一九、我れは斯く見る

高畠素之

一、共産主義の『危險性』

突如として暴露された共産黨事件の餘波を蒙むり、勞農黨の結社が禁止されたり、河上博士の辭職が餘儀なくされたり、例に依つて『田中反動内閣』に對する物論は騷然としてゐる[。]敵本主義の民政黨などまで若槻時代の農民勞働黨問題を棚に上げ、如何にも政府の對思想政策が暴壓的であるかに吹聽しつゝある。烏の雌雄は誰れか知らんやであるが、唯だ茲に飛んでもない勘違ひが行はれてゐる[。]といふのは、思想の善導にはおのづから別個な思想を以つてすべく、決して國家の強權を以つてしてはならぬといつた議論である。

眼には眼を、思想には思想を、これは一見いかにも尤もらしく聞こえる。だが、思想などゝいふものは、先天的に善玉と惡玉とに分別してゐる譯でもなく、また穩健と危險とに對立してゐる譯でもない。思想を思想として抽出したゞけ[で]は、毒にも藥にもならぬこと屁に齊しく、單獨では決して威力を發揮し得るものではない。何にか知ら現實的な力と結びつき、その尻押しの勢ひを藉りて始めて力を得、惹いて善惡穩危の分岐にも結果するのである。

共産主義は經濟組織の根本的變革を目指す限り、現状維持を便宜とする見地からすれば、如何にも危險的要素を發見し得るであらうけれども、さうした危險的要素は他の如何なる社會主義的諸思想にも發見し得べく、民衆黨的綱領に於いてすら尚ほ且つ發見を困難としない。況んや、佛教哲學や老莊教義を貫流する虚無思想は、一切萬事の價値を否定する意味に於いて、危險この上もなき思想でなければなるまい。

然るに、さうした佛教哲學や老莊教義が一向に危險呼ばはりをされず、無政府主義でさへ大して問題とされぬ世に、思想的には却つて危險程度が低位なるべき共産主義のみが目の敵とされたのは、危險的要素の所在が抽象的思想にあらず、他の別個なる具象的事實にあるべきことを裏書したのである。

共産主義の危險性は、それが勞農ロシヤといふ大國の援助を受け金錢に絲目をつけながらも、日本國礎の攪亂をなしつゝあるところに求められる。我が共産黨一派と勞農ロシヤとの主從的往來は多年であり、金錢授受の關係に於いて請負的赤化が目論まれて來たことも、これ亦、先刻御承知の事實だらうと思ふ。彼等の細心なる警戒は、容易に警視廳官憲に尻尾を掴ませるヘマに陷らなかつたが、上手の手から水を洩らした結果が今度の一網打盡となつたに過ぎぬ。是れ共産主義の如き穩健思想でも大國の援助を受けて緊褌一番すれば容易に危險思想に轉化し得ることを立證したものである。故にその段は、資本主義を禮讚する餘りメリケンの援助を受け、日本に對して請負的白化を試みると同斷の危險と見るべきであらう。

國と國との爭ひは、武斷的解決に訴へるのが古來の慣例である。共産黨一派に彈壓を加へたところで不思議はあるまい。お體裁の空念佛なりにも、思想には思想をなどと言はぬ方がよい。

二、大學教授の『危險性』

河上博士の餘儀なき辭職に依り京大の有志教授が『研究の自由』の下に結束し、各大學の教授連とも聯絡して『大學の獨立』を擁護するといふ。

私に言はせれば、これも飛んだ勘違ひである。大學は國家の費用を以つて經營する高等職人の養成所であり、教授は國家の食禄を頂戴する役人に外ならない。役人であるからには例の官吏服務規律を適用されねばならず、それだけ普通一般の人民より窮屈さを忍ばなければならぬ。然るに彼等は、普通一般の人民にさへ許されてゐない『研究の自由』を自分達だけの特權として確保しようといふのである。話しがグレハマになるのも當然であらう。

研究に限らず何に限らず、自由は何人も無限に要求してやまない。だが、浮世の義理を考へればこそ私の如き一介の素浪人であつても大抵のことは我慢して不自由を甘んじてゐる。事實また、日本の國土に生れ、日本の國法に護られてゐる身であつて見れば、たとひ日本の國家から一錢の月給を貰つた覺えがなくとも、無制限な『研究の自由』などは發揮すべきでないと心得てゐるのである。それだけに尚ほ、國家の官吏たる分才で『研究の自由』などゝ云ふ手輩を見ると、その身の程を知らなさが癇癪に耐えない。

