第1章 商品

(1)商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)

資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『尨大なる商品集積』(一)として現はれ、個々の商品(1)はその成素形態として現はれる。故に我々の研究は、商品の分析を以つて始まる。

(一)拙著『経済学批判』(ベルリン、1859年刊、第4頁)(2)。

商品は先づ、外界の一対象である。即ち、その諸性質に依つて、人類の何等かの種類の欲望を充たす一の物である。この欲望の性質如何、即ちそれが胃腑から起るか、又は空想から起るかは、問題の上に何等の変化をも与へるものでない(二)。又、その物が如何やうにして人類の欲望を充たすか、即ち直接に生活資料として、換言すれば享楽の対象としてか、それとも迂回的に生産機関としてか、それも茲では問題とならない。

(二)『願望は欲望を含む。それは心の食慾であつて、餓の身体に於ける如く自然的のものである。……大多数(物の)は心の欲望を充たすことによつて価値を受けるのである』(ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答ふ』ロンドン、1696年、第2及び3頁)(3)。

鉄、紙などの如き如何なる有用物も、これを二重の見地、即ち質と量との両面から観察することが出來る。斯くの如き有用物は、いづれも多数性質の集合体であつて、随つて種々なる方面に有用なるを得る。此等の種々なる方面、随つて有用物の様々なる用途を発見するは、歴史的の事蹟である(三)。有用物の分量に対する社会的公認尺度の設定も亦さうである。元来、商品尺度の多種多様なることは、一部的には、秤量せらるべき対象の性質の多種多様なるに起因し、一部的にはまた、伝習に起因するものである。

(三)『物は固有価値(バーボンはこの言葉を使用価値の特殊代用語にしてゐる)を有つてゐる。而してこの固有価値は何処に於いても同一の価値を有つている。例へば、磁石の鉄を引きつける性質の如きがそれである』(前掲第16頁)(4)。磁石の鉄を引きつける性質は、この性質に依つて磁極性を発見した時に初めて有用となつたものである。

物の有用性は、この物を使用価値(5)たらしめる(四)。然しこの有用性は、空中に浮んでゐるものではない。それは商品体の諸性質に基くものであつて、商品体を離れては存在しない。されば鉄、小麦、ダイヤモンドなどの如き商品体それ自身が一の使用価値、即ち財なのである。商品体のこの資格は、商品体の使用上の諸能性を占有するために、人類が多くの労働を費したか、少しの労働しか費さないかに懸るものではない。我々は使用価値を考察するに当り、つねに、その一定の分量を前提する。例へば何ダースの時計、何ヤールのリンネル、何噸の鉄などといふ如くである。商品の使用価値は、特殊の一学科たる商品学(五)に材料を供給するものである。

(四)『如何なる物の自然的価値も、その物が諸種の必要を充たし、又は人間生活の諸便宜に応ずる適当性といふことに存している』(ジォン・ロック著『利子低減の諸結果に関する研究』1691年初刊、1777年ロンドン出版ロック全集本、第2巻第28頁)(6)。17世紀に於いても尚、イギリスの著述家たちが使用価値の意味でworthなる言葉を使用し、また交換価値の意味でvalueなる言葉を使用してゐたことを、我々は屡々発見する。これは全く、現実の物に対してはチュートン系の言葉を使用し、主観に反射された物に対してはラテン系の言葉を使用することを好む国語の精神に一致するところである。

(五)ブルジォア的社会に於いては、如何なる人も、商品の購買者として、百科辞典的商品知識を有すといふ擬制が行はれてゐる。

使用価値なるものは、使用又は消費に依つてのみ実現される。富の社会的形態の如何を問はず、使用価値は常にその実材的内容を形成する。而して我々が茲に考究せんとする社会形態に於いては、それは同時にまた、交換価値(7)の実材的負担者(8)たるのである。

交換価値は先づ、分量関係即ち一種類の使用価値が他種類の使用価値と交換される(六)比例――時と処とに準じて絶えず変化するところの――として現はれる。故に交換価値は偶然的な純相対的なものであり、随つて商品に内在固有するところの交換価値(固有価値)(9)ありといふは、一の形容矛盾であるやうに見える(七)。この問題を尚、詳しく考へて見よう。

