國家心

高畠素之


學校に私立と官立の區別があるごとく、品物に舶來と和製の差違ある如く、故意か偶然か、社會運動の分派を見渡しても、この品種の區別は大體に於て該當する。然し同じ官立中にも大學程度と專門學校程度との二派があり、更に同じ私立中にも、内務大臣免許の一派もあり、また純然たるモグリ商賣の一派もある。

官立派もしくは官營派の代表は、何といつても協調會である。協調會の温情主義、協調主義に對しては、改めて野暮をいふ必要もないが、官吏、學者、實業家の現役軍及豫備軍を編入する彼等は、純然たる權威を以て臨むところ、聊か柳屋小さんの官營藝者か、官營汁粉の皮肉味がある。

民間事業としてのそれに於ても、内務大臣免許の運動者、思想家は、産婆の免状と同樣、危險性の免疫者たる某法學士、某々指導者等を意味する。社會主義者のコソ泥式な方法はいふまでもなくモグリであつて、無免許齒醫者と同樣その取締は仲々に手酷しい。日蓮主義を以て勞働運動の指針と心得る大迫等の護國團はその如何なる點よりするも和製たる條件を備ふると共に、大方の主義者指導者は盲目的な外國模放者たる點に於てその魂は舶來根性である。

常路者はこの四派に各種各別の待遇を取り、煽てたり、脅したりしながら、操縱して行く所に職務的神聖が與へられてゐる。然るにその取締りを職業とするお役人がお役人で、する事なす事悉く見當違ひで、毎度の事ながら落語の與太郎的笑話柄を與へて呉れる。漫畫屋と時評子の窺ひ所はその御愛矯振りにある。

大體思想の取締りといふ事は、雲斬りの術と同樣に頗る手應へのないものだが此頃の役人は更に思想善導などゝ人を笑はせてゐる。牛に曳かれて善光寺に詣つたり、お役人の先導で思想を涵養したりする唐變木が、大體この世智辛い世の中にゐると思ふ所に職業的忠實さがある。

そのあり得べからざる所を、さもありさうに誤診するのはお役人の愛矯であるが、その調子で強制的に浪花節を聽かされたり義士劇を見させられたりしては、される方には飛んでもない迷惑だ。その深切がある位なら、一層のこと緘默を守つて放つたらかして置いて貰ひ度いものだ。

思想を取締るなら取締るらしく、世間の思惑に氣兼ね氣苦勞して見たり、裏手搦手から口説き落すやうなことはせずに、投獄、遠島、斬罪、打首等、飽くまでも峻嚴苛辣にやつたらよかりさうなものだ。『自怖』を以て脅しながら、つひぞそれらしい手酷しさを見せた事もなし、結局いつも龍頭蛇尾に終る取締方針は、一面からいへばお上を甘く見縊る條件ともならうではないか。アレキサンダー二世の妨遏、メツテルニヒの迫害を加へたならば、採る方も氣持ちよからうし、採られる方だつて玉石の自然淘汰が行はれ僞者は去り眞物は結束して面白くならう。

大きな聲ぢやいへないが、警察がどうの取締がどうのといつて見たところが、社會主義を商賈にして生計を立てゝゐる者が、これ程大勢社會に容れられてゐる事は、何といつても甘いもんだと笑つてやり度い。人騷がせの陰謀噺だつて、高々が治安警察法か、出版法か、新聞紙法に問はれて、××××××をするがオチである。第一社會主義文筆を以て立派に生計を立てさせて置くなどは、温情屋跋扈の日本ならではの感慨が濃厚である。肝心のお祖師樣マルクスだつて、終始一貫喰ふや喰はずで陋屋に果てたではないか。


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