西洋人に任せろ

高畠素之


國際勞働會議は國際勞資協調會であつて、ウヰルソンは即ち床次内相の格である。床次内相の協調會が勞働者及び資本家を保護し協調すると云ふ假面のもとに實は勞働者を宥めすかしつゝ資本主義の維持繁榮を期するものである如く、ウヰルソンの協調會も亦、資本主義の存續發展が目的であつて、勞働者は謂はゞ其ダシに使はれる樣なものだ。さう云ふと、勞働者の『保護』はホンノ口さきばかりのやうに聞えるが、必らずしもさうではない。

元來、資本主義を維持しようと云ふ努力の起るは、一方に資本主義を破壞しようと云ふ傾向が見えるからだ。誰れが破壞するかと云へば、それは即ち勞働者である。そこで資本主義を維持發展しようと云ふ努力は、結局勞働者の資本主義破壞力を阻止するの努力となつて現はれる。勞働者の破壞力を阻止するには、直接の壓迫か慰撫かの外に道はない。處が歐米の如く勞働者の勢力が著しく増大せる所では、國家又は資本の權力を以て勞働者を直接壓迫すると云ふことは、もはや絶對に不可能の事と云つて善い。

そこで勢ひ慰撫にたよらねばならぬ譯だが、國家の權力を以てさへも壓へ切れぬ程發達した勞働者の事であるから、只のオベンチヤラやソラ涙では迚も慰撫し切れない。そこで結局目に見える利益で釣らなくてはならぬ事になる。

さればウヰルソンの勞資協調會は、國際勞働會議の看板を揚げた國際資本會議には相違ないが、勞働者の方から云つても、單に其代表者を送るといふ空名以外に、尚ほ多少實質的利益の得られることは拒まれぬ。

然しいづれにしても、其根本の目的が資本主義の維持發展にあることは云ふだけ野暮である。隨つて此會議が勞働者に與へる利益は高々資本主義の維持發達に妨げなき範圍に限られてゐる。それ以上の利益は『協調』では得られぬ。

所で資本主義の維持發展に妨げなき範圍の利益は、全體何を標準にして之を計算するかと云ふに、先づ第一は、勞働賃銀(時間も賃銀に換算して考へることが出來る)が勞働力と云ふ商品の價値以下に止まる場合これを價値の水準に引上げること、第二は勞働力の價値以上の賃銀を支拂つても、それに伴ふ能率の増進に依り、賃銀引上げに依つて招く利潤喪失分を優に埋合せ得る見込の立つた場合。この二つを措いて、資本主義の維持發展と云ふ立場から、勞働者に利益を與へ得る場合は考へられぬ。

今、能率の問題は暫く措き、單に賃銀と勞働力の價値との關係について考へるならば、勞働者の勞働力は先づ商品である。國際勞働會議の生みの親である國際勞働規約の勞働改善原則第一條は、『勞働は單に貨物又は商品と認めらるべきものにあらざる』ことを規定して、秀麗なる姉崎博士の美術的良心に裏書してゐるが、若し此原則を文字通りに解釋して勞働を商品でないことにすれば資本主義は倒れる。資本の唯一の存在條件たる剩餘價値(利潤、利子、地代等)は、只だ勞働力が商品であり、資本家がそれを勞働者から買受けて自己の工場内で消費すると云ふ點にのみ其根原を有してゐる。然るに其第一條に於て勞働を商品と認めざる勞働改善原則は、第二條以下に於て雇主對被傭者の關係を(即ち勞働力の賣買を)前提し、其前提に基いて標準賃銀や八時間勞働その他の事項を取扱ふの愚に陷つてゐる。之れは勞働を商品と見るに耐えられぬと云ふ人道的良心の震動か、それとも資本家は勞働者を宛ら人間扱ひすると見せかけて、實は資本主義の正體を蔽はんとするの手管か何うかは知らないが、いづれにしても時勢後れの小細工と云はねばならぬ。

凡そ今の世の中に於て、勞働力が商品であると云ふことは、太陽が東に出でゝ西に沒すると同じく自明の事實である。所で總ての商品には價値がある。而してマルクスの説に依れば、商品の價値はすべて其の生産上社會的に必要なる勞働の分量に依つて定まる。然らば勞働力の生産に於て、社會的に必要なる勞働の分量とは何か。

勞働力は勞働者の生存を前提する。そして勞働者の生存はまた其維持の爲に、一定量の生活資料を必要とする。故に勞働力を生産するに必要なる勞働の分量とは、畢竟この一定量の生活資料の生産上社會的に必要なる勞働の分量のことである。つまり一日の勞働力の價値とは、勞働者が一日に消費する生活品の價値を意味する。

然るに此生活品の分量は、時間的にも場所的にも、決して一定不動のものではない。地理と時代とに從つて動搖する。一般に文化の進んだ國若しくは地方の勞働者は、文化の比較的後れた環境に生活する勞働者に比べて、遙かに廣範圍の生活資料を必要とする。マルクスの言葉を借りて云へば『勞働力の價値決定には、他の商品の場合と違つて、一箇の歴史的及び道徳的要素が含まれてゐる。』

そこで日本の勞働力と西洋の勞働力とを比較して見るに、其價値は西洋の勞働力の方が遙かに高いことになる。隨つて西洋の勞働力が其價値通りに賣られる場合、若し其價値通りの價格を日本の勞慟力に當て嵌めるならば、それは優に日本の勞働力の價値以上である。

來るべき國際勞働會議に對する我國の態度と其提案!問題は『我國』の意味に依つて定まる。假りに我國の勞働者の立場を以て我國を代表させるならば、日本代表者は進んで提案などするに及ばぬ。何事も毛唐衆が自分本位で定めた通りをイエス、イエス、オーライ、ウヱルで有り難くお引受け申して歸るに限る。歐米勞働力の價値に一致した賃銀は、日本勞働力に取つて價値以上の價格であるからである。

若しそれ、政府或は資本家の立場から見た『我國』の態度及び提案に就ては、他に然るべき代辯者が雲霞の如く控えてゐる當節柄、敢て小生如きヤクザ者の想像が喙(1)を容れるのは畏れ多い感じがする。


(1)喙:もと「啄」。


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