(六)『価値は斯々の一物と斯々の他物、一生産の斯々の尺度と斯々の他の尺度との間に存する交換関係の中に成立つものである』(ル・トローヌ著『社会的利益について』デール編フヰジオクラット、パリー、1846年刊、第889頁)(10)。

(七)『内在的交換価値を有つといふことは、何物にとつても不可能なことである』(バーボン前掲第16頁)。或はバトラーの言ふ如く、『一物の価値とは、その物が幾許の物を齎らすかといふことである。』

一定の商品、例えば1クォターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金、約して言へば、種々様々な比例に於ける他の諸商品と交換される。されば小麦は、単一の交換価値のみを有するものではなく、多数の交換価値を有してゐるのである。然るにx量の靴墨も、y量の絹も、z量の金なども、総べて皆、1クォターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは交互に置き換へ得るところの、又は互にその大さを等しうするところの交換価値であらねばならぬ。そこで第一に、斯ういふ結論が生じて來る。即ち、同じ一商品の有效なる各交換価値は、一の等一物を言ひ現はしてゐる。第二にまた、総じて交換価値なるものは、それ自身と区別し得る或内容の表章様式即ち『現象形態』たり得るのみである。

更らに二つの商品、例へば小麦と鉄とを例に採らう。これら二商品の交換比例は如何やうにもあれ、それは常に、与へられたる分量の小麦を、或分量の鉄と等位に置く方程式、例へば、1クォターの小麦=aハンドレッドウヱイトの鉄を以つて示すことが出來る。この方程式は何を意味するか。それは同じ大さの一共有物が、二つの相異つた物即ち1クォターの小麦とaハンドレッドウヱイトの鉄との内に存在することを示すのである。故にこの両者は、それ自体に於いて小麦でもなく、また鉄でもない或第三者に等しいものである。随つてこの両者の各は、それが交換価値である限り、斯様な第三者に約元し得るものでなくてはならぬことになる。

幾何学上の単純なる一例を以つて、この事実を明かにしよう。如何なる直線形にしろ、その面積を決定し比較するためには、これを三角形に分解する。而してまた、この三角形それ自体は、これをその目に見える形とは全く異つた言ひ現し、即ちその高さと底との積の二分の一に約元する。これと同様に、諸商品の交換価値も亦、それに依つてヨリ多量なり少量なりを表現されてゐるところの一共通物に約元し得るのである。

この共有物は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、又はその他の自然的性質ではあり得ない。商品の有形的性質は総じてそれが商品を有用ならしめ、使用価値たらしむる限りに於いてのみ、考慮に入るものである。他方にまた、商品の使用価値からの抽象こそ、商品の交換比例をば一目瞭然的に特徴するところのものである。この交換比例の内部に於いては、一の使用価値はそれが適当なる比例を以つて存在しさへすれば、他の如何なる使用価値とも同じに通用する。或はまた、老バーボンの言ふ如く、『一種類の商品と他種類の商品とは、その交換価値の大さが等しければ共に同じものである。同じ大さの交換価値を有する物の間には、何等の差異も區別もない』(八)。

(八)『100磅に価する鉛なり鉄なりは、100磅に価する銀なり金なりと同じ大さの価値あるものである』(11)。(ニコラス・バーボン前掲、第53及び7頁)。

各商品は、これを使用価値として見れば、互ひに質を異にするといふことが先に立つが、交換価値として見れば、ただ量を異にし得るに過ぎず、随つて使用価値の一原子をも含まないのである。

そこで、商品体をその使用価値から離れて見るとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである。然し労働生産物でさへも、既に我々の手の中で変化してゐる。労働生産物の使用価値から抽象することは、同時にまた、労働生産物を使用価値たらしめる有形的な諸成分及び諸形態からも抽象することになる。斯くして労働生産物は、もはや、卓子でもなく、家でもなく、糸でもなく、その他何等の有用物でもない。労働生産物の凡ゆる有形的性質は消え去つてゐる。それはもはや、指物労働、建築労働、紡績労働、その他如何なる一定の生産的労働の産物でもない。労働諸生産物の有用的性質と共に、それらの物に表現されてゐる諸労働の有用的性質も亦消滅し、これら諸労働の種々なる具体的形態も亦消滅する。諸労働はもはや、互に相異なるところなく、総べてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元されてゐる。

