十七、圓本全集の運命

高畠素之


改造社が圓本全集の端を開いて以來、我國の出版界は擧つて圓本の渦中に投じ、圓本以外の單行本は殆んど顧みる者もない状態である。出版物といへば猫も杓子も圓本に目を向け、隨つて大小の出版社は競つて新規の圓本を計畫する。この傾向の半面には種々の變化が見られた。或る出版屋は損をして潰れ、或る者はまた、從來世間に餘り知られなかつた小さな規模から一躍幕内に浮び上るといふ如き小氣味のよい成功ぶりを示し、悲喜交々至るの有樣である。だが、この圓本傾向は結局どう納まるであらうか。

この全二年間に、圓本戰の戰場に送り出された書籍は、數量の上で恐らく從來の同期間に於けるそれの何百倍何千倍に上るであらう。このうち既に購讀者の手に渡つた實數はともあれ、兎に角、市場へ出た數は大したものである。ところで圓本も商品の一種だから、供給過多となれば恐慌は免れぬ。新潮社の世界文學全集は毎回の印刷數に愼重な注意を拂ひ、落伍を斟酌してドンドン發行部數を減じてゐるにも拘らず、既に五十萬部餘の殘本を山積させたといふ話である。これを一部三錢五厘で處分する算段とかであるが、三錢五厘でも總計すれば二萬圓近くになる。若しこの山の如き殘本が一時に市場に現はれたら、圓本界に大衝動を與へるのは必然であり、延いては出版界全般に動搖を來たし、價格の安定を保し難くなるであらう。出版屋はこの不安状態を眼前に焦慮煩悶してゐるが、殘本は燒くわけにもゆくまいから、どうにも仕方がなからう。

更らに問題となるのは、圓本購讀者の落伍率である。最初二十萬三十萬の讀者を持つた圓本でも、十回十數回と配本を重ねるうちに半減し、三分の一に減じ、四分の一に減ずるといふのが、すべての圓本の傾向である。尤も、三十四萬の部數となると、最初の數回に獲得する巨利で、後の落伍率から受ける利益減少を埋合せ得るが、それでも猶、一年二年經つうちには三十萬あるものも十萬となり一萬となり、つひにはゼロになることも必無といはれまい。今日、圓本屋の脅威の種はこれである。

次に、圓本は元來、豫約物なるが故に、それ自身の立場を持つのであるが、圓本の豫約性は結局、自己否定に陷る形勢にある。第一に、これは競爭的な圓本に著しい現象だが、讀者の歡心を買ふために申込金を廢止する風が生じた。然し申込金は拘束性あるべき豫約出版物になくてならぬ筈のもので、これがなければ豫約物の豫約物たる特質は大ぶん失はれる。また、從來の圓本は多く既刊の蒸返しであつたが、最近の經濟學全集に見る如く、今や書おろしの新著がますます多く採用されんとする形勢になつた。斯うなると、全集物も本質に於いて單行本と異るところがない。だから、書おろしの全集が一般化することになれば、豫約全集本來の立場がなくなる。文藝物にしても、同一作品を幾通りにも組んで出すのが從來の習慣だが、新著をはじめから全集で出すことになれば、從來のやり方は事實行はれ難くなる。思想物も大體は同じことである。以上の諸點から豫約圓本全集物はますます不可能になつて來る。

さうかといつて、今直ちには舊に戻れない事情もある。復舊を不可能ならしめる最大の原因は、圓本のお蔭で一册一圓の標準がつくられてしまつたことである。單行本で四六版五六百ページのものを一圓で賣るには、非常な發行高を見込まねばソロバンが立たぬ。この一點からでも、今直ちに單行本本位に復舊することは不可能である。要するに、圓本全集が豫約の特性を失ひ、單なる叢書連册物となり、結局、單行本の連册に過ぎぬ形となつて、次第に單行本本位に戻るのであらう。

最後に世間には圓本の流行を攻撃する者があつて、宮武外骨君の如き篤志家は、わざわざそのために書いたパンフレツトを小賣店に配布してゐる。が、圓本の罪惡といつたところで圓本に伴ふ謂はゆる醜惡現象は大抵みな出版者及び著者側の製造元に關することで、讀者側からいへば、あの大册が一圓で買へるのだから、泥合戰であらうと、醜惡な營業心理であらうと、兎に角、大助かりである。只だ競爭の結果、大出版社が獨占的勢力を得ることになれば、自然横暴になつて定價でも何でも意の儘にきめるといふ心配も一應は尤もである。然し、書籍は生活必需品でないから、餘り高價過ぎると思へば買はないでも濟む。それに一度圓本の味を占めた以上、獨占時代に入つ〔た〕からとてべら榜な定價に手を出す者はあるまい。この點は、他の産業方面と餘程事情が違ふといはねばなるまい。


注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

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