一四、資本主義とその否定

高畠素之


我々は私有財産制度を罪惡視するものではない。私有財産制度も亦、社會進化の必要上生れたものであつて、それが社會人生の上に齎らした功績は沒却すべくもない。

私有制度の絶頂は資本主義的私有制度であつて、これが今日の文明諸國に共通した制度となつてゐる。日本も御多分にもれない。何事にも一長あれば一短あるの習ひだが、この資本主義的私有制度も亦近代文化の發展に對して非常なる刺戟を與へたと同時に、それが爛熟するにつれて種々なる弊害を釀して來たことを認めぬわけには行かない。しかもそれらの弊害は多く我が國家國體の危殆に關聯してゐる。

第一に、資本主義は營利の原則に立つてゐる。資本の目的は金錢的利益の取得といふ一點に盡きてゐる。資本の心には血も涙もない。あるものは唯、燦然たる黄金の光のみである。義理も、人情も、貞操も、良心も、國家も、國民も、この燦然たる黄金のためには自己増殖の手段と化せしめられる。金錢的利のためには、資本は如何なる犠牲をも忍び、如何なる非行をも敢てする。利益のためとあれば、國家の軍隊に砂の鑵詰を食はせることすら恥としない。國内で資本を要する場合でも、ヨリ多くの利益に誘はれるなら資本は遠慮なく外國に流れて行く。

かのヨツフエ來朝以來、我國における一部資本家及び政治家と勞農ロシヤとの間に畫策されつゝあつた國交恢復的陰謀に對して、最初から最も熱心に反對したのは我々國家主義者の一團であつたが、營利に目の眩んだ資本家政商どもは政府を動かして遂に國交恢復の野望を實現した。而して、その結果は即ちかの共産黨事件となつて現はれたのである。共産黨事件が勞農ロシヤの使嗾によつて惹起されたことは何人も疑はない。それにも拘らず、我が政府はロシヤに對して斷乎たる抗議を持ちかける勇氣がない。勇氣がないといふよりも、寧ろ日露國交によつて得られる一部資本家の利益を賭しても國家國體の危殆を救はんとするだけの愛國的至誠を缺いてゐるのである。資本的營利の至上命令は皇室中心主義一手專賣の田中内閣をも結果において勞農共産主義傳播の手先たらしめる、事ほど左樣に、資本主義の國家破壞的勢力は強いのである。斯くして、資本主義は黄金萬能と超國家との現代を招來した。これが我國家にとつて如何に危險であるかは喋々を要すまい。

資本主義の第二の弊害は、勞力の商品化である。資本主義の下に人間の勞力は公然と賣買される、賣る者は一錢でも高く賣らんとし、買ふ者は一錢でも安く買はんとする。その結果兩者の間には利害衝突を釀し勞資の階級鬪爭を助長する。

資本主義の第三の弊害は貧富の相對的懸隔をますます甚だしからしめることである。富める者はますます富み貧しき者はその割合に貧しさの程度を減じない。それもよいが、富める者の數の少ない割に貧しき者がますます多くなると同時に、資本主義的産業は大規模な社會的基礎に立つものであるから、その必然の結果として多人數の貧しき人々を空間的に密集せしめて彼等の團結を刺戟する。その結果は、無産者の大衆運動となつて現はれ、勢ひの極まるところ遂に勞資の白熱的接戰を喚び起す。

黄金萬能といひ、勞力の商品化といひ、階級鬪爭といひこれらの資本主義的惡弊を必然に結果せしめるやうな現代の社會制度は、國家國體の立場からいつて決して歡迎すべきものでない。寧ろそれを根絶することが國家主義者たる者の急務であると信ずる。しかるに、それを根絶するためには、それを必要ならしめざるやうに國家の社會制度を改善せねばならぬ。ところが、この社會制度改善は何等かの程度、何等かの形において現在の私有財産制度に斧鉞を加へずしては行はれ得ない。なぜならば、改善すべき惡弊そのものが私有制度の必然的産物であるから。

私有財産に對する制限的改善は從來でも既にいろいろな形で行はれてゐた。例へば、國家非常の際に行はれる強制徴發とか、暴利取締とか、米價調節とか、モラトリウムとか、或は諸多の國有化的施設の如き、みなそれである。我々は現在の社會状態を目して、常事も尚ほ非常な危殆に瀕してゐるものと看做すのであるから、我々にとつてはこの種の諸施設こそ寧ろ施政の平常的規準たらねばならぬものと信ずる。

私有財産制度への對立は、必ずしも共産主義の是正を意味しない、共産主義は根本において國家消滅論であるが、國有主義の徹底は強力なる國家の確立を前提せずしては考へられない。國有主義の徹底を稱して社會主義といふならば、この場合、社會主義は共産主義に對立する。

共産主義は階級鬪爭によつて、現制度の革命を遂行せんとする。が、國家によつて立つ社會主義は階級鬪爭主義ではない。資本主義の下においては階級鬪爭が必然不可避の現象たることを認めるけれども、斯かる現象は國家の存立を脅威するものなるが故にこれを根絶せねばならぬと説く。それには、どうしても階級鬪爭の母體的源泉たる資本主義制度そのものに斧鉞を加へねばならぬといふのである。

共産主義は平等主義の原則に立つ。しかしながら、すべての社會主義が平等主義だといふわけではない。少なくとも國家によつて立つ社會主義は、共産主義の如く報酬の平等を主張しない。寧ろ、各人の技能、實力、勤勉の如何に應じて報酬に差等あるべきことを認める。唯、出發點における機會均等を樹立せんとするのみである。人は生れながらにして貧富の差異があつてはならぬ。みな一樣に白紙的出發點から發足せねばならぬ。けれどもそれから先は腕次第心掛け次第である。但し、出發點における機會均等を維持せんがためには、その必然の前提として財産の讓渡及び遺産を禁ずべきは言ふまでもない。

以上は極めて著しい區別だけを略記したのだが、これによつて見ても共産主義がすべての社會主義を包括するものでなく、少なくとも國家によつて立つ社會主義と共産主義との間には、その原則的觀點において雲泥の差異あることが認められるであらう。


注記:

※単純な誤植は適宜直した。
※句読点に若干疑問があるが、底本に従った。

inserted by FC2 system