治警

高畠素之


政治屋に武ト金、小ガ平あり、因業爺に岡半、増貫あり、更に鈴辨、山憲の名物男がゐる以上、流感、普選、文展、女世(女學世界!)の珍語が横行したつて、別段喧嘩を賣る譯にも行くまい。併し武ト金なる尊稱が、不可避的に英國ゼノアの輕蔑感を伴ふと同樣、普選の文字が小泉又次郎と小石川勞働會を聯想したつて格別筆者がお叱りを受くべき筋合でもあるまい。

この種の端的な嘔吐感を『治警』の二字に見出す。巡警、夜警といふ文字が公認されてゐるなら、治警に不思議はなからうといはれゝばそれ迄だが、舌足らずの子供ぢやあるまいし、治安警察法なら治安警察法と滿足にいつて貰ひ度いものだ。然り、この種の言葉はわが大ナポレオンの力を藉り、不可能の文字と共に、永遠に辭書の中から抹殺して欲しい。

友愛會式な勞働運動の合言葉に、『治警撤廢』といふのがある。これをパラフレーズすれば治安警察法撤廢の要求運動を意味する。『東京株式取引所仲買人株式會社玉塚榮次郎商店』が、電信略號『タマ』もしくは『タ』を慣用してゐるに比し、治警撤廢なんかお茶の子だといふなら、それも惡いと角目立てる程の野暮も持合はせない。

併し治警撤廢の旗幟が、賃銀値上や時間短縮の金言と共に勞働ブローカー及び指導者の口癖になつてゐるのは、何としても噴飯に値すべきものだ。

賃銀値上や時間短縮が、よしんば温情屋の出店であつたにしても、僅の時間働いてうんと金が貰へるなら、これに越した事はないだらう。その理窟は如何に頭の惡い奴でも了解出來るが、さて治警を撤廢して誰が得をするかとなると、物の道理が解る男なら、思ふに顏見合はせるだけだらう。

治安警察法の存在は、疑ふまでもなく勞働運動者に取つて唯一の避雷針である。考へても御覽じろ、治警と稱する安値輕便を旨とする法律があるお蔭で、いゝ加減な騷ぎも二箇月が三箇月の禁錮で誤魔化して行けるのだ。もし無慈悲な政府が出現して、このお手輕な法律を沒收してしまつたとするなら、そんぢよそこらのストライキ騷ぎも、嚴めしい内亂罪、反逆罪、騷擾罪等に引つ掛けられぬこともない。結局二三箇月で濟んだ奴が、五年七年の刑に『處』せられないとも限らぬ。

物事の道理といふのはそこにある。種痘の痛さを嫌つて、疱瘡の恐ろしさに敢然と進む暴漢ならばいざ知らず、菊面石が御免蒙り度くば先づ種痘をするに越した事はない。五年七年の刑期が嫌なら、何よりも治警擁護を心掛けねばならぬ。

處が勇敢なるわが勞働運動者諸君には、種痘に依る僅の發熟と痛さを恐怖するの餘り、種痘無用論を放言せんとする痴漢がある。彼等はジヱンナーの偉大なる恩惠に感謝する事を忘れ、焦熱地獄の苦患と而して菊面石を求めんとしてゐる。愚も亦此處に至れば愛嬌といはざるを得ぬ。

治警撤廢論者に依れば、斯くの如き時代遲れの惡法は『歐米先進國』にはないといふ。治案警察法が時代遲れであると否とを問はず、先進國に有ると無いとを問はず、苟くも種痘の恩惠を知る限りの者は、治安警察法の恩惠に感謝の涙を注ぐべきだ。斯くの如き輕便安値な良法が存在するは、帝國の誇りとして中外に宣揚すべきではないか。

治安警察法があるばかりに、『被告お前』も僅の奉公で濟み、お上だつて懲役人に無駄飯を喰はせなくとも濟む。これこそ眞に一舉兩得といふものだ。治安警察法を撤廢しようなどゝ考ヘるやうでは、慮りが無さ過ぎるにも程がある。

附記誤讀を恐れるから、種痘と治警の比喩は、その免疫性に關してゞない事を斷つておく。


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