『破壞』序

高畠素之


我々は國家社會主義者だからでもあらう乎。兎かく建設的の意見を吐くと其筋から睨まれる。一昨々々春國家社會黨を造らうとした時にも、綱領中の『一切産業の國有』が宜しくないとかで、此種の建設的政策は絶對に許るすこと罷りならんと云ふことであつた。

罷りなつてもならんでも、人の思想は亡ぼすことは出來ないのだから、いつかは其方面にも發展して見るつもりだが、何しろ今は衆寡敵せず、恨みを含んで長いものには卷かれるの外はない。と云つて之からポカポカして來るのに、そうそう唖を氣取つて隅つこにばかりクスブツてゐる譯にも行かぬので、茲は暫らく大いに男前を下げて、讓歩また讓歩を忍ぶことにした。即ち□□□のことは一切口を噤むことにして、當分は□□□□で行かうと云ふのだ。

我々は功利主義者であるから、當つてくだけるやうな場合には當らないつもりである。初めから我々の力に餘ることの分り切つたやうな大物(例へば社會制度と云ふが如き)に當つたら、それこそ此方が破壞だ。當ればキツトくだいて見せると云ふアテをつけて、手頃の小物(例へば犬、猫、ウヂ蟲同然の人間の如き)から先きに片づけて行く。キリストの謂ゆる小事に忠なるの筆法を學んだものだ。

我々は町奴に白柄組を兼ねたやうな氣込みで進まうと思ふ。意氣と學問と論理と腕とで論壇を横行濶歩すると云つたら、チトご大層だが、マアそんな形であばれて見るのサ。


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