超國家主義の迷妄

高畠素之


『萬國の勞働者團結せよ』と言ふ共産黨宣言の最後の一句は、今や世界の勞働階級に於ける共通の標語となつてゐる。サウエツト露國は勿論、あらゆる資本主義國に於ける勞働階級は何れも異れる信念のもとに異れる形態による階級鬪爭に從ひつゝあるに拘らず、此の標語を口にするの一點に於いては不思議にも一致してゐる。即ち資本主義に反抗し、階級鬪爭の先頭に立つものは、殆んど一樣にコスモポリタニズムの信奉者となつてゐる。

彼等の敵として憎む處のものは、資本主義であると同時に軍國主義であつて、階級鬪爭以外の戰ひはすべて皆罪惡なのである。彼等から見ると、斯の如き戰ひは何れも資本主義の侵略的鬪爭である。從つて何れの國家が勝たうと、何れの民族が勝たうと、勞働階級にとつては一向關係のない事柄だと考ヘられてゐる。勞働階級は一樣に被搾取者として、世界の資本家階級に對立してゐるが故に、鬪爭は此の間にのみ行はる可きものである。一度び資本階級が滅ぼされたる後には、最早や何等の鬪爭も行はれない、四海同胞の理想社會が實現されねばならぬものと考へられてゐる。萬國の勞働階級は、斯の如き理想の爲めに、斯の如き共同の戰鬪の爲めに、一致團結しなければならぬと言ふのである。

インターナシヨナルの企ては、萬國の社會主義者に共通な斯の如き傾向を最もよく現はしたものゝ一つで、社會主義者とさへ言へば直ちに萬國主義者であり、反軍國主義者であると考へられてゐるのが今日の状態である。

然し乍ら、吾々は斯の如き傾向を模倣して漫然と萬國主義者の信者となり得るものではない。第一、吾々には萬國主義と階級鬪爭との合一性が見出され得ない。のみならず長い間に育まれた人種的感情と言ふものが、容易に消滅し得ない事を信ずるのである。

成程、勞働者が被搾取の地位に立つてゐる事は萬國共通の事實である。然し乍ら彼等を搾取し、彼等が搾取さるゝ社會は自ら異つてゐる。甲國の勞働階級にとつて、乙國の資本階級は多くの場合他人である。搾取、被搾取の關係は、一社會内に於いてのみ存在し得る。現在の如く國家が組織された社會的結合を爲してゐる場合、搾取はたゞ同一國家内に於いてのみ行はれるのである。企業資本の貸借等に依つて、今日の資本階級が次第に世界的になりつゝある事は否定し難い。然し乍ら、それは毫も國家としての社會的結合を弛緩せしむるに至つて居らぬ。また斯樣にして資本主義が世界的となつた場合にも、勞働階級に對する搾取は必ず何れかの國家の物理的權力を最後の支持力として行はれるのである。資本階級が何れも萬國主義となり、國家としての社會結合が弛緩せざる限り、勞働階級が何れも異れる權力的社會に屬し、異れる搾取被搾取の關係に置かるゝ限り、階級鬪爭が超國家的に行はれると言ふ事は考へ得られないのである。

階級鬪爭は搾取、被搾取の事實が存在する處に於いてのみ起り得る故に、此の關係が權力的に組織された一社會内に於いてのみ行はるゝ限り、階級鬪爭もまだ(1)斯る一社會内に行はるゝ事は自明の理でなければならぬ。それにも拘らず、異れる社會に屬する勞働者が、異れる鬪爭の爲めに超國家的社會結合を爲さねばならず、又爲し得ると考へる事はあまりに大ざつぱな話ではあるまいか。

然し如何に異れる社會に屬してゐやうとも、同一の境涯に立ち同樣なる目的を持つ勞働階級の間には、一脈の相通ずるものあるを否定する事は出來ぬ。然しこれは要するに同病相憐れむ底の心情である。此の種の感情のみによつてあらゆる社會的經濟的關係を超越した團結に投ずると言ふ事は、異常なる情熱の所有者でない限り望み得られない事である。

