石流葉沈

高畠素之


判官樣が鷹の羽、師直公が鶴の丸、由良之助が二つ巴と、忠臣藏の紋所は書下ろし以來世間の相場はかう決定されて居る。この三拍子の紋所が、各の役所を果たしてこそ大序より討入りまでの戲曲的効果を擧げ得た。これがもし、鶴の丸の直衣を着けた鹽谷判官が現はれ、中啓を振り冠つて池の中の鮒侍奴と啖呵を切つたのでは、折角の刄傷の場も大向ふから湧いて來るは必定だ。物に本來の順序あり、餅屋は餅屋、酒屋は酒屋の妙味特色を持ち合つて、始めて、『社會連帶』とやらも完うされる。

藍色の腕章を卷いて電車の運轉を指圖する所に、交通巡査の職業的妙味があり、危險人物の背後に惴々焉として扈從する所に、尾行巡査の職業的任務は存する。然るにいつぞやの例の如く、賭場の見張りを交番巡査が兼務してゐるやうな話では、どう呑氣に考へても物騷だ。物騷問題は除外しても、ドサを喰はせる商賣の巡査が、ドサを喰はせないために張番をしてゐては、高座の獨芝居と同樣、力拳固の持つて行き場がなからう。高師直が泉岳寺で主君の仇を報じたりしては、藝の巧拙は兎に角としてお客が承知しまい。

ところがこれと類似の一例が、福島の補缺選擧で興行された。吉例に依つて、反對派候補に對する選擧干渉は峻嚴を極め、警察署は政府黨の選擧本部と化し、巡査は運動員と共に、草鞋脚絆で戸別訪問をもし兼ね間敷き形勢だといふ。新聞記事をして信用すべきものたらしめば、反對黨はこれが防備の必要上巡査一人に數人の『若衆』を尾行させて巡査の涜職事犯を取締りつゝあるといふ。選擧違反事實のなきやう監視すべき筈の巡査が、取締るべき筈の人民に監視されつゝあるの滑稽は、猿廻しが猿に曳かれ、傀儡師が人形に繰られるの滑稽と何ら擇ぶところなき悲慘事項である。

日輪東に沒せざる限り、濱の眞砂と盗人の種が盡きざる限り、森羅萬象の法則は、石は水に沈むもの巡査は人民を取締るものと、公定相場が明瞭にされてゐた筈だ。帝都を離れた福島の邊土とはいへ巡査が人民に尾行されてゐるの事實は、時代錯誤とも、價値顛倒とも、何ともいふべき言葉を見出し得ない。阿呆駄羅坊主が木魚を叩いて唄ふ文句を聞けば、今の世の中、世が倒さまで、石が流れて木の葉が沈むといふ。時代錯誤といひ、價値顛倒といふも畢竟するにこのことに過ぎない。更に換言すれば、堀川の與次郎が、小猿の團扇太鼓で舞り出す滑稽事を意味する。

然し高徳博識ならざる下級巡査が、お上の命令で繰る糸のまゝに動き出す事は巡査そのものに罪過があるとはいはぬ。どうせ人形同樣の無機物と心得るなら、巡査相手に角目立てゝは、立てる方の估券問題に影響して來る。長い者には卷かるべく、泣く子と地頭には勝たれぬものと教へ込まれた日本人は、巡査と人民との別なく常にお上の命令で投票させたり、したりしてゐる選擧市場である。お上と稱する者が、時世に誇る羽振りのいゝ政治屋を中心とする持合世帶である以上その政治屋共に奉ずるに、何の不思議が巡査にあらう。その點は勞働爭議や社會主義講演會に於て、日頃の腕力を無暗矢鱈にお晴れで振り廻す巡査の心理と一對である。

