蟲の善い學者の要求

高畠素之


森戸問題に關連して百出した議論の中で、私は之は卓見だと思つたものが三つある。一は正月中の國民新聞に出た金井博士の意見で『學問の獨立もさることながら、國家には代へられない』と云つたやうな意味のこと、之は一面に公然と國家を否定するだけの勇氣もない癖に、ヤレ自由の、獨立のと、たわいも無いことを云つて浮かれてゐる新人會や教授たちの、風呂の中の屁のやうな議論に比べると、遙かに徹底してゐて氣持ちが善い。

今一つは、二月號の『改造世界』に載つた安成二郎君の意見である。參考のため其全文を借用しよう。

『大學教授だからとて社會主義者に對するより寛大な態度を示さないところは當局を襃めてやつていゝでせう。事情は違ふが大浦兼武に對してやつたように森戸氏に對して辭職をすれば見逃がしてやると言はなかつたのは、當局の大出來です。尤も森戸氏もさう言はれて辭職して引込む人でもないでせうが。所で問題が斯う紛糾して來たのは森戸氏が帝大助教授だからで、之も官尊民卑の現はれだと思ひますが、惡いことではないでせうからやるが好いでせう。そして總てはより善くなるであらう。』

問題の紛糾を『官尊民卑の現れ』と見た點は非凡の慧眼である。

今一つの卓見は二月號『實生活』に出てゐる白柳秀湖君の『不埒な大學』と題する短評である。白柳君は曰ふ。

『大杉榮氏がクロポトキンを研究し、無政府主義を信ずるのは日本國民としてあるまじき不埒であるが、大學生及び大學教授の之を研究するは大に自由でなければならぬといふ理屈が何處にあるか。日本政府の社會主義に對する方針は、かの平民社系統の社會主義者等が、二十年來政府から受けつゝある待遇によつて初めから分り切つた事である。尤も無政府主義者として有名なクロポトキンの思想を紹介批評するほどに大膽な學者であれば、初めから相當の考へがあつてした事に相違あるまい。國家の法律は堺氏にも、大杉氏にも、森戸氏にも、河上氏にも必ず平等でなければならぬ。吾等は寧ろ此事の遲かりしを異とするものである。大學生の騷ぎが始めて新聞に傳へられた時、吾等はその結末が、必ず河童の屁の如くにして終るべきを豫言した。果然大學生の騷ぎは河童の屁であつた。彼等にして若し眞に學問の獨立の爲に叫ぶものならば、一個帝國大學の問題に就てのみ叫ぶべきでない。何となれば學問は帝國大學の獨占でないからである。』

白柳君が大學教授と一般國民との間に言論の自由(或は不自由)の平等なるべき事を主張した點は、我々の言はんとする所を其儘に言つて呉れたものとして竊かに感服してゐる。大學生の騷ぎを河童の屁と見た點も至極同感である。

喧々囂々たる衆論の中から、以上三つの卓見を引き去ると、アトは大抵似たり寄つたりの迂論愚説ばかりで、敢て問題にするがものはないやうなものだが、それが今の思想界の輿論とあれば、聊か其輿論と鬪つて見たいやうな氣もする。

言論は本來自由たるべき筈だと云つたやうな人氣とりの辯護士連や、人間の思想は自由であらねばならぬと云つた『斯うした氣分』どもの世迷言は、何ぼなんでも相手にする氣になれないが、學者方面から叫ばれてゐる研究の自由、學問の獨立の要求は、大分若い者共に共鳴されてるらしいので、此際徹底的に片付けて置く必要がある。

藝術家と稱する特殊人種が、本統の人間は藝術家ばかりだと云つたツラをする時、我々は何は兎まれ彼等の横面を小ヅキたくなるが、それは學者の場合でも同じ事である。學者は學者なるが故に特別の自由を、特別の待遇を要求すると云ふ時、其要求その事が既に學者の淺薄な自惚れを表白してゐる。日本國民は皆んな一樣に不自由をさせられてゐるのだ。學者も日本國民であり、一分業の擔任者たる意味に於て、立ン坊やデーテーや汚穢屋と少しも違はないのだ。立ン坊が無政府主義を口にして惡いなら、學者が無政府主義を紹介して惡いことも分り切つてゐる。學問は社會の一分業として貴重なものであるが、決してそれ以上に價値あるものではない。それだから學者が他の分業者以上に自由の待遇を要求するのは身の程しらずの不埒な態度として、宜しく社會的制裁を加へて然るべきであらうと思ふ。

所が此所に一つ妙な詭辯が持出されてゐる。それは河上肇博士の意見である。博士は曰ふ。

『勿論總ての人々が種々の社會的理由により樣々の束縛に甘んじつつある現代の社會に於て獨り學者のみが有らゆる方面に於て絶對の自由を要求する權利はない。……只學者は學者なるが故に學者としての本質と絶對に離るべからざる研究上の絶對自由を要求する權利と義務とを有する。……國家が大學を設けたる目的の一に學問の研究といふことが無いならば、固より問題はない。併し苟くも學問の研究を其目的の一となすならば、眞理を離れて學問なく、研究の自由なくして眞の闡明は在り得ざるが故に、大學は學問研究の上に絶對の自由を有すべきである。……死刑執行人は死刑囚を殺すの職務を有すると同じく、眞理の研究を職とする官吏は研究の自由を有する。』

蟲の善い理屈ぢやないか。國家が國民の膏血に依つて大學を設けた目的は決して『學問の研究』その事にあるのではない。國家の爲に學問の研究をさせる事にあるのだ。從つて國家に害があると認めれば、國家は何時でも其研究を差止め得るは勿論、學問の研究も常に國家の爲と云ふ制限内でなされなければならぬ。死刑執行人の例は河上博士の要求の上に却つて不利益であらう。なぜならば死刑執行人は國家から命ぜられた權限内で死刑を執行するの義務がある丈で、執行の『自由』なぞは毛頭與へられて居らぬ。命ぜられた時刻に、命ぜられた場所で、命ぜられた囚人を命ぜられた方法で執行しなければならぬ。隨分窮屈なものである。是に比べれば、大學教授などは今日でも既に過分の自由を與へられてゐるのである。河上博士は大學教授の自由を死刑執行人の不自由にまで切り縮めたいものと見える。

若し河上博士の要求する如く、學者は學者なるが故に、學者としての本質と絶對に離るべからざる、研究上の『絶對自由』を要求する權利があるとするならば、解剖學者は死體の解剖よりも生體の解剖の方が研究により便利だと云ふ譯で、矢鱈に人を捕へて殺す事も出來る筈ではないか。法律は平等であるから、他の人々に左樣な事を禁ずると同じやうに、大學教授にもそれを禁じてゐるのだ。それは他の人々に無政府主義の紹介を許さないのと同じ樣に、經濟學の教授にもそれを許さないのと同じではないか。


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