二五、季節おくれの文壇時事

高畠素之

黒燒の元祖

さんざゴテついた坂崎出羽問題も、興業社側の讓歩で圓滿解決の運びが着いた。何がさて片や日本一の松竹キネマであり、片や御歴々ぞろひの劇作家協會と來てゐるから、時節柄の納涼角力などより、力瘤を入れてゐたムキもあつたやうだが、無事落着したとあれば上乘である。

元々この話は、法理上にも徳義上にも、松竹側に十分な弱味がある。なるほど、坂崎出羽の巷説は吉田御殿の淫奔女性千姫に絡まる外傳的待遇を以て、普く稗史小説に傳へられた物語りに相違ない。しかし彼れ自身に立役たる地位を與へ、一個獨立せる坂崎出羽の人格を濃厚に印象せしめたのは、山本氏もしくはその書き下ろしを上演せる菊五郎氏の功績である。隨つて今日では『坂崎出羽守』といへば山本氏を想像せしめること、『ハムレツト』に於けるシエークスピアや、『イワン(1)の馬鹿』に於けるトルストイと、少しも變るところがない。而もハムレツトは傳説の燒き直しに過ぎず、イワンは俚説の色揚げにすぎないのであるが、彼等は恰もその物語りの最初の創作者たるごとく信ぜられ、無名の先達は文字どほり萬卒の役目を負はされてゐる。それもこれも天の配劑である。山本氏の坂崎出羽の場合にしてからが、一龍齋乃至猫遊軒諸家の講談種に比して幾干の新解釋があるか、尚ほ具體的には、同じ人物を扱へる岡本綺堂氏の作に比して幾干の新取材があるか、それは共に疑問だといふを適切とする。だが、『坂崎出羽守』が山本有三創作で、無名の登録を許されるに至つた理由は、おのづから別個の問題でなければならぬ。またしても比喩を求めるなら、ドラツグといへば有田音松、ホーカーといへば堀越嘉太郎で通つてゐる限り、東京ドラツグの名前で同種の新藥を發賣する某商店、ホーカー石鹸といふ名稱の紛らはしい品を捌く某商店が、商權侵害と法律で認定されても苦情を申立てる筋はない。まして超類似の商品を市場に出したのだから、販賣人松竹キネマ株式會社、ならびに製造人落合浪雄氏が、當面の槍玉に擧げられたことも已むを得ないであらう。

しかし、それはそれとして、劇作家協會及び山本有三氏の態度も傍の見る目では餘り見上げた措置とも受取れなかつた。殊に剽竊云々などの文字に至つては、逆用せしむれば、同時に敵の武器でもあり、さうなれば、單なる元祖爭ひ以上の芝居が展開されたかも知れないのである。

餅屋と酒屋

文士だからといつて、燒鹽に握り飯の精進を説く馬鹿は、さすがに當節では影を絶つたやうだ。その代り、凡人を『超人』の位置にまで祭り上げる趣味が、逆に流行して來たやうに思はれる。例へば菊池寛氏である。世態人情の表裏を説いて後進に世渡りの祕訣を誨へるなど、仲々に斯道の熱心家らしく見受けられる。素より變な文士的臭味に比すれば大助かりであるが、凡人道の讚美もさう勿體をつけられると、聊か何とかの一つ覺えといつた感じがして來る。殊にその訓話が秋江老の政治談議と同類項なるに於いて、一層かゝる印象を深くさせられざるを得ない。具體的な證明を前項の坂崎出羽問題に求める。

國法で保障された著作權の神聖を擁護し、かねて映畫、蓄音器、ラヂオ等の範圍にまで亘つて、該權利の所在を明かにせんとするのは、それ自體大いに結構に相違ない。のみならず大いに必要にも相違ないが、それが爲め法律的手段に訴へたいといふだけで、特に英雄的事業であるかのやうに誇張して考へられたり、私權確立の鬼の首でも取つたかのやうに誇張して吹聽されるのは、聊かならず世間の凡人どもが苦笑したいところであらう。今どきこんなことを得意がるのは、天下文士諸君のほか一人もあるまい。それも三百的掛引が巧妙だとか素町人的打算が明瞭だとかいふなら格別、今度の場合などは斯道の猛者松竹にうまく翻弄され、まるでサンドウヰツチマンよろしくの扱ひをされたと見るが至當である。

