第4版編輯者序文

第4版に於いては、本文についても、脚註についても、出来得る限り終局的の確立を与える必要があった。私は如何にしてこの必要を充たしたか、それについて以下簡単に述べる。

私はいま一度フランス版とマルクスの手記とを比較した後、フランス版から尚若干の補遺をドイツ版に採り入れた。此等の補遺は本版(訳本)第85頁、第479頁乃至480頁、第571乃至576頁、第616乃至618頁、及び620頁の註七十九に含まれている。私は又、フランス版及びイギリス版に従って、鉱山労働者に関する長文の脚註を本文に移し換えた(第481乃至487頁)。その他の小変更は、いずれも純技術的性質のものに止まっている。

更らに、若干の補註をも追加したが、これは特に、歴史的事情の変動上から必要となった如く見える個所に多いのである。此等の補註はいずれも角形の括弧に納め、それに私の姓名の頭字『F・E・』又は編輯者なる語の略字『D・H・』を附した。

当時イギリス版が刊行された為、幾多の引抄を完全に修正することが必要となった。このイギリス版の為に、マルクスの末女エラナーは、一切の引抄個所を原文と対照するの労をとった。斯くて本書に於ける引抄の大部分を占めているイギリス文献からの引抄については、ドイツ文からの翻訳ではなく、イギリスの原文がその儘用いられることになった。そこで第4版の編輯上、此等の原文を参照する必要が生じた。私はこの参照に依って、幾多の些細な不確実を見出した。例えば、参照頁数の間違いがあった。これは一部的にはノートから写しとる際の誤写に因るものであり、一部的には又、三度び版を重ねている中に積り積った誤植の結果であろう。ノートから多数の引抄を書き移すに当って避けられぬ如き、引抄符や省略符の位置の取り違いもあった。又、時折りは、幾分不適訳と思われる言葉にも出くわした。或る個所の如きは、1843年から45年に至る間マルクスのパリー在住中に整えられた古ノートから引抄されたものであるが、当時マルクスはまだ英語を知らず、イギリスの経済学者の文献はこれをフランス訳で読んでいた。それを更らにドイツ語に重訳したのであるから、文書の調子に幾分変化を来たすことを免れなかった。例えばスチュアートや、ユーアや、その他の著述家の場合がそれである。此等の個所に対しては、今や英語の原文を利用し得るようになったのである。以上の外にも尚、同様の些細な不正確や不注意の点について訂正を加えた。

然し、この第4版を前数版と比較する時、此等一切の小面倒な訂正も何等語るに値する所の変更を本書の上に与えて居らぬことが得心されるであろう。ただ一つ、リチャード・ジョンズからの引抄(第587頁、註四十七)のみは出処不明であった。これは多分、書名を書き誤ったものであろう。が、その他の引抄は、いずれも完全なる立證力を保持している。或は寧ろ、本版に於ける正確な形態を以って、その立証力を更らに強められているのである。

だが、私はこの場合、或る古い事件に溯る必要に迫られている。

私はマルクスの引抄の確実性が疑われた唯だ一つの場合を知っている。この問題は、マルクスの死後まで持ち越されたものであるから、私は茲にそれを黙過することが出来ぬのである。

1872年3月7日のベルリン『コンコルヂア』誌(ドイツ製造業者同盟の機関)に『カール・マルクスの引抄振り』と題する匿名の一文が現れた。論者はこの文章の中で、1863年4月16日のグラッドストーンの予算演説から採用したマルクスの引抄――これは最初1864年の『国際労働者協会』の創立演説中に掲げられ、後ちまた『資本論』第1巻(第641頁)に再録されたものである――をば道徳的憤怒と非議会的言辞との濫発を以って偽造呼わりしている。論者の主張する所に依れば、マルクスの挙げた『富と権力との斯かる魔酔的増殖は……悉く有産階級にのみ限られている』という一句は、ハンサードの半官報的議事速記録には、一語も現れて居らぬ。『この文句はグラッドストーンの演説の何処にも見出されない。彼れの演説には、寧ろ正反対のことが言われている。要するにマルクスはこの文句をば、形式上にも実質上にも偽造挿入したのである!』

