識者

高畠素之


古往今來、指導者ヅラをする出娑婆りと、先覺者ヅラをする獨善家の絶えた例もないが、一ツぱし利いた風な口吻で、さて今時のなどとやられたら、總身直ちに粟を呼ぶの思ひがする。

識者、先覺者の廉賣屋たる文部省が、時代思想に憂慮する餘り、廣く全國の男女中等程度の學生に就き、個別的に頭腦の解剖を行つて見た。その結果はどうも『案ずるより生むが難い』ものであつたらしい。

東京日々十月十日版に紹介された調査の發表を見るに、彼等生徒は物質主義に影響されて精神的事業を重んぜず、利己主義に墮落して、沒我的、公共的精神を缺如してゐる。殊に自由平等の惡思想に影響されて、淺薄放漫に流れ、長上の權威を輕んじて、階級打破の理想に共感する者さへ出て來た。從つて信仰心を失ひ儀禮を缺き、只管利害を中心として行動云爲し、一として賞すべきものはないといふ。

精神事業を輕んじて利害打算に走り、偶像に跪拜盲信しなくなつた事が、何が故に賞すべからざるものであるか、その因由する論據は未だ耳にしない。併し我々卅代の男にいはせると、當今の中學生女學生は若輩未熟の身であり乍ら、如何にして斯くも事理に聰く情理に明かなるを得たか、寧ろ驚嘆に價する。

ありの儘の姿を正しく觀照したならば、今日沒我的犠牲的になる事は、われとわが身を絞るにも等しきものである。不幸にして過去の精神教育とやらに冒された我々は、這個の明白な道理を忘却し兎もすれば偉人崇拜の妄念に襲はれたり、服從奉公の惡念を起したり、ために處世の大道を誤る事、一再ならずであつた。

職業的識者の意味する美事美徳が、奉公犠牲及それに類似の名目を主體とする限り、正當な防衞策としても、より打算的により主我的に結束する必要がある。いふ迄もなく彼等の意味する奉公犠牲の精神とは、支配者への盲從盲信に對する虚名である。識者彼れ自身が意識するとせざるとを問はず――換言すれば頭のよき識者も惡き識者も、盲從盲信を以て、奉公犠牲を頌徳してゐるのだ。

成程奉公犠牲をされる身になつて見れば、命惟れ奉じ、令惟れ行はれる方が都合がいゝ。併しさせられる身になつて見れば、どう考へても割に合はない商賣だ。この解り切つた道理が解つたとて、それで末世澆季呼ばはりをされては、中學生も何とも恐縮の外はなからう。

これを小にしてはお互同志の交友だつて然りである。人間が神でなく、また神になれないものであるなら『斷金の交』『刎頸の友』の言葉は遂に夢想である。それは過去に於て夢想であつたと共に、將來に於ては更に夢想である。啻だ昔の奴は馬鹿だから、水中の月を掬ふが如き愚擧を企て、今の奴は悧口だから、そんなことは考へても見ないと云ふに止まる。

この意味に於て、識者が如何に慨世憂國の至誠を迸らせやうが、中學生女學生の聰明は一點疑ふ餘地もない。彼等は識者を無視し、識者を度外して、健全公正な道を進みつゝある。邦家の前途は祝福こそすべけれ、ゆめ憂ふるの必要はなからう。


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