餅屋は餅屋だといふ。松竹ほどの廣告上手が、よしんば手前に少少(2)ぐらゐ分が惡かつたとて、禍福を轉ずる祕策のなからう道理はない。煽るだけ煽らせ、書かせるだけ書かせ、いゝ可滅のところで詫状一本と獻金三千圓を送つて落着させたなどは、轉んでもたゞ起きない商人の打算ではないか。營利目的さへ達せられるなら、詫状などは女郎の起請誓紙同樣の反古に齊しく當然の廣告料金としてなら三千圓はロハに齊しい。而も書き入れたる盆興業の前受けを十二分ならしめ得たのだから、最初から仕組んだ狂言と見られないでもない。併しまさか、それほど念の入つた詭計を用ゐたとは信じないが、時と場合によつては、かかる事實も往々なしとせぬのが實世間の常態である。

一方、劇作家協會はと見れば、詫状と獻金で有頂天になり名實共に作家の權利が確保されたと揚言してゐる。だが、世事の諸わけの肝腎な點は、そんな愚にもつかない能書や自惚で鮮明されてはたまらぬ。鳥なき里の蝙蝠と笑はれぬことこそ大事なれ!

閥族打破

『文黨』といふ雜誌がどんな内容で、何を目的とした結合だか知らないが、三面記事の傳へるところによれば、既政(3)文壇の打破を主要政策とする團體だといふ。當日の新聞に掲載された寫眞で見ても、一高三高の野球試合でゞもなければお目にかゝれぬ大旗を飜へし、麗々とそんな文句も書いてあつたやうだから、成程さうした目的のものだらうと察した。

既成文壇の打破といふのは、如何にも景氣のいゝ言葉である。しかしその代り、一向に辻褄の合はない標語である。文壇といふ語義も解釋次第では、廣狹樣々の意味に取れよう、がつまるところ、文藝的文筆業者の交友關係から成立する小集團に外なるまい。勿論その間に黨派的關心が助長され閥的利害が奬勤されてゐる事實は認めるが、それにしたところで、薩長打破などゝいふものとは根本的に性質を異にする。といふ理由は、創作品が賣れるか賣れないかといふこと、即ち時代のジヤーナリズムに投じたかといふことは、大體に於いて彼れの有する創作的手腕の優劣に依つて決せられ、黨派的便宜に左右される部分が少ないと見得るからである。引立とか仲間襃めとかに依つて、實際の商品價値以上に評價される場合も素より無いとはいへぬ。けれど、一般商品に於ける廣告に等しく、誇大廣告をしたが故に顧客の信用を永續し得るといふのではない。その段、軍人や官吏の場合とは、全然問題を異にすることを知る必要があらう。

尤もかうした商業主義そのものが不可だといふのなら、齒切れは惡いなりに一個の立場は認められる。例へば往時のプロレタリア諸士の議論だが、これだつて、文壇を否認するなら全然默殺すべきであり、尚ほ清教的には新聞雜誌に賣文などをせぬのが本當であるに拘らず冗々として文壇の積弊をかこつところ、尚ほ多くの文壇意識が見得て甚だしく愉快を缺いた〔。〕まして創作的レーセー・フエーアの原則を承認して置きながら既成文壇(優良賞品生産者)の打破を叫ぶなどは、それこそ一種の營業妨害ではないか。などゝいふものゝ、理屈は理屈〔、〕實際は實際であるから、大いに文黨を興して既成文壇の牙城に肉薄するも結構である。併しあの示威行列だけは今後願ひ下げにして貰ひたい。