現在の社會に於ける根底的な中心的結合は、地縁的、血縁的團體の上に懸つてゐる。人種的結合、國家的結合と言ふが如きものが即ちそれである。斯の如き異れる社會的結合が存在してゐる限り、是等の社會間に反感、鬪爭の釀される事は到底防ぎ得るものではない。人種的反感、國家的鬪爭と言へば、舊套なる偏見であり、單なる資本主義的侵略の假面に過ぎないと嘲笑するのが超國家的社會主義者等の常習であるが、斯くの如き反感鬪爭は、人種的國家的社會の成立以來、長い時日の間に培はれて來たもので、一朝一夕にして消滅し去るものではない。如何にも、從來これらの鬪爭が資本主義の利用に任ぜられてゐた事は否定し得ざる事實である。然し乍ら、資本主義に利用されて來たと云ふ事は、決して資本主義と共に否定せねばならぬものだと言ふ事にはならない。

異種社會に對する反感なるものは、階級鬪爭とは全く異れる關係に立つものである。階級鬪爭が搾取、被搾取の經濟的關係より生ずるに反して、此の人種的反感は容貌言語傳統、その他種々なる文化内容の相異より來る社會的關係なのである。人種的感情と階級的感情とは吾々の有する錯線(2)し混亂せる二面の感情であつて、前者の旺盛なる場合には後者が其影を潛め、後者が盛になれば、前者の壓倒さるゝに至るは、吾々の結合に、吾々の愛着に定量があるからである。

人種的反感なるものゝ誘發される場合は極めて多い。それは自我の中に社會的自我が入り來る結果、常に社會の品位や利害を顧慮するからであつて、社會の品位を維持せんとする念慮は、異れる社會に屬する人々の些細なる言動に對しても極めて鋭敏に働くのである。而も斯くして少數の人々が反感を抱くに至ると、社會的結合は常に同情の念を伴ふものであるから、直ちに他の人々の同情を惹いて一社會全體が一樣な反感を生ずるに至るのである。

階級鬪爭の目的を達するには、比較的長期間の過程を要し、其間鬪爭的情熱には不斷の高低あるを免れない。階級鬪爭熱の高まつた瞬間には、人種的感情は一時其後に壓倒されるであらうが、然し決して消滅するものではなく、鬪爭熱の冷却すると共に擡頭し來たるのである。他の事情を無視するとし單に此一點のみから見ても、勞働階級の超國家的團結と言ふ事は考へられないのである。然も斯の如き團結に依つて共同の敵を滅し得た後には、直ちに四海同胞の理想社會が出現すると云ふ事が超國家的社會主義者の主張であるやうだが、人種的團結、人種的感情が、直接經濟的關係に基くものでない以上、かゝる主張は空論と見るの外はない。

人類社會の關係はしかく單純な者ではない。人種的結合と階級的結合との間には何等の因果關係もないものであるから、階級對立の失はるゝ事によつて人種的對立が失はれると言ふ證據は成り立たないのである。否寧ろ、階級的感情の失はれたる曉には人種的感情は却つてより強き發動を見るであらうとも想像される。將來社會に於いて、人種的感情が失はるゝに至る事があるならば、それは全く別個の事情に依るのである。社會主義は決して全能の神ではない。人種的感情を消滅せしむる力は全く他の處にある。

然らば人類社會は永久に人種的反感を保存す可きものであらうか。社會の遠き將來に於いて、人類の持つ一切の中心的結合が失はれ、社會を貫く紐帶がたゞ全人類に對する一樣の愛その者となる時があるかも知れぬ。斯る状態に達すれば人種的結合も失はれ、コスモポリタニズムも實現さるゝに至るであらうが、然し斯樣な結果は幾十萬年の後か、幾百萬年の後かを測り知る事は出來ない。然るに吾々の想像し研究し得るは現在及び次いで來るべき將來の事に限られてゐる。吾々はそれ以上遠き將來のことを考へる餘裕心も茶氣も持合せて居らぬ。隨つて吾々は、現在に於ける勞働階級の超國家的傾向を超時間的の空理空論として嘲笑せざるを得ないのである。

人種的感情が消滅し、完全なる萬國主義が實現さるゝ迄には、實に幾多の階段を經ねばならぬ。交通機關の發達、社會的結合の錯綜化、文化の平均的發達――是等のものは何れも人種的結合を稀薄ならしむる上に必須の條件なのである。然し乍ら、是等の條件がすべて完備され、萬民平等の理想が行はるゝまでには、人類社會は尚多くの戰鬪を經ねばならないであらう。人種的結合の存在する限り、人種的反感の湧起するがまゝに鬪爭に從つて行く事は、蓋し避け難き社會進化の一過程である。遁る可らざる道程を徒なる夢想に依つて逃避せんとするが如き事は吾々のとる可き道ではない。


(1)まだ:ママ。
(2)錯線:ママ。


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