一三、資本主義は斷末か

高畠素之

伊藤證信の『無我愛』から、レーニンの『共産主義』に更正した河上肇博士は、新年號『中央公論』卷頭に『希有難遭の時代』なる論策を寄せられた。跋文(!)によれば、例の『マルクス主義講座』のための講演手控への由、當時、臨席の警官から中止を命ぜられた故を以て尻切れトンボのまゝ放り出されるのやむなかつたことは、我れ人ともに殘念とするところであらう。とはいふものゝ、後の文句はどうせ紋切型、特に××に宛字をするまでもなく論旨明瞭だから、魂を入れずとか、點睛を缺くとか、必要以上の謙遜をするには當らなかつたかも知れぬ。

希有難遭の時代――景氣のいゝ字面を見たゞけで、意味は不明ながら大體の氣分を察知し得べく、その點、甚だ劍劇映畫の外題に相似し、同時に一高辯論部大會の演題を彷彿せしめる。下世話ぢや七ツさがりの雨といふが、身は帝大教授で高等官一等の勅任官吏でありながら、四十を越しての共産黨煩惱は、かくばかり人間の年齡差異を超越せしめるものかと感心させられた。が、しかし、私がこゝに横ヤリの一本として該論文を選んだ所以は、博士の驚歎すべき少年化を紹介せんがためではない。次の如き誤診があつたからである。

あらゆるマルクス主義者が『資本主義の爛熟』を口癖とする如く我が河上博士もまたこれを日頃の口癖とする。御多分にもれず、該論文も『現段階』の爛熟程度を説明すると同時にかゝる結果が、如何に資本主義の必然的自滅の代りに、社會主義の必然的自生を促すべきかの示唆に終始してゐた。

資本主義が自滅するか自滅しないか、現實の證明がまだ見せつけられぬ以上は、豫言の託宣者が『祖師マルクス』であらうがなからうが、どうせ當るも當らぬも八卦なみの推量と解する外はない。隨つて、河上博士がせつかく『自滅する』と仰るに對し、何にも私が『自滅しない』と楯つく必要もなく、所詮は水掛け喧嘩に類すべきを以て、假りに自滅説を無條件に承認してもよろしい。

しからば、資本主義はいつになつたら自滅するか?

河上博士は、先づ『單なる分量上の變化もある點に達すると品質上の差異に變る』ことを立證するため、エンゲルスの比喩にならつて『水の凝集状態の變化』をあげられた。即ち『水は、通常の氣壓のもとでは、攝氏零度で液體から固體になり、攝氏百度で液體から氣體になる』如く、人間同士の生産關係――社會關係――においても、生産力の徐々なる發達の結果――資本主義的なそれから社會主義的なそれに突變するといふ(らしい)。

『……かゝる熱量の増加が徐々に蓄積されて、つひに攝氏百度に達するや、液體たりし水は突然に變化して氣體となる。それは極めて突然である。何故なれば、零度以上九十九度に達するまでは、三十度でも、五十度でも、七十度でも、九十度でも、乃至九十九度でも、水は依然として液體の形態を維持してゐるのに、最後のところでわづか一度だけ熱量を増加すると、それは突然に變化して氣體となるのであるから。』『吾々は、かゝる事例をば、自然および社會に關して、無數に列擧することが出來る。』

だが、一體それは本當であらうか?などゝ、妙に思はせ振りをするまでもなく、河上博士の説明は、比喩の『水の凝集状態の變化』に關する限りにおいては嘘である。水は九十九度で氣體とならないばかりでなく、百度の熱量を加へても決して氣體とはならない。更に五百三十六カロリーの熱量を加へなければ、一グラムの水は、その液體状態から氣體状態への品質的變化を遂げることが出來ないのである。こんな初等化學教科書的問題でも、專門外とあつて見ればさすがの河上博士も(またエンゲルスも)不案内であつたらしく、九十九度から百度への一度――即ち單なる一カロリーの熱量によつて『液體たりし水は突然に變化して氣體となる』と思つたのもやむを得ない。だが實際は、零度より百度への熱量に五、三六倍した熱量を更に加へなければ、水は依然として液體の状態を續けるのである。

もち論、そんなことは比喩的意義としては末の末であり、かつまた、かうした專門外の問題に不案内だつたことも、決して河上博士の『不名譽』を意味するものでなかつた。私にしたところで、一旦の科學的無知を『鬼の首』とし、それで揚足を取らうなどゝいふ量見の寸毫もないことを力説しなければならぬ。問題の重點は、もつと根本的なところにあるのである。