下に斯くの如き訓諌された強卒を有する警察組織だけあつて、その首腦者の傍若無人振りも痛快である。全國警察の總本部たる警視廳に於て、總監岡喜七郎はこの頃證據湮滅及び證據湮滅教唆の形跡があるといふので、今や正に告發されんとするかの如き危險地帶に置かれてゐる。事實の眞僞は元より曖昧模糊の裡に彷徨してゐるが、某々勞働ブロ諸君を始めとして、逞しき想像力を惠まれた程の者はどうも怪しいと呻り立てゝゐる。これに對して總監の態度は不關焉といつてはゐるが、然し正直なところ、餘り鎧袖一觸榮えのしたものではない事は確かだ。

岡喜七郎の前身がどうあらうと、待合とんぼ女將と如何なる有機的關係がどうあらうと、その既知未知の士を問はず苟くも瓦斯問題及び阿片問題に關する豫審調書を一讀した限りの者は、彼れがそれらの事件に對して、直接か間接かの暗影を描いてゐるかに邪推し得べき節がないではない。邪推のみならず正推しても、彼れの輩下熊谷某が連座したり、被告及び證人の供述中、屡々彼れが特殊の會合に顏を出してゐるを知つたならば、氣を廻す方にも、氣を廻はされる方にも、多少なりと無理からぬ擽ぐつたさがあるらしく思へる。事實の有無は兎に角、かりそめにもそれがため天下の疑惑を購つてゐるなら、人民の保護警備に任ずべき當面の責任者であるに鑑み、速やかに處決するが平凡にして至當の措置であつた。

原敬の暗殺を以て、一身に係る全責任なりとし、死屍に向つて號泣するは愚か遂に挂冠せんとしてゐる程の彼が、何故に天下の疑惑を釋明しなかつたかは理解に苦しまざるを得ぬところだ。總理大臣の暗殺元より彼に些少の責任なしとはいはぬ。然しパルチザンの出現を以て不可抗力とする辯法によるなら、兇漢中岡某の出現も亦同樣に不可抗力なりと辯じ得る。從つて尼港虐殺事件に對する政府の責任感の所在の有無と同樣、或はそれ以上に、岡總監の辭表的意義は存在し得ない筈だ。この微妙なる良心狂たる身を持ちながら、涜職背任の嫌疑を受けた事に對して無責任だつたのはどうしても凡常人には合點の行かぬ行爲である。岡喜七郎元より原敬の手下であり、立憲政友會の平黨員である以上、親分の生命と朋黨への義理立てに辭職するといふなら、平家に非ずんば人に非ず、政友會員に非ずんば國民でないかと反問して見たくなる。

孟子の政治哲學によれば、天下は天下の天下にして、決して政友會の私有財産ではない。從つて警視總監の責任圈内は全天下を抱合する。この故に中岡某の出現に對してすら感應した彼の良心計量器は、當然瓦斯問題に對しても、阿片問題に對しても、鋭敏に感應せざるを得なかつた筈だ。然も尚ほ傲然として鎧袖一觸の虚勢を誇示したところに、政友會の警視總監としての特性を露骨に曝露してあまりある。

この點に關しては、犯罪事實の有無が問題ではなく、彼れの職業的神經の健康如何が問題である。人民の保護警備に任ずべき上長官としての彼れは、嚴密なる意味に於て、かゝる疑惑を天下に抱かしめた事に先づ神經質であらねばならなかつた筈である。

岡喜七郎といひ、福島縣の警察官といひ、その不體裁さ加減は、主も主なら臣も臣の嘆なき能はざる代物である。その背任涜職の行爲に量的差別を設けても、質的罪過に於ては、賭場のゲソを働らいた巡査と、何ら擇ぶ所なきものと斷ぜざるを得ぬ。石が流れて木の葉が沈む世の中とはいへ、さりとは餘りに悲慘な滑稽ではないか。蜀山人をして今の世に生れしめたならば、斯くの如きを稱して『乘つた人より馬が丸顏』と痛罵したであらう。警備監督される人民の長面なことは我慢しても、乘つた人間が馬以上の長面では何とも挨拶の申し上げやうがない。取締るべき筈の人民に取締られる警官は、幸にして重寶輕便なる治安警察法を有し、一寸來いを喰らはして拘留十八日に『處す』る國柄である!


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