マルクスは右の攻撃文の載っている『コンコルヂア』誌を同年5月に受け取り、同年6月1日の『フォルクス・シュタート』紙上で右の匿名氏に答えた。これに依れば、彼れは右の引抄を如何なる新聞報道から採用したか、もはや思い出せなかった故、先ずその同じ引抄の文句が二つの英文出版物に載っている事実を指摘し、続いて『タイムズ』紙に掲載された演説記事を引抄するに止めた。この記事に依れば、グラッドストーンは次ぎの如く言っている。『以上は我国の富に関する状態である。兎に角、私は断言せねばならぬ。若し富と権力との斯かる魔酔的増殖が、安楽階級にのみ限られているということが私の信ずる所であるとすれば、私は殆んど憂慮と苦痛とを以ってこの増殖の事実を眺めねばならぬ。斯かる事実は労働民の状態を毫も顧みざるものである。正確な統計に基けるものと私が信じている上述の増殖は、全く有産諸階級にのみ限られる所のものである。』

つまりグラッドストーンが茲に言うことは、事実若しそうだとすれば残念なことだが、事実はその通りだというのである。即ち富と権力の斯かる魔酔的増殖は、悉く有産階級にのみ限られているということになるのである。更らに、半官報的ハンサード速記録についてマルクスは斯う言っている。――『グラッドストーン氏は、その後この点に手入れをした演説記録の版本の中から、イギリス大蔵卿の言葉としては確かに穏かならぬ右の一個所をば聡明にも削除した。然し斯様なことは、イギリス議会の常習であって、決してかのべーベルを瞞そうとしてなされたラスカーの発明の如きものではないのである。』

匿名氏は茲に於いて、ますます躍起となった。彼れは7月4日の『コンコルヂア』誌に掲げられた答弁の中で、彼れ自身の用いた間接の証拠材料を押し除けながら、きまり悪るそうに次の事実を仄めかした。即ち、議会の演説は速記録から引抄されるのが『習慣』であり、而も『タイムズ』紙の記事(『偽造挿入した』文句を含む所の)とハンサードの記事(右の文句を含まぬ所の)とは『内容に於いて完全に一致』し、且つ『タイムズ』紙の記事は、『創立演説中の、かの疑わしい個所とは正反対のもの』を含むというのである。が、彼れは『タイムズ』紙の記事の中には、この自称的な『正反対のもの』と相並んで『かの疑わしい個所』も亦、明かに含まれていることについては、慎重に沈黙を守っていたのである。

彼れは斯く主張しながらも、己れの主張が進退谷ったこと、而して新たなる誤魔化しに依ってのみこの窮地から救われ得ることを感じた。そこで彼れは右の論証せる如き『鉄面皮の嘘』に充ちた文章を飾るに、『不誠意』、『不正直』、『虚偽の記述』、『かの虚偽なる引抄』、『鉄面皮の嘘』、『全く偽造された引抄』、『この偽造』、『全く恥ずべき』等、等の教法師的な悪口を以ってすると同時に、また論点を多方面に押し移すことの必要を感じた。而して『次回の文章を以って、我々(「嘘つき」でない匿名氏)はかのグラッドストーンの言葉に如何なる意義を附すべきかを説明しよう』と約束した。標準となり得ない彼れ一個の私見が些かでもこの問題に関係する所あるかの如く!ところで、この約束の文章は、7月11日の『コンコルヂア』誌に掲載されたのである。