一グラムの水は、よし百カロリーの熱量を加へて氣體にならなくとも、更に五百卅六カロリーの熱量を加へれば、液體の品質を失ふこと前述の通りである。故に九十九度を六百三十五度に、百度を六百三十六度に訂正すれば、社會的變革に關する河上博士の比喩も成り立つであらう。隨つて、比喩そのものゝ適否は論じないことにするが、この『水の凝集状態』に關する偶然の誤算は、やがて『社會の生産關係』に對する必然の誤算に吻合し、いはゆる『現段階』を氣體的品質變化に近く、あまり高度に樂觀し過ぎてゐる點に對して、私は問題を提起したいと思ふのである。

『吾々は既に、生産力の方面において、何人もがかつて夢想だもせざりしところの、かつ過去千數百萬年の歴史において一度もその先例を見ることなき程度の、驚くべき發展を實現しかつ實現しつゝある』事實を認めるにやぶさかでない。がさればとて、それが『水の温度は××八十度乃至九十度』に『達してゐる』か『越えてゐる』か、如何に重寶な辯證法的認識を以てしても算定すること困難であらう。假りに、九十九度に達してゐると見ても差支へない。けれども、從來の『單なる分量上の變化』が直ちに『品質上の差異に變る』といふその限點が、目前目下のたゞ『一度』に接迫してゐるかに、欣喜雀躍するのは早計に過ぎよう。東の方が明るくなり、間もなく夜が明けるだらうなどゝあまりといへば老人の性急さではないか。

『共産黨宣言』以來八十年。水は今にも、液體から氣體への品質的變化が促されるかに大聲叱呼されながら、以來一向に他愛なく沸騰するばかり、少しも『分量上の變化』たる状態を變へさうにも見えない。變へないも道理、百度やそこらの爛熟程度では夏場の日向水も同樣更に五百三十六度も加熱しなければ、押しも押されもせぬ爛熟とは稱しがたい。

エンゲルスや河上博士が、偶然なる化學的無智から攝氏百度を水の變質限點と考へたのはあるひは瑣細の瑕瑾として看過されてもよいであらう。しかしこれがシンをなし、資本主義から社會主義への品質變革まで、攝氏百度の爛熟程度で結構らしく考へてゐるのは困る。蓋し、專門の『内』と『外』なるが故である。

もつとも液體状態におかれた水にしても、飽和蒸氣としてなら、何時たりとも氣體に變化し得るのである。九十九度の百度のと贅をいはず、零度が一度でも品質的變化が可能である〔。〕かくの如き事例は自然および社會に關して列擧し得ようが、河上博士の比喩はおのづから別個の場合に關してゞあつた。

大體マルクス主義者の金科玉條とする『資本崩壞説』そのものに對する言ひ分は、私においても、一言半句に十倍する程度の持ち合はせがあるつもりである。が、この際は野暮嚴禁なるが故に、最初にこれが假定的承認を聲名したはずであつた。その手前としても、河上博士が『今や吾々は、この無産階級がかゝる歴史的使命を自覺せんとしつゝある時代に際會してゐる』と斷定された一事に對しては、普選案に對する原敬の故智にまねて『時期尚早』を叫ばざるを得ぬ。何故だといはれゝば、名詮自稱の水掛け論となつて洒落にもならぬが、状態觀察において、水と同樣の錯覺を生産關係――社會關係に發見するからである。

狼が來たといふイソツプの寓話に併行し、キリスト教徒は昔から『世の終り』を確信し、その際にキリストが復活すべきことを高調して來た。しかるに『世の終り』は百年千年まつても來ず、キリストなどは夢さら復活しさうな氣配だに見えない。それで氣がさしたか、いつの間にやら大聲叱呼を中止し、今では内村鑑三氏の一團を筆頭とする少數が、舊套依然として末世説と復活説を固執してゐるに過ぎない。

キリスト教徒彼等は、時代と場所を超越して、今にも善惡清算の『世の終り』が來るといふ豫言を説き續けて來た。二千年この方、それが一向に實現しなかつたから、聞き手をあきれさせることに遺憾なく奏効した譯だが、マルクス主義者の崩壞説も、どうやらそんな結果になりはしないか。八十年が百年となり、二百年三百年と時日が經過すれば、肝腎の無産階級も『歴史的使命の自覺』にシビレを切らすこと必無としないであらう。かくてキリスト教徒が末世説――復活説を放棄した如く、マルクス主義者も御利益的効果を發揮せざる崩壞説を放棄するに違ひない。

さるにても、キリスト教徒といひマルクス主義者といひ、いつの世、如何なる時代をも末世澆李と觀念し、直前の將來にユトーピアを夢みるところは、いみじくも似かよひし二つの因縁ではあるまいか。科學的と自稱するに拘はらず、マルクス主義者はかくの如く、空想的要素の多量を露出してゐるのである。河上博士の『無我愛』から『共産主義』への變化も、その意味では、萬更の『品質的變化』でなかつたものと見える。


注記:

※単純な誤植は適宜直した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

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