構成主義の、表現派のダダの、マヴオのと、この頃色んな變り種が出沒して、頭腦と街頭との連絡に餘念がない。聞いて見れば尤もな理窟もあるが、下ツぱ馬の脚や、黄疽病みの長髪書生やを掻き集め、時ならぬ造形美術を銀座街頭に羅列するなどは、どう考へたつて健全な心理とは受取れぬ。シユライネルは宗教的狂熱は變體性慾だと喝破したが、この姿さん(4)でなくたつて、太鼓たゝいてドラ聲を張り上げる救世軍に、マゾフイズムの傾向があることは誰も認めるであらう。わが文黨諸君も、文壇打破に失敗して、エリスや羽太博士の研究材料として成功することなきやう、切に自愛を祈る次第である。

禍福轉換

文藝春秋、不同調の如き『文壇の垢』に類する雜誌が、この頃は大した賣れ行きだといふ〔。〕賣れる原因は色々あらうが、ゴシツプの多いことゝ、値段の安いことが、平凡ながら兩翼的位置を占める主要素であらう。

ゴシツプ流行の社會的原因を一考察するなどは、よくよく氣の利かない藝であるが、つゞまるところ、文士稼業に對する藝人的地位を世間で認めて來たからに外ならぬ。といつて穩當を缺くなら、文壇常識が一般化されたと訂正しても差支ない。

文壇が經國の大業などゝ考へられてゐた時代、文士は神聖な偶像を以て見られてゐた。併し今日の如く、原稿用紙一枚が何十錢乃至何十圓の貨幣價値で賣買される時代は、若干の木戸錢を拂つて入場した寄席の客同樣、これを落語家なみに遇するやうになつた。尤もこれは單に金錢の打算ばかりに由來するのではなく、普く人智が開明された結果、玄人と素人の境界線が極めて曖昧となり、文士を雲上人の如く眺める必要がなくなつたことも、餘程一般の親愛感を助長した理由に相違ない。要するに文士に對する恐怖が拂拭されて見れば、人氣稼業の華やかな商賣であり、かたがた私生活に對する穿鑿興味が刺激されるのが當然である。かくして、女子供は藝人役者の樂屋落ちを知る興味を以て、文學修業者は立身出世の關心にかゝはる興味として、爭つてゴツシプ(5)耽讀の傾向を誘ふやうになり、ゴツシプ雜誌に羽を生やさしめた譯である。

だが、これだけでは未だ説明を廣くしたとはいへない。もう一つ直接の原因は、これを敷島一個乃至二個の代金で購入し得るといふ經濟的理由にある。かう世間が不景氣になつてしまつては、内容の如何などは二の次の問題で、高からう良からうの逆に安からう買はうの心理が、一般の讀者階級を支配するのである。ところで、かうした希望をみたす上での條件は文藝春秋なり不同調なりが充分備へてゐるから、夕刊一枚買ふ氣がるさで買ふといふことになる。

是れに依つてこれを見る。文藝春秋や不同調は編輯者が手前味噌をこねる如く、不景氣にも拘らず四萬の一萬五千のと賣れるのではなく、不景氣なればこそ賣れると見る方が妥當だ〔。〕隨つて今後、不景氣の風が吹けば吹くほど、賣れ行きを増し、同時に文學青年の射倖心を挑發し、ニキビ書生を野に山に充滿せしめるかも知れない。まさかさう算法どほりに行くまいが、何にしても文壇廊下鳶の多くなることだけは想像される。而もこの廊下鳶たるや、それ自身小説本購入者階級であり、かねて購入勸誘的空氣の醗酵者である。

一陽來復して、これら有象無象の嚢中にして若し膨らむことあらば、文壇の大中小諸家に取つて偉大なる弗箱とならないものでもない。不景氣だ不景氣だといふが、人生何が幸福の原因になるか計り難く、さるにてもゴツシプ雜誌の使命や重大である。


注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)イワンのワ:もと濁音。以下同じ。
(2)少少:ママ。
(3)既政:ママ。
(4)姿さん:ママ。恐らく「婆さん」の誤。
(5)ゴツシプ:ママ。以下同じ。

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