マルクスはその後更らに、8月7日の『フォルクス・シュタート』紙上で答弁した。而してこの答弁に於いては、1863年4月17日の『モーニング・スター』及び『モーニング・アドヴァタイザー』両紙から、問題の記事を引抄した。この両記事に依れば、グラッドストーンの言う所は、彼れにして若し富と権力との斯かる魔酔的増殖が安楽諸階級にのみ限られていると信じたとすれば、彼れは憂慮と苦痛とを以って、この増殖の事実を眺めたであろうということになる。然るにグラッドストーンは、この増殖が有産諸階級にのみ限られていると言った。随って右の両記事は、かの匿名氏の称する『偽造挿入した』文句をその儘含んでいることになるのである。

マルクスは更らに『タイムズ』紙とハンサード速記録との本文を参照して、議事の翌日、以上三新聞に現れた夫々独立してはいるが然し互いに一致している所の記事に依って確実を保証された問題の一句が、人の知る『習慣』に従って校閲されたハンサード速記録に欠けていること、及びグラッドストーンがマルクスの言う通りその一句を『後に及んで削除した』ものであることを確証した。而してマルクスは最後に、もはやこれ以上匿名氏と係り合う暇がないと宣明した。斯くして匿名氏は十分満足を与えられたように見えた。少なくとも、マルクスはその後もはや『コンコルヂア』誌の寄贈を受けなかったのである。

斯くして、問題は死して葬られたように見えた。尤もその後一二度、ケンブリッヂ大学に関係ある人々の間から、マルクスが『資本論』の中で犯したと称せられる言語道断な著述上の罪悪に関する不可解な取沙汰が洩れて来た。が、これについていろいろ取調べたが、確かなことは一つも知り得なかった、然るに、1883年11月29日(即ちマルクスの死後8ヶ月)に至り、在ケンブリッヂ、トリニチー大学、セドレー・テーラーなる署名の投書が『タイムズ』紙上に現れた。この小男は極めて温順な共同組合事業に手を出している人物であるが、彼れは右の文章の中で、最初に捕えた機会を以って、早くも、かのケンブリッヂの取沙汰に関する手掛りのほか、更らに『コンコルヂア』誌の匿名氏に関する手掛りをも我々に与えたのである。

このトリニチー大学の小男は言う。――『かの創立演説中にグラッドストーンの演説を引抄せしめる動機となったことが明かである所の悪意を暴露する任務が……ブレンタノ教授(当時ブレスラウ大学に在り、今はシュトラウスブルグ大学にいる)に留保されていたことは、頗る奇異の感を与うる事実である。かの引抄を弁護しようとした……カール・マルクス氏は、ブレンタノの巧妙なる攻撃に依って忽ち逐い詰められ、進退谷った結果、無謀に主張して曰く、グラッドストーンは、1863年4月17日の「タイムズ」紙に掲げられた演説記事の中から、大蔵卿としての自己の地位に危険なる一句を削除する為に、諸記事が、ハンサード速記録の中に公表せられるに先だち、早くもこれを改竄したと。然るに、一度びブレンタノが現れて、「タイムズ」紙及びハンサード速記録の演説記事本文を仔細に対照し、以ってこの両記事がいずれも、かの前後の聯絡から狡獪に引きちぎった引抄に依りグラッドストーンの言葉に嫁せられた意味を全然廃除する点に於いて、相一致する次第を論証するに及び、マルクスは時間が乏しいという口実の下に退却した。』

問題の核心は茲にあったのである!而して『コンコルヂア』誌上に於けるブレンタノ君の匿名論戦は、ケンブリッヂの生産組合的想像に斯く燦然と反射したのである!ドイツ製造業者同盟の聖ジョージたる彼れは、実に斯く陣を布き、その『巧妙に処理した攻撃』に斯く刃を操った。然るに、地獄の龍なるマルクスの方は、百計尽きた『窮地に追われ、速かに』この聖ジョージの足もとで往生を遂げた!というのである。

而かも、このアリオスト式の全戦争記は、我がジョージの誤魔化しを隠蔽するに役立つのみである。この戦争記に於いては、もはや『偽造挿入』でなく、『前後の聯絡から狡獪に引きちぎった引抄』が問題となっている。斯くて、全問題は別途の方面に推し移されることになった。而してこれが理由の如何は、聖ジョージ並びにケンブリッヂに於ける彼れの楯持に依って確知されている所であった。

