的制度に對しては、全く知らぬ顏を定め込んでゐるといふ一事だ。彼等は軍教に反對した。あの時にも、我々は徴兵猶豫や一年志願の不當な特典を獨占しながら、社會主義的の口吻を軍教反對にばかり向けるのは怪しからぬといつたが〔、〕いくら新らしさうなことをいつでも、ブルヂオアの倅は、所詮ブルヂオアの蛙の子か。そんな手合は、軍教でドシドシ叩きのめしてやるといゝ。(―高畠―)

※『隨筆』第一卷第五號(大正十五年十月)


アルス對菊池寛の抗爭問題について

喧嘩が見苦しかつたといふが、僕は見てゐて割合に面白かつた。こんな面白い喧嘩が只で見られて、その上、子供のために安い本が買へるといふのだからこれは一擧兩得といふものであらう。見苦しいのは、向ふ樣の勝手で、見苦しくないやうな喧嘩を見る氣になれるものでない。

假りに見苦しいから惡い喧嘩だつたとしても、犠牲なくして進歩が得られるものでない。日本の出版業も、これからいよいよ本物の資本營業に革命されやうといふ時であるから、一切の必然惡は寛假して、進むべき進歩の勢を助長するほかはない。

どのみち、高い本が安く買へ、出版營利のケタが一躍六七段も上り、著作渡世の報酬も革命的に殖ゑて來るといふのだから、これは三拍子揃つて結構なことに違ひない。この恩典に浴し得ない出版屋や著作屋は、進歩の下積みになる。それは如何なる營業革命にも避けられぬ犠牲だから、身の不運をかこちつつも、じつと觀念の目をつぶるほかはあるまい。弱者への同情を以つて進歩を犠牲とすべからず。

商賣として、思想屋も、文藝屋も決して他の商賣以上に無邪氣なものでないといふことを示しただけでも一得である。正義、良心、等、一切の道徳的美辭麗句が商賣の道具となつたとき、始めて眞劍に活用されることを見たのも嬉しい現象である。(高畠素之)

※『隨筆』第二卷第七號(昭和二年七月)


現代論壇の人々を評す

評論家には學校學問の素養だけでなく、世態人情のカミわけを多分に必要とするやうです。さればといつて、學問がないと雜駁に流れる。

學者のジアーナリズム化とは墮落であらうか。小泉信三、高田保馬兩氏に貧の苦勞をさせたら立派なジアーナリストにもなれた人であらうと思ふ。福田徳三氏の政論又は社會時評も宜しい所と思ひます。學問を善い意味で通俗化し得る人としては、丘淺次郎、河上肇、牧野英一、福田徳三、土肥慶藏諸氏を擧ぐべきでせう。若宮卯之助、北一輝兩氏に何故評論をかかせないか。高橋龜吉、長谷川萬次郎、白柳秀湖、末廣嚴太郎諸氏の作品に、それぞれ敬意を表す。やめて貰ひたいのは、辯證法とゆき詰り。

底本:『隨筆』第二卷第十號(昭和二年十月)


注記:

※句読点を補った場合は括弧に入れた。
※隨筆漫語は○を挿んで別の話。

改訂履歴:

公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12

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