舊改譯版序文


私が『資本論』の飜譯に著手したのは大正八年七月、最後の分册を刊行し了へたのは大正十三年七月、その間正に五年の星霜を閲してゐる。同一出版物の勞作期間としては可なりに大きな年月と言はねばならぬ。勿論、その間には種々なる餘儀的享樂に時間を浪費したこともあるから、五ヶ年の全部を『資本論』のためにのみ沒頭したとは言ひ得ないが、然しこの間に於ける私の注意と努力と時間の主要部分が、『資本論』刊行の一目的に集中されてゐたことは事實である。

それで昨年七月、最終分册を刊行し終つたとき、私の過去五年間の努力は曲りなりにも大成された譯であるから、私としては大いに重荷を卸した氣分になり、祝盃の一つも上げねばならなかつた筈であるが、事實は更らに苦痛を加へるのみであつた。それは私の過去に於ける勞作が、甚しく不出來に終つたといふ自意識に原因を置いてゐる。

私の飜譯は、何よりも先づ難解であつた。譯者たる私自身が讀んで見ても、原文を對照しないでは意味の通じない處が無限にある。これは一つには、『資本論』の名に脅威されて、私の譯筆が餘りに硬くなり過ぎたことにも起因してゐる。現に『資本論』以前に刊行した『資本論解説』の方は、不出來ながらも難解の缺點は比較的少なかつた。『資本論』も『解説』程度にやつてやれぬことはなかつたであらうが、何分にも硬くなつてしまつて日本文の體をなさなくなつた。

第二に、純然たる誤譯とすべきものが少なからず見出された。これは大抵ケーアレス・ミステークとして恕し得べきものであつたが、中には私の實力不足に依るものも可なりあつた。

第三に、印刷上の誤植その他不體裁の點が少なからず見出された。ことに舊版第一卷第一、第二册の如きは、刊行を急がされたためでもあらうか、隨分物笑ひになりさうな缺點を含んでゐた。

然し、誤譯や誤植を改めるのには、さして時間と勞力を要しない。一番困難なことは、難解の譯文をいま一度原文と對照して、日本人に解る日本語に全部譯し換へることである。それも些々たる小册子ならば兎も角、大册三卷に亙り一難去つて更らにこの苦戰をきり抜けねばならぬかと思ふと、さう思つただけで氣が詰まりさうになる。それほど、私の神經と理解性の尖端は『資本論』のために麻痺し盡されてゐたのである。

然し、私としては、どうしてもこの仕事だけは完成せねばならぬ。原本が原本だけに恥を後世に遺すやうなことがあつては申譯がない。十分とは行かぬ迄も、せめて日本文が讀めると假定したマルクスから、一流の冷笑を以つてあしらはれないだけの成績は収めて置きたい。舊版は兎に角失敗であつたが、第二戰に於いては少なくとも其處まで漕ぎつけたい、といふのが絶えず私の心頭にこびりついて離れない念願であつた。

さういふ決心を以つて著手したのが、この改譯版である。忠實、眞摯の二點は勿論不動の出發點として、それ以外、この改譯版で最も力を罩めたのは、舊版の最大缺點たる難解を一掃して、出來得る限り理解し易い日本文の『資本論』を綴ることであつた。この點に於いて私の努力がどの程度まで功を奏したかは、勿論權威ある評者の評價に待つの外はないが、私としては全力的に精根を絞つたつもりである。時間も可なり費した。昨年八月から著手して、少なくとも昨年一杯には第一卷だけは仕上げるつもりであつたが、何分にも手入れを要する個所が多く、今日に及んで漸く第一卷を完了したやうな始末、その間十ヶ月は文字通りこの仕事のためにのみ沒頭して來たのである。