なるほど大學は『最高學府』と呼ばれる。それ以上の學制組織がない限り、學府として最高であるに違ひなからう。が、だから何故に研究の自由を絶對に許さなければならないのであるか?一視同仁なる國法の手前、どうして大學と民間とに於いて適用を二分して差し支へないのであるか?、大學の研究が神聖なら民間の研究も神聖なるべく、大學のマルキシズムが穩健で民間のマルキシズムが危險だといふ理窟はない。寧ろ却つて、世事の諸分けを知らぬ脛齧ぢりの書生に注入してこそ弊害も多けれ、浮世の波風に揉まれた苦勞人には弊害の程度が遙か鮮少に止まるであらう。にも拘らず、民間の研究は禁遏して大學の研究は解放しろといふのだから、土臺まるで話しが違つてしまふ。

思ふに大學教授連の斯うした獨善主義は、それ自體が國法の適用を二元的ならしめ、研學の自由を貧富に依つて差別せんとする限り恐るべき危險思想を代表するものでなければならぬ。若し研究に自由を許し得べくんば、自立自營の民間研究に許すべく、官立官營の大學研究などは、その性質から見て當然より以上の自由を制約すべきである。國家からお手當を頂き先生といはれる程に馬鹿にもされず、その上また『研究の自由』を獨占しようなどは、餘りといへば蟲がよすぎる。

マルクスが聞いたら臍茶を湧かすだらう。

三、國家主義の『危險性』

いはゆる左傾派が無暗にロシヤを隨喜渇仰すると反對に、いはゆる右傾派には矢鱈イタリヤを羨望讚美する風がある。前者は未だしも、後者に至つては全く低能無智が然らしめた結果が多く、飛んだ贔屓の引き倒しを憫然がられる場合も少なしとしない。

最近に於いても、ムツソリーニが豫ての宿望たる職能代表制度を徹底するため、從來の地域代表制度と共に上院の廢止を斷行せんとするや、和製黒襯衣連の中には大分狼狽したムキもあるといふ。何にしろ、それ故にイマヌエル陛下の退位が餘儀なくされさうだといふ電報だから、好意の買ひ冠りを續けて來た連中が泡を喰ふのも無理はなかつた。

赤色暴徒を鎭壓し光榮あるローマの進軍を敢行した當時は、なるほどムツソリーニも一介の暴力團長に過ぎなかつた。前門の虎を退治するため、時に後門の狼たる資本家の金錢的援助も信用したが[、]乞食の子だつて三年經てば三つである。いつまで勞働者を敵としてゐる筈もなく、實はとうの昔し後門の狼をさへ壓伏してゐたのである。そして『國民に一人の徒食者も認め』ざることを標語とし、着々として『生産者本位の政治』の實現を努力しつゝあつたのを知らず、突如として社會主義くさい看板を擔ぎ出されたから、有象無象のメード・イン・ジヤパンが面喰らつたに過ぎない。

しかし、斯く意外に考へる連中のあつた代り、反對に意内と考へた連中も少なくなかつたやうに思れる。最近に現はれた『反動』團體的活動の一端には、右傾は右傾なりに反資本主義的態度を極端に暴露し從來のプロレタリア運動とはおのづから別個な立場から逆世的氣魂を示しつゝあるものも見受けられる。果たしてムツソリーニズムの影響であるか否かは知らぬが、やがて次第にその大を加へ前後左右に猪突猛進を試みるやうなことになれば、これも一個の危險的存在たるを失はないであらう。

實際、從來のいはゆる右傾團體は、公然なる金權閥の用心棒に墮落して、餘りにも天日を恐れざる所業が多かつた。その結果、天性いはゆる右傾を好む私ごときも、我れと我が身で彼等への聲援を躊躇して來たが、悔ひ改めた右傾團體の出現なら大いに歡迎したい。――などゝ、これは少しく年寄の冷水に類するが、どのみち世間が騷々しくなるだけでも、見物席は助かるといふものである。

四、既成政黨の『危險性』

議長選擧では二票の差で與黨が勝つたが、副議長選擧では七票の差で野黨が勝つた。あちらを立てこちらを立て、いはゆる『中立議員』もなかなか味なことをやる。これで不信任案の前途も五里霧中この文章が掲載される頃には、何づれとも片づいてゐることゝ思ふが、兎に角にも成否の分岐は極めて少數の差に違ひない。

政勢の對峙が斯くまで微妙化すると、既成政黨も徒らに團體ばかり大きくて、その癖どうにも足掻きが取り難い。政友會が數度の交渉で實業同志會を口説き落としたのも、民政黨が革新倶樂部の代議士を副議長に押したのも、共に僅か三名の投票行使を味方に有利ならしめんとする策戰に外ならぬ。而かもそれがため、政友會が實同的經濟自由主義の色揚げを餘儀なくせられ、民政黨が革新的政治民主主義に牽制されてゐる圖は、牛に引かれて善光寺詣りを髣髴せしめる。

抱き込みと切り潰しの結果、民政黨は兩三名の議員を失つたとはいふものゝ、共に二百二十名を上下して對峙しつゝある。兩黨合計すれば、全員の九十七パーセント、形態だけは押しも押されもせぬ二黨對立の典型的標本だが、餘りにも接近せる兩者の勢力は、殘る三パーセントの向背に依つて勝敗が決せられ獨力では何づれも手を拱いて形勢を觀望するのみである。

