議會政策の爲に

高畠素之


社會制度の突發的改造といふことは痛快でもあり望ましい事でもあるが、之れは勢ひの問題であつて當るも八卦當らぬも八卦である。そこで此方面の改造は當れば結構といふことにして置き、萬一當らぬ場合があつても他の方面から結局同じ高嶺の月に達し得る道がありさうなものである。

此意味から、議會運動や勞働組合運動の如き組織的、『合法的』、漸進的、常識的、實際的な運動が問題になつて來る。私は嘗て八卦にのぼせた餘り、此種の運動は總て下らないといふやうな口吻を洩らしたこともあるが、今にして思へば其んなにムキになるにも當らなかつた。一獲千金(の夢)にのぼせるのも結構だ。さればとて其日々々の世帶もおろそかにはならぬ。そこで世帶は世帶で後顧の憂なからしめつゝ一方に一獲千金の方へ發展すると云ふ兩天秤も出來ぬ譯はなからう。

それで此世帶的の社會運動方法として見る時、議會政策などは先づ上の部であらう。勞働組合運動も、此意味の運動方法としては惡くはないが、私は議會運動の方がスキである。それには大した論據がある譯でもない。秋田犬よりも土佐犬、大隈侯爵よりも山縣元帥の方がスキだと云ふ位の程度である。若し強いて論據を求めるならば此んな事も云へやう。

由來、組合運動は階級鬪爭の戰線を同一工場、同一職業、或は精々同一産業といふやうな小部面に局限する傾きがあるに反し、議會政策の方は有らゆる種類のプロレタリアンを一括してブルヂオアに當面させると云ふ、即ち階級鬪爭の戰線を擴大すると云ふ強味を有してゐる。尤も組合運動の階級戰が直接資本家と勞働者との間に行はれるに反し、議會に依る階級戰は雙方の代表者間に行はれるものであるから、間接的であると云ふ非難もある。然し此非難は、勞働組合運動が多くの場合勞働者ならざる人々の指導下に立つ日本の現在に於ては帳消しになる。

要するに、私は議會政策なるものに愛着を持つてゐる。議會においては多數が決定する。而して社會主義の教ふるところに依れば、無産階級たるプロレタリアは國民の大多數を占むるものである。故にプロレタリアは、議會における決定力たり得べき可能を充分に孕んでゐる。而して立憲治下においては、議會の決定力たるものは同時に又國家政治の決定力でなければならぬ。隨つて議會と云ふ公式の正門から押し進んでも、プロレタリアの獨裁(政友會の獨裁!)といふことは行はれ得ない筈はないのである。

議會を宣傳の道具に利用するといふ程の意味に於て、議會運動に贊成する社會主義者もある。私はモツト積極的な方面からも議會政策に共鳴するものである。然し何と云つても、選擧權制度が現在の有樣では仕方がない。早く普通選擧を實現して貰ひたい。


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