エラナー・マルクスは『タイムズ』紙に掲載を拒絶されたため、1884年2月号の月刊誌『ツデイ』紙上でセドレー・テーラー氏に答えた。彼女は論戦を問題となった唯一の論点に引き約めた。即ち、マルクスは果して、件の文句を『偽造挿入』したか否か、というのである。セドレー・テーラー君はこれに答えて言う。――

『グラッドストーン氏の演説の中に、たまたま或る一句があったか否かの問題』は、自分の見る所に依れば、これを『件の引抄の目的がグラッドストーンの言葉の意味を単に正伝するものなるか、曲伝するものなるかの問題に比すれば』マルクス対ブレンタノの論戦に於いては『甚だ重要性の少ないものである』と。而して彼れは『タイムズ』紙の記事の中に『実際、用語上の矛盾が含まれている』ことは承認するが、然し前後の聯絡を正当に(即ち自由主義的・グラッドストーン的意義に)解釈すれば、グラッドストーンの謂わんとした所は明かにこれを知ることが出来るといっている。(1884年3月号『ツデイ』誌)。茲に最も滑稽なことは、我がケンブリッヂの小男が、匿名氏ブレンタノの謂わゆる『習慣』に従ってハンサード速記録から引抄しないで、ブレンタノが『当然断片的』なりと評した『タイムズ』紙の記事から引抄すべきことを主張している一事である。勿論、ハンサード速記録には、件の致命的な文句は載っていないのである!

エラナー・マルクスにとっては、以上の論弁を『ツデイ』同号紙上で雲散霧消せしめることは容易であった。テーラー氏は1872年の論戦を読んだか、然らずんば読まなかった筈で、若し読んだとすれば、彼れはいま『偽造挿入』しているのみでなく、『偽造省略』をもしている訳である。又、読まなかったとすれば、彼れは口を噤む義務を有する。いずれにしても彼れが、その友ブレンタノの口から出たマルクスは『偽造挿入』したという非難を、一瞬時も支持しようと企てなかったことは明かである。反対に、マルクスの方は『偽造挿入』したのではなく、重要な一句を隠匿したのだということになる。而かもマルクスに依って隠匿されたというこの一句は、『国際労働者協会』創立演説第5頁の『偽造挿入』したと主張される文句の数行前に引抄されているのである。又、グラッドストーンの演説の『矛盾』について言えば、かの『資本論』第642頁註百五の中で『1863年及び64年に於けるグラッドストーンの予算演説に含まれている不断の見逃し難き矛盾』を指摘したのは、ほかならぬマルクスその人ではなかったか?彼れはセドレー・テーラーの如く此等の矛盾を自由主義的御都合論に都合のいいように分解せしめることを敢てしなかったという点だけが違うのである。

要するに、エラナー・マルクスの答弁を摘要すれば次ぎの如くになる。――『寧ろ反対に、マルクスは苟くも引抄の価値あるものは毫も抹殺することなく、又、一言半句も偽造挿入せることはなかった。彼れは寧ろ、グラッドストーンの演説中に述べられたことは確かであるが、何故かハンサード速記録から洩れ落ちた一句をば復活させて、堙滅から救い出してやったのである。』

これで、セドレー・テーラー君も満足した。而して、この10余年間に亘り而も二大国に跨った教授的な全無駄話の結果は要するに、もはや何人もマルクスの文献的誠意を疑うことを敢てしなくなったということと、この時以後セドレー・テーラー君もブレンタノ氏がハンサード速記録の法王的無過性を信じなくなったと同様に、定めしブレンタノ氏の文献的戦闘文に信を措かなくなるであろうということとの二点に尽されているのである。

1890年6月25日

ロンドンに於いて

フリードリヒ・エンゲルス

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