二三、プロレタリア文藝

高畠素之

『プロレタリア』文藝といふものは、私はある意味によつては嚴密に成立しないものだと思ふ。たゞプロレタリアの體驗なり生活なりを題材としたものを『プロレタリア文藝』といふならば、成立し得ると思ふ。一體に舊來の文藝は、藝術家といふ特殊の狹い私生活を主題としたものか、さもなければ貴族、富豪、軍人などいふ、いはゆる有閑階級の生活を主題にしたものが多い。實をいふと、さういふ作品には、我々は可なり食傷してゐる位であるから、こゝに眞實プロレタリアの體驗を取扱つた作品が提供されることは大いに歡迎すべきであると思ふ。けれども若しプロレタリアの階級的鬪爭上の一手段として、又は鬪爭そのものを一切としてプロレタリア文藝を主張するならば、それは文藝として存在價値なきものと思ふ。

藝術といふものは、政治上社會上その他の方面に於ける、或る目的行動の手段として存在すべきものではない。若し手段として存在し得るとすれば、それは人間が持つてゐる娯樂欲望の一つなる藝術慾を滿たす爲めに存在し得るのである。そして人間の藝術欲望といふものは、人生の生きた事實の普遍性が作者の個性を通ほして現れたところの作品に於いてのみ滿足を見出すものである。個性によつて人生の普遍性を表現するものである。個性の主張や要求を通じて提出されるところのものは藝術上の作品とは云へない。

藝術の生命は表現にある。それは恰も科學の生命が推理にあるのと同じである。科學は普遍性の推論であり、藝術は普遍性の表現である。たゞそれだけの意味に於いて兩者の存在の理由がある。

だから『プロレタリア藝術』といふものは、プロレタリアの階級運動の一手段として主張するものとすれば、藝術としては存在の價値なきものと思ふ。近頃の喧ましい『プロレタリア文藝論』といふものは、果して何れの意味に於いて主張されてゐるのだかは知らないけれども、元來文藝は主張ではないのであるから、すぐれた作品を提供して現實的にプロレタリア文藝といふものは、かうかういふものだといふことを示すのでなければ、ほんとうの意味はわからないであらう。

勿論作者自身は階級鬪爭の手段として創作したものでも、それは文藝上の貴重作品であるといふ場合はあり得る。けれどもそれは作者が階級的鬪爭論者であるが故にすぐれてゐるのではなく〔、〕その作者がさういふ非藝術的な傾向を一面に持つてゐるにもかゝはらず、他の一面に於てすぐれた藝術的才能を有してゐる結果であつて、そのすぐれた才能がすぐれた作品を作り出す原因となるのである。

たとへばゾラにしろユーゴオにしろ、社會主義や人道主義の傾向が多量に含められてゐる〔。〕或る人々はさういふ傾向があるから彼等の作品をひいきするのだといふかも知れないが、私のやうな嗜好から行くとさういふ傾向が寧ろ鼻につき過ぎて困る位である。それにも拘らず彼等の作品を見てゐると矢張り面白いと思ふ。それは彼等が藝術家として以外に社會上人道上の鬪士たる資格を持つてゐるからではなく、藝術家として邪魔物的要素なる、さういふ資格があるにもかゝはらず、尚ほすぐれた藝術家的天分を持つてゐるからであると思ふ。

ゾラの小説にはよく結末に於いて、社會主義のやうな人物に彼一流の社會理想論などを語らしめてゐる處などがあるが、そんなところは片ツ端からえぐりぬいてしまつても決して彼の作品を傷つけない。否なむしろ、さういふ藝術上の不純要素は削除してしまつた方が眞に藝術を味はひ得る讀者など何れだけ助かるかわからない。

トルストイにも多少さういふ傾向が見えるが、然し彼は一見如何に非藝術的の要素を持つてゐるかの如く見えても、これは目障りとさせないほどに、多量なすぐれた藝術的天分を持つてゐる。だから彼が小説の形で彼一流のクリスト教を宣傳したつもりで書いた作品を見ても、讀者の方ではそれが甚だしく目障りでなく、さういふ主張そのものまでが藝術的に表現されてゐるかの如く感じられる。これは彼が藝術家として如何に偉大の天分を持つてゐるかの證據であると思ふ。

彼の宗教論や戀愛論の如き評論的作品を見ても、當人はこれを純粹の評論として書いたつもりであらうが、我々にはむしろ藝術作品的の感じを與へるほどに藝術化されて現れる。彼は天性の藝術家である。

私は評論專門であつて、人の議論のあらをさがす點に於いては天性の鬪士であると任じてゐるつもりであるが、トルストイの議論のあらをさがす氣にはなれない。あらといへば全體があらそのものである。けれどもそれを私のあらさがし的本能の的にする氣にはどうしてもなれないのは、彼の評論が評論でなくて、藝術上の表現である證據であらうと思ふ。

クロポトキンにしても、世間に彼は科學者であり、社會革命家であると云つてゐるけれども、我々が彼の作品を通じて受ける印象は、一般にロシヤの傾向がさうであるやうに、矢張り藝術家としてのそれである。この點誰かゞクロポトキンを科學詩人だと云つたのは、必ずしも一場の與太的形容ではないであらうと思ふ。

かういふ風な立場から觀て私は日本現在の作家のうち誰が一番好きであるか、近來多忙のため久しく藝術方面の作品を讀むことから遠ざかつてゐるので、最近のことは何とも云へないが、正宗白鳥氏の作品などは昔から好きの方であつた。


注記:

※単純な誤植は適宜直した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

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