事態が斯うなると、天下の大政黨も屁の河童に如かず、左顧右盻して小黨の御機嫌を取り結び、好む好まぬに拘らず小黨に惹きづられ、政綱政策の色揚げ色落としを餘儀なくせられねばならない。殷鑑近き實例は政友對實同の關係、竝びに民政對革新の關係に求められるが、而も尚ほ溺るゝ者は藁をも掴み、氏も育ちも違ふ無産黨あたりにまで渡りをつけ、目前の勝利のためには如何なる無産黨的軟化を表明するか知れたものでない。議會政治の原理が多數決主義にあり、有象が無象でも、頭顱的多數をさへ掻き集めれば萬事畢矣といふのであるから目的のためには手段を擇ばぬのが當然であらう。

斯くて、既成黨の無産黨化は、急速な勢ひで助長されると見なければならぬ。無産黨がより以上の當選率を獲得し、議會的勢力により以上の進出を加へ得れば、それだけ右の傾向は急轉するに違ひない。

普選時代に於ては、さなきだに既成政黨が有權者的多數に迎合せんとして、無産黨的軟化に傾向しやすいのである。總選擧に先立ち政友會も民政黨も思ひ切つて社會政策的な看板を掲げたが、終了後は、またも、より以上の無産者的迎合政策を案出せんため、政友會も民政黨も共に大規模な政務調査機關を設置するに至つた。搗てゝ加ふるに、政勢の微妙なる目前的對立である。本心では素より好まぬに違ひないが、院内院外の錯綜せる利害關係は、兩個の大政黨をあげて無産黨への接近を競はしめるであらう。

五、無産政黨の『危險性』

既成政黨の急速なる無産黨化に逆比例して、もう一つ豫測し得られるのは、無産諸黨の急速もしくは緩慢なる既成政黨化である。

普選第一次の選擧に僥倖を贏ち得た無産黨議員は、各派を通じて僅か八名に過ぎず、好新癖の野次馬に監視されてゐたのでは、素より大それた惡事を企らむ餘地もないであらう。だが、第二次、第三次と次第に同志を加へ、最初の處女性を喪失すると同時に世間の興味も褪化すれば、徐ろに朱色の感染を受けることも、歐米先進國の實例に徴して明瞭である。

サンヂカリストや初期のボリシエヱストは、議會主義は本質的にブルヂオア的なものだとして攻撃してゐた。私にいはせれば、ブルヂオア的であらうが、なからうが、議會政治は議會政治で別個の意義があるのである。しかしそれが本質的にブルヂオア的だといふ觀方には一應の理窟も認められる。早い話し、前述の場合の如く、既成政黨相互が無産黨の引き込みに憂き身をやつし、競爭的に妥協屈從を表明すると共に、利益條件を提供して參加を求めるといつた場合も少なからざるべく、石像や木像ならぬ生ま身の人間である限り無産黨議員と雖も鑄掛松に追隨し易いであらう。先進諸國の無産黨は斯くして墮落(?)したが、我が無産黨諸君だつて、如上の弱點は彼等に優るとも劣るとは考へられない。眞僞は知らず、現に野田爭議の解決を好餌として、民衆黨四名の誘引があつたと世上に傳へられてゐるに見ても、思ひは半ばを過ぐるものがある。

のみならず、代議士にでもならうといふ程の男は有産無産を問はず優勝慾の旺盛な者が多く、その限りに於いて大なり小なり野心家である。なかんづく我が無産諸黨と來ては、利害關係の相違で猫の眼の如く變轉し、其間に些さかの素朴性を認めることが出來ない。この三ツ兒の魂を延長したなら、天晴れ既成黨人を凌駕するオポルチユニストを養成し得べく、結局正眞正銘のプロレタリアは、彼等野心家輩の喰ひ物にされるがオチであらう。

子供が新しい玩具を貰つたやうに、今や我が無産大衆は普選に依る選擧權の行使に隨喜しつゝある。嘗ては院外團壯士の專賣だつた政談演説も、今では工場有志や鑛山有志に依つて盛んに模倣され、魚屋の八公や建具屋の熊公まで稼業をそつちのけに空地を見つけては大聲叱叫してゐる。その位だから保證金を沒収される程に慘敗した落選候補者でも、無産黨内部にあつては幅が利くものと見え、協議會の交渉會のといふ時になれば、常に出娑婆つて一言を陳述する機會を得んとしてゐるかの如くである。

未遂にして然りとすれば既遂の場合は想像に餘りあるべく、肝腎の『プロレタリアの利害』などは、空中に浮動せずんばやまないであらう。


注記:

※単純な誤植は適宜直した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
※臍茶を湧かす:ママ。「臍で茶を湧かす」か?

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