然らば、労働諸生産物の残基は何であるかを考察しよう。右の抽象の後に労働生産物に残るものは、同一なる空幻的の対象性のみである。即ち無差別なる人間労働の、換言すれば、その支出の形式に頓著するところなく考へた人間労働力の支出の、異なる凝結のみである。これらの物は結局ただ、その生産のために人間労働力が支出され、人間労働が蓄積されるといふことを示すに止まる。これらの物は、斯くの如き共通なる社会的実体の結晶として見るとき、価値(12)――商品価値(13)――なのである。

商品の交換関係に於いては、交換価値なるものは使用価値から全く独立したものとして現はれることは、我々の既に見たところである。然るに、労働諸生産物の使用価値から現実的に抽象してしまふと、上に限定せる如き価値が残る。故に商品の交換関係たる交換価値に現われるところの共通物とは、即ち価値であるといふことになる。

本書の研究が進むにつれて、価値の必然的表章様式又は現象形態としての交換価値の説明に論を戻すことになるが、今は先づ、この形態から独立して価値の性質を考へて見ねばならぬ。

要するに、一の使用価値、即ち財は、抽象的意義に於ける人間労働がその中に対象化され実体化されてゐるが故にのみ価値を有するのである。然らばこの価値の大さは、如何にして秤量されるか。使用価値の中に含まれてゐるところの『価値形成実体』たる労働の量に依つて秤量されるのである。而して労働の量はまた、労働の時間的継続に依つて秤量され、労働時間(14)は更らに時、日、等の如き一定の時間部分を尺度とするのである。

商品の価値がその生産の進行中に支出された労働の量に依つて決定されるとすれば、人が怠惰であり又は不熟練であればある程、商品を造り上げる為にそれだけ多くの時間を要する訳であるから、彼れの造る商品はそれだけ価値多いやうに見えるかも知れぬ。然しながら、価値の実体を形成する労働とは、等一なる人間労働、換言すれば同一なる人間労働力の支出を謂ふのである。商品界の価値全体の中に表現される社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立つてゐるが、茲では総べて一様なる人間労働力と見做される。而してこれらの個別的労働力の各個は、それが社会的の平均労働力たる性質を有し、また斯くの如き社会的の平均労働力として作用し、随つて一商品の生産上に、平均的或は社会的に必要なる労働時間のみを要する限り、いづれも皆同一なる人間労働力である。而してその社会的に必要なる労働時間とは、現在に於ける社会的に標準を成す生産条件と、労働の熟練及び能率の社会的平均程度とを以つて、何等かの使用価値を生産するに必要な労働時間を指すのである。

例へば、イギリスに於いて蒸気織機の採用された結果、一定量の糸を織物にするのに恐らく従來の労働の半ばを以つて事足るやうになつたであらう。イギリスの手織工は、この同一の仕事に対して事実上従前通りの労働時間を要したのであるが、彼れ自身の労働一時間の生産物は、今や半時間の社会的労働を表現するに過ぎなくなり、随つて従前の価値の半ばに低落したのである。

斯くの如く、一の使用価値の価値の大小を決定するものは、社会的に必要なる労働の量、又はその生産上社会的に必要なる労働時間に外ならぬのであつて(九)、個々の商品は、この場合、総じてその所属種類の平均見本(15)と見るべきである(十)。斯くて同一量の労働を含むところの、換言すれば同一の労働時間に生産され得るところの諸商品は、みな同じ大さの価値を有することになる。一商品の価値が他の各商品の価値に対して有する比例は、前者の生産に必要なる労働時間が後者の生産に必要なる労働時間に対して有する比例に等しい。『価値として見れば、如何なる商品も、凝結したる労働時間の一定量に過ぎぬ』(十一)のである。

(九)第二版註――『諸種の生活必需品が互ひに交換される場合、その価値は、これらの物品の生産上必然的に必要とされ、且つ通例充用されるところの労働量に依つて決定される』(匿名者著『一般金利、特にまた公債その他の金利に関する考想』ロンドン、第36頁)(16)。この匿名書は前世紀に於ける注目すべき一著述であるが、それには刊行の日附が与へられてゐない。然しその内容から判斷すると、ヂォーヂⅡ世の治下、1739年又は40年の頃、公けにされたものであることは明かである。