改譯については、カウツキー編纂平民版資本論が非常な助けになつた。舊版序文にも斷つた通り、私の語學が英獨二語に限られてゐるため、その他の國語で原文のまま掲げられてゐる脚註や引抄は如何とも齒が立たぬのであるが、カウツキーの平民版にはそれが全部ドイツ語に飜譯されてゐるので、この點が先づ助かつた。次に、言ひ現しの曖昧な點、難解な點や、句切りの長い處などは、すべて讀者の便宜を標準として手際よく編纂されてゐる。これらの點も出來得る限り、平民版に從つたが、然し全體の骨子は舊拙譯版通り原本第六版を基礎として、平民版の編纂秩序には準據しなかつた。

以下、讀者の便宜のため、『資本論』全體の成立につき簡單な叙述を與へて置く。

マルクスは第一卷序文の中にも言つてゐる如く、最初本書を三卷に分かつ考であつた。即ち第一部『資本の生産行程』を第一卷に収め、第二部『資本の流通行程』と第三部『資本の總生産行程』とを第二卷に充て、第四部『餘剩價値學説史』を以つて第三卷の内容たらしめようとしたのであつた。

彼れは第一卷執筆當時、既に全三卷の主要部分をあらかた腦裡に築き上げてゐたのであるが、病氣のため第一卷を完成したきりで、一八八三年三月十四日その第三版印刷中にこの世を去つた。

彼れの死後、エンゲルスは第二卷の編輯に著手したが、その編輯中、彼れはマルクスの最初の計畫を變更して、第二卷には前記の第二部、即ち『資本の流通行程』のみを含めることを適當と信じた。斯くてこの第二卷は一八八五年五月五日(マルクスの誕生日)、第一卷に後るること正に十八年にして漸く刊行を見ることになつたのである。

第三卷の刊行は更らに後れた。一八九三年七月、第二卷再版の公にされたとき、エンゲルスは尚第三卷の編輯に從事してゐた。それが初めて公にされたのは、一八九四年十月四日、第一卷を距ること實に二十七年の後であつた。第三卷はこれを上下に分かち、マルクスが最初第二卷の後半として計畫した前記第三部『資本の總生産行程』を取り扱つた。

第二、第三兩卷の發行が斯く長引いた事と、マルクスの原稿を整理するに當つての困難とについて、エンゲルスはこの兩卷の序文の中に、立ち入つた叙述を與へてゐる。彼れはその勞作に對する彼れ自身の貢獻を努めて貶下しようとしてゐるが、事實彼れの苦心努力が如何ばかりであつたかは、到底筆紙に盡し難き所であらうと思ふ。彼れは數年間にわたる衰視のため、人工光線の助けに依つて辛うじて筆を手にし得るに至つたことを第三卷序文中に述べてゐる。實に『資本論』はマルクス、エンゲルスの嚴密の意味に於ける共同著作といふも過言でない程、エンゲルスの努力に負ふところが多かつたのである。

エンゲルスは、マルクスが第三卷として計畫した前記の第四部『餘剩價値學説史』をば第四卷として刊行する豫定であつたが、その目的を達せずして不幸協勞者の跡を追つた。それは一八九五年八月六日、第三卷が刊行されてから、わづかに一年足らずの後であつた。

然し、彼れはかねてこの事あるべきを覺悟してゐたので、死に先だつ數年、ドイツ社會主義者中の碩學カール・カウツキーに第四卷編輯の任を託したのであつた。カウツキーはエンゲルスの死後この事業に著手したが、材料が餘りに豐富であつたため、これを獨立の一書たらしむるを適當と信じ、『餘剩價値學説史』と題して刊行した。これは前後三卷より成り、第一卷は一九〇四年十月、第二卷(二部より成る)は一九〇五年八月五日、第三卷は一九一〇年三月十四日に發行された。目下森戸辰男氏等の手に依つて、これが邦譯進行中と聞く。學界のため、大成を祈望するものである。

拙譯第二卷は比較的手入れを要する處が少ないから、引續き刊行し得る豫定であるが、第三卷は相當の日子を要するであらうと豫期される。然し成るべく速成し得るやう、努力を密集することは言ふ迄もない。

終りに望み、本書完成のため蔭ながら好意と間接の鞭撻を與へられてゐると聞く學界の一二權威者に對し、茲に特記して謝意を表する。

大正十四年五月九日

本郷に於いて

高畠素之

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