刺れた原敬

高畠素之


白紙に表裏あり、盾に二面ある如く、浮世のこと諸事萬端は、中學三年生的頭腦では解釋出來ぬ複雜なものがある。麓の道を分け登り同じ高嶺の月を眺めても叢雲がかゝると泣面するもあり、わが權勢の如く缺けたる所なしと誇るもあり、鏡になれかしと戀情を托するもあり、兎の餅搗に憧るゝもあり、さては鼈と比較する分別者があるかと思へば、釜をぬくなどゝ噴き出す剽輕者もあるといふ具合で、全く千差萬別である。それと等しく同じ花を見るにつけても、厭世主義者は三日見ぬ間と嘆き、實利主義者は花より團子を採り、唯美主義者は一目千兩と見榮を切るといふ鹽梅で、立場々々に從つて眺むる者の目も心も變るが常である。

原敬が暗殺されたといふことでも、三木武吉と横田千之助の間には無量の距離があるべく、野田卯太郎と床次竹次郎には新しき反目が生ずべく、中央新聞記者と報知新聞記者には氣込みの相違があるべく、これまた十把一束的概論は容易に許さるべくもない。然し衆評萬口の一致する所は議會の精力家として、猛進果斷の戰士として部下を愛好する親分として、現下有數の大政治家であるといふ點には異論がないやうだ。換言すれば揚足取りの名人として、營利黨略の化身として太々しき了見の所有者として、大政治家であつたと惜しんでゐる。この日本語的意義に於ける大政治家なら天下到る所に青山と大政治家は轉々してゐる筈だが、さすがに彼れはそれらの粗製濫造品と違つてゐたものらしい。

揚足取りの別名が議會雄辯家を意味するなら、金棒曳きの別名は賢婦人と呼ぶのかも知れぬ。それが證據に、原あさ子は夫の死屍に向つて涙一滴も流さなかつたが故に賢婦人と呼ばれ、中岡のぶは悴の仕打ちに涙を流さなかつたが故に近所の金棒曳きと呼ばれてゐる。所變れば品變る。人が變れば名が變るものなら、浪華の葦が伊勢の濱荻なる如く原あさ子の賢婦人は中岡のぶの金棒曳きと、或はこれも同義異語と解釋すべきものかも知れぬ。月見る人の心と新聞記者の目はこれも立場々々と考ふべきものであらう。

それは兎に角として、原敬は何が故に殺されねばならなかつたか。例に依つて例の如く、世間の識者は我れ勝ちに勿體らしい御托宣を並べてゐる。社會的意義の何のと鹿爪らしい文句を附けるよりも、結局するところは、身から出た錆といふのが直接論法だ。誰やらの皮肉ではないが、安田が殺され原が殺されたといふので、俄にテロリズムの横行濶歩の如く考へるは、大火が二三度あつた爲めに、大火流行の社會的意義を述ぶると同樣、餘りに講壇的で齒が浮いて來る。

一將功成り萬骨枯る。原敬一人を今日の幸運に導くためには、幾多の萬骨が屍を晒らしもしたし、また踏臺にもなつて來てゐる。その最も大なる踏臺は、いふ迄もなく現在の政友會だ。政友會が絶對多數黨たるの現状を維持するに最も力を致したのは原敬であると共に、最もこれを利用したのも原敬である。然もその政友會なるものは、最も露骨なる利權中心の政治團體であり、其鋏鈎的手段を以て建造し上げたのが、尨大なる現状とそれに君臨する原敬の威望であつた。政友會一流の鋏鈎的手段は國民怨府の中心となり、延いて大親分の不人氣を齎らした。その不人氣の結果が暗殺の大團圓を告げた事を思へば、政友會原敬を殺すといふ春秋の筆法は適用される。然り、原敬を暗殺したものは外來思想や社會主義ではなく、子分子方によつて絞められたと見るが至當である。

この意味に於て、原敬に取つての身から出た錆は、兩面の意義を含んでゐる。自らの積んだ罪劫と、自らの誨へた教訓と、この二つが即ちそれである。かうなつて來ると、暗殺教唆者なんどを血眼になつて探してゐる當局は、さすがに職掌柄として忠實なものであるが、更に廣き社會關係の因果律から達觀すれば、一切是空野暮天の野暮用と申すの外はない。ハラをキルとかキレとかいつたばかりにその生半可な駄洒落が禍して、共犯扱ひにも仕兼ねられ間敷き橋本某の如きは、聊か商賣勝手が違つて悄消てゐることだらう。

原敬の三羽烏とも稱すべき阿部浩、古質廉造、岡喜七郎は、最近の不人氣者の張本人として、此際親分の死に殉じても尚ほ鞭うたるべき罪過を有す。然も尚ほ原敬にして、これらの子分の鋏鈎手段の上前を刎ねて功を成したと思ふなら、死するも尚ほ瞑すべきものがあらう。人心の機微、世事の妙諦は斯くして廻る因果のイタチごつこといふの外はない。自らの築きたる尨大なる組織が内部から腐朽し、われと我身を絞るあたりは、どうやら唯物史觀の何頁かに説明されてありさうだ。月を見て千々に心を碎く者は、原敬の死に面して無量の感懷なき能はざるものがあらう。

原敬の暗殺に對して悲嘆する着、痛嘆する者、愛惜する者、雀躍する者、それも各自の立場々々に從つて内容が變つてゐやう。然し其何づれにもせよ、多少の興奮は覺えたであらう。たゞその興奮内容に至つては、千態萬樣、月見る人の心と零犀相通ずるものがあらうといふに止まる。大は小を兼ぬといふが眞理なら、大きい大根は辛くないといふも眞理だ。原敬の死だつて、悲喜交々の感懷を湧かすに、何の遠慮があらう。


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