(十)『同一種類の凡ゆる生産物は相合して一の分量を成すものであつて、その価格は特殊の事情に頓著なく、全般的に決定されるものである』(ル・トローヌ前掲第893頁)(17)。

(十一)前掲拙著第6頁(18)。

されば商品の価値の大さは、その商品の生産に必要なる労働時間が不変(19)であるとすれば変化することはないであろう。然るにこの労働時間は、労働の生産力に変化ある毎に変化するものである。而して労働の生産力はまた、種々なる事情、なかんづく労働者の熟練の平均程度、科学及びその工藝的応用の発達程度、生産行程の社会的結合、生産機関の範囲及び作用能力、諸種の自然事情、等に依つて決定される。

例へば同一量の労働が、豐年には8ブシェルの小麦に依つて代表され、不作の年には僅々4ブシェルの小麦に依つて代表される。まだ同一量の労働が、豐坑に於いては瘠坑に於けるよりも多量の金属を供給する等の事実もある。ダイヤモンドは、地表に於いては稀有のものであつて、これを見出すには平均して多大の労働時間を要する。斯くしてダイヤモンドは僅少の量を以つて多大の労働を代表することになるのである。ヤコーブは、果して金の全価値が支払はれたことがあるかを疑つてゐる。ダイヤモンドに至つては尚更らである。エシュヴェーゲ(20)に依れば、1823年ブラジルの諸ダイヤモンド坑に於ける過去80年間の採掘総高は、同国に行はれる甘蔗及び珈琲栽培業の一年半の平均生産物の価格にも達しなかつた。而も前者はヨリ多くの労働、随つてヨリ多くの価値を代表してゐたのである。

同一量の労働も、豐坑に於いてはヨリ多大のダイヤモンドに依つて代表されるのであつて、ダイヤモンドの価値は低落することになる。また若し僅少の労働を以つて炭素をダイヤモンドに化し得るやうになるとすれば、ダイヤモンドの価値は煉瓦の価値以下に低落し得るのである。概括して言へば、労働の生産力が大なるに従つて、一物品の生産に要する労働時間は益々小となり、その物品に結晶してゐる労働量、随つてこの物品の価値は益々小となるのである。反対に、労働の生産力が小なれば小なる程、一物品の生産に要する労働時間は益々大となり、斯くしてこの物品の価値も亦益々大となるのである。即ち一商品の価値の大小は、この商品に体現してゐる労働の量に正比例し、その生産力には逆比例して変化するのである。

物は価値たらずして使用価値たることを得る。即ち人類に対するその物の效用が、労働に依つて生じたのでない場合がそれであつて、例へば、空気や、処女地や、自然的の牧場や、野生の木材などに於いて見るところである。また、物は商品たらずして有用であり、且つ人間労働の生産物たることを得る。例へば、自己の労働の生産物に依つて自己の欲望を充たす人は、使用価値を造り出すには相違ないが、商品を造り出すものではない。商品を生産するためには、彼れは単に使用価値を生産するといふのみでなく、また他人のための使用価値を、即ち社会的使用価値を生産せねばならぬ。〔否、単に他人のために(21使用価値を造るといふことばかりではない。中世の農民は封建主君のために年貢とすべき穀物(22)を造り、僧侶のために十分一税とすべき穀物(23)を造つた。然し年貢とすべき穀物も、十分一税とすべき穀物も、他人のために生産されたものではあるが、そのために商品とはならなかつた。生産物が商品となるためには、それが使用価値として役立つ他人の手に交換を通して移轉されることを要するのである〕(十一a)。最後に如何なる物も、使用対象たることなくしては価値たることを得ない。物が無用であるとすれば、その内に含まれてゐる労働も亦無用であつて、斯かる労働は労働とは認められず、随つて何等の価値をも形成するものではないのである。

(十一a)第四版註――この括弧内の説明のないため、マルクスは生産者以外の人に依つて消費される生産物の総べてを、商品視したといふ誤解が屡々生じたので、私は茲にこれを挿入することにした譯